第九話 『鬼』の大将
一人になってしまった。
近くに誰もいないのは、いつぶりだろう。
思っていたよりもずっと心細い。
洞窟を走りながら、底知れぬ不安に飲み込まれそうになる。
(……それでも)
足を止めてはいけない。
みんなとの約束を、おじいちゃんとおばあちゃんとの約束を。
必ず果たすために。
【灰鬼】の部屋から、走って四半刻ほど。
今までで一番大きな扉の前にたどり着く。
軽く息を整えた後、覚悟を決める。
僕は、勢いよく扉を開き、中に入った。
目に映った景色は、とても広いが、殺風景な部屋だった。
これまでの部屋とは違い、洞窟に何も手を加えていないような、むき出しの岩肌が目立つ場所である。
部屋の奥、岩を削ったような椅子に座っている長身の『鬼』がいる。
真っ赤な瞳と真っ赤な耳をした『鬼』だった。
『四天の鬼』大将——【豪鬼】だ。
その筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》の身体は、重力に逆らうように膨れ上がっている。
熊のように広い肩幅、腕は丸太のように太く、胸板は鉄の塊のように厚く、足の筋肉は大蛇のようであった。
【豪鬼】が立ち上がった瞬間、一気に周囲の空気が重くなったように感じる。
【豪鬼】の存在感が周囲の全てを圧倒し、まるで、【豪鬼】の意思が空間全体を支配しているかのようだ。
恐怖の象徴のような見た目からは、自然に相対したような安心感すら覚える。
(……息苦しい)
必死で呼吸をして、酸素を心臓に送る。
(勝てるのか? 一人で? 【暗鬼】よりずっと強い相手に?)
覚悟を決めたはずなのに、弱音が頭の中で暴れ出す。
どすん。
【豪鬼】がこちらに一歩踏み出す。
その一歩で、空気が揺れ動き、床がわずかに振動する。
こちらを見つめる鋭い眼差しに、僕の身体が貫かれる。
【豪鬼】が唇の端を吊り上げる。
その無邪気な笑みが全てを物語っていた。
(——来る!!!)
鞘から刀身を抜き、体の前に刀を構えようとした。
瞬間、目の前に岩が現れる。
(いや、違う。岩じゃない。拳だ——)
ぼごぉっ。
体が浮き、無様に転げ落ちる。
「が……っ! ぐぇっ……」
(殴られた箇所が熱い。なんだこれは。全身の穴という穴から、血と汗が競争でもしているかのような感覚に陥る)
鈍痛でくらくらしている頭を必死に動かす。
(た、立ち上がらないと)
刀を支えに気合で起き上がる。
「はぁ……、はぁ……。んっくっ」
吐き気が止まらない。
それでも。
「負けてたまるかっ!」
斬る。
僕の振り下ろした刀は、あまりにもあっさりと【豪鬼】の首に届いた。
が、動かない。
力を込める。
動じない。
もう一度、勢いをつけて刀を全力で振る。
だん、と軽い音が響く。
(なぜ? 『秘宝』は『鬼』を斬れるはずでは? あの【暗鬼】ですら、一撃で仕留めたのに?)
何度も、何度も、刀を振り上げて、下ろす。
痣すらついていない。
当の【豪鬼】はつまらなそうに、まるで、何も起こっていないように、こちらを眺めている。
「はぁ……」
【豪鬼】がため息をつく。
「……期待して、損したぜ」
【豪鬼】の拳が、顔面に向かってくる。
再び、宙に浮く。
「うぅ……っ! げほっ! ごほっ!」
意識が途切れかける。
目の前から光が失われていく。
倒れたまま、ぼんやりと考える。
(そうだ。最初から無理だったんだ。僕がこの国を救うなんて)
流れている血が温かい。
(……もう、やめよう。このまま眠ってしまおう)
そう、思った。
目を閉じて、全てを諦める。
『——も———————』
(…………)
『————も……も……。……ももたろう』
(……何か、聞こえる?)
『たとえ、どんなことがあっても、あなたを愛しているわ』
頭の中に流れた優しい声は、祖母のものだった。
『儂らは、桃の味方じゃからな』
ちょっとしゃがれた声は、祖父のもの。
『桃太郎は頼りになるぞ! わん!』
明るく元気一杯な声は、園次郎のもの。
『ききっ! 桃太郎なら大丈夫だぜ!』
はっきりとした聞き取りやすい声は、結丸のもの。
『自分を信じなよ! あんたはよくやってるよ』
心地よく澄んでいる声は、義翔のもの。
『待ってるからな! 絶対帰ってこいよ!』
幼いが気持ちがこもった声は、栗坊のもの。
(そうだ。最初から無理だったんだ。僕がこの国を救うなんて)
そんな大それた野望を持てるような器じゃない。
僕はちっぽけで、臆病で、自分勝手な人間だ。
だから。
だから、戦おう。
僕は、僕のために。
大切な人たちのもとに、帰るために。
大好きなあの場所に、戻るために。
不思議と力が湧いてくる。
さっきまで言うことを聞かなかった身体が、動く。
思い瞼を開けて、光を目に宿す。
手はガクガクと震えている。
けれど、しっかりと刀を握る。
足はブルブルと震えている。
それでも、立ち上がり、背筋をしゃんとする。
目の前には【豪鬼】。
「……何だ。……まだやるのか」
【豪鬼】は、もう僕に興味はないようだ。
それでも、僕はやらなければならない。
目の前の【豪鬼】を見て、ふと考える。
僕の人生で、後にも先にも、この『鬼』よりも凄い人に会うことはないのだろう。
「ふぅ——」
一呼吸おいて、地面を強く蹴る。
「はぁああああっっっっ!!!!」
畏敬の念とともに、あらん限りの力で《吉備津》を振る。
ざんっ!!
【豪鬼】の肩から、血が噴き出す。
赤く染まった肩を見て、【豪鬼】が、にやりと笑う。
「やれば出来んじゃあねえか! 坊主!」
【豪鬼】が、瞬く間に間合いを詰めて、拳を振るう。
僕の体が、浮遊する。
それでも、刀を振る。
【豪鬼】が振った腕が、切り裂かれ、赤い血が噴き出す。
「最っ高じゃあねえか!!! おい!!!」
空間を震わせる【豪鬼】の大声は、嬉しくてたまらないといった様子だ。
素早く受け身をとり、《吉備津》を構える。
【豪鬼】の凄まじい蹴りが、風を切り、爆音を轟かせる。
——斬る。
「……っ!? がははっ!!!」
【豪鬼】は笑いながら、拳を振り下ろす。
——斬る。
「ははっ!」
——拳、斬る。蹴り、斬る。手のひら、斬る。頭突き、斬る。
——打撃、斬る。殴打、斬る。蹴撃、斬る。強打、斬る。衝撃、斬る。衝突、斬る。突撃、斬る。進撃、斬る——————
————何度繰り返したのだろうか。
体中から流れる血が、もうどちらのものか分からない。
ぴきっ。
《吉備津》が小さく悲鳴をあげ、ひび割れる。
(——今までありがとう)
僕は心の中で、小さく微笑む。
(……振れて、あと一回だろう。もう、ほとんど握力は残っていない)
お互い、ふらふらで満身創痍。
言葉はいらない。
どちらともなく、お互いの得物を構える。
これで最後だ。
ゆっくりと【豪鬼】に近づき、《吉備津》を振る。
刀と拳がぶつかる。
骨がギシギシと苦痛を叫び、筋肉がブチブチと泣き喚く。
食いしばった歯はギリギリと悶え、全身がもう限界だと激昂する。
心が負けるなと強がる。
残っている力を、ありったけつぎ込む。
「うあああああああああっっっっっっ!!!!」
「ウオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!」
パキン!!
《吉備津》の刀身が折れ、弾け飛ぶ。
(……ああ、終わった)
僕は、膝から崩れ落ちる。
「……最高だったぜ。坊主——」
——ドンッ!!
【豪鬼】が、倒れた。
僕の、勝ちだ。