104.「家に着いた」
「家に着いた」
「私は玄関に靴を脱ぎ捨てながら、
口早に、ただいまを言い、
そのまま自分の部屋に駆けていった」
「息を切らせたまま、カバンを開け、
中から、
買ってきたばかりの、真新しい絵本を取り出す」
「色鉛筆を使った、優しいタッチの絵」
「表紙には、
明け方の空に浮かぶ、薄っすらとした白い三日月と、
下の方に、
誰もいない砂浜と、そこに寄せる穏やかな暗い海が描かれていた。
そして、
その、浜辺近くの、
暗い海の水面からは、
小さな赤い魚が、1匹だけ顔を出しており、
物寂しそうに、月を見上げていた」
「私は、赤い魚の下に書かれている彼女の名前を、
しばらくの間、じぃっと見つめ、
やがて、自分の呼吸と鼓動が少し落ち着いてきたのを見計らって、
絵本のページを、
静かに、ゆっくりと捲り始めた」
『月夜の海と 赤いお魚』
遠い遠い、はるか南の常夏の島。
青い空と白い雲。
きれいな海と、きれいなサンゴ。
色とりどりの魚たち。
その、あたたかい海の片すみで、
小さな赤い魚が、1ぴきだけで暮らしていました。
赤い魚は、
もともとは、こことは別の海で、
たくさんの仲間たちといっしょに、群れで暮らしていました。
群れの仲間たちは、
みんな同じ姿で、同じ色。
兄弟のように、そっくりでした。
でも、
その赤い魚だけ、ちょっと違っていました。
目が大きかったのです。
目の大きな赤い魚は、
そのせいで、
群れの魚たちから、毎日のようにイジメられ、
毎日のようにナミダを流していました。
そして、
ちょっと前に、ついにガマンできなくなり、
群れを飛び出し、
1ぴきだけで、
この、あたたかい海へと逃げてきたのでした。
ある晴れた日、
赤い魚は、
太陽の光が差しこむ、明るい海を泳いでいました。
海草の実を探していたのです。
赤い魚は、
甘くておいしい、その海草の実が大好きでした。
赤い魚が、海の底に広がる海草の森の中を泳いで、
好物の実をせっせと探し回っていると、
向こうの方から、
体の大きな魚たちがやって来ました。
「なんだコイツ。
目が大きくて、ちょっとヘンだぞ」
「からかってやろう」
体の大きな魚たちは、
体の小さな赤い魚を、みんなで追い回し始めました。
赤い魚は、
海草の森の中を必死になって逃げましたが、すぐに追いつかれてしまいます。
「そんなにあわてて逃げなくてもいいじゃないか。
オレたちと、ちょっと遊ぼうぜ」
体の大きな魚が、そう言って、
逃げ回っている赤い魚の尾ビレに、
ガブリと、かみつきました。
赤い魚は、それを振りほどこうと、
とっさに、力いっぱい体をよじりました。
すると、
赤い魚の尾ビレの一部が、ちぎれてしまいました。
「しまった。つい食いちぎってしまった」
「どうする?。
ほかの魚を傷つけたことが海の主さまにバレると、怒られちゃうぞ」
「逃げよう」
「そうだ、逃げよう」
「でも、
コイツが海の主さまに告げ口したらバレちゃうぞ」
「どうする?」
「どうしよう?」
「みんなでシラを切れば、へっちゃらさ。
やったのはオレたちじゃない・・・って、ウソをつけばいい。
だれも見ていないし、バレっこないさ。
ほら、行こう。
さっさと帰って、ダンスの練習をしよう」
「そうだった。早く帰って練習しよう。
今度こそ、ダンス大会で一番になって、
それで、
海の主さまに、好きな願いを叶えてもらうんだ」
「行こう行こう」
体の大きな魚たちは、
そう言って、みんな遠くに去っていきました。
海の森の、大きな海草のカゲに隠れていた赤い魚は、
それを見届けると姿を現し、
離れたところへと、すぐさま逃げようとしました。
でも、うまく泳げません。
尾ビレが欠けてしまったため、上手に泳げなくなってしまったのです。
赤い魚は、海の底をズルズルはって、
大きな目からナミダを流しつつ、逃げていきました。
赤い魚は、それからは、
海の底を滑るようにして、泳ぐようになりました。
尾ビレで、
海底を、ポンポン・・・と器用にけとばして、
ちょっとずつ前に進むのです。
そして、昼間は、
ほかの魚たちに見つからないよう、岩場のカゲにじっと隠れて、
夜になってから姿を現し、
月の光が差しこむ、
静かで穏やかな海の底を、
1ぴきで、
コソコソと泳ぎ回っていました。
ある夜のこと、
赤い魚が、好物の海草の実を探し、
海底の砂を、
ポンポン・・・と、けとばして泳いでいると、
前の方から、
体の模様がシマシマの魚がやって来ました。
そのシマシマの魚は、
赤い魚と同じく、
尾ビレで海底の砂をけとばして、泳いでいました。
赤い魚は、
またイジメられないか、心配でしたが、
勇気を出して、
そのまま、近づいてみることにしました。
赤い魚が、そばに行くと、
シマシマの魚は海底をけとばすのやめて、止まって言いました。
「オレも、上手に泳げないんだ」
赤い魚も止まりました。
シマシマの魚の尾ビレを見て、口を開きます。
「でも、
あなたの尾ビレはワタシと違って、どこも傷ついていないわ」
「うまく動かせないんだ」
「まぁ、そうだったの。
疑ってしまって、ごめんなさい」
「似たもの同士、いっしょに暮らそう」
「えぇ、よろこんで」
2ひきの魚は、
そうして、いっしょに暮らすことになりました。
赤い魚は、幸せでした。
それまで、ずっと1ぴきだった自分に、
ようやく仲間ができたのです。
「あそこにある海草の実、食べてみて。
甘くて、おいしいのよ」
「ホントかい?。
でも、高いところにあるから食べられないよ」
「ワタシが取ってきてあげるわ」
赤い魚は、海草の根元へ行き、
パタン・・・と横になって、
そこの、サラサラとした白い砂の上に寝そべりました。
そして、尾ビレをわずかに持ち上げると、
次の瞬間、
海底の砂を、力いっぱいビターンと叩き、
高くジャンプしました。
そのまま、海草の実のところまでグングンと上がっていき、
ひとつだけ、パクっと口でくわえて、
そうして、
シマシマの魚が待っている海底へと、ゆっくり下りていきました。
「こうやって取るの。
ほら、これはあなたにあげるわ」
赤い魚は、
取ってきたばかりの海草の実を、シマシマの魚の前に差し出しました。
「ありがとう」
シマシマの魚は、
お礼を言って、その実を食べました。
「どう?、おいしいでしょ?」
「・・・うん、おいしい」
「まだまだ、いっぱいあるの。
ワタシが、取ってきてあげるわ」
赤い魚は、シマシマの魚のために、
くり返しくり返し、何度も何度も高くジャンプし、
海草の実を、たくさん取ってあげました。
そして、
疲れて高くジャンプできなくなると、砂の上で横になったまま少し休み、
しばらくしてから、
また、尾ビレで海底の砂を力いっぱい叩き、
今度は自分の実を取るために、ジャンプしました。
赤い魚は、
その日、
好物の海草の実を、いつもの半分しか食べられませんでした。
でも、いつもの何倍も幸せでした。
いっしょに暮らすようになって、10日が過ぎました。
いつものように、月明かりが照らす海底を、
2ひき並んで、
ポンポン・・・と、けとばして泳いでいると、
イルカの背ビレのような、とがった形のサンカク岩のところで、
シマシマの魚が急に止まって、言いました。
「ちょっと用事を思い出した。
先に行っててよ」
赤い魚も、
すぐに止まって、言いました。
「また用事?」
「うん、また用事」
「じゃあ、
ワタシ、ここで待ってるわ」
「いや、先に行っててよ。
すぐ追いつくから」
「・・・最近、
ワタシの見えないところで、よく何かをしてるみたいだけど、
いったい何をしているの?」
「何・・・って、だから用事だよ。
なんだって、いいじゃないか。
すぐ追いつくからさ。先に行っててよ」
少しの間、シマシマの魚の目をじぃっと見ていた赤い魚は、
やがて、口を開きました。
「わかったわ。
この先にある、オレンジ色のサンゴの森で待ってるから」
そう言ってから、クルリと向きを変え、
尾ビレで、ポンポン・・・と海底をけとばしつつ、
1ぴきで泳いでいきました。
そして、
待ち合わせ場所の、オレンジ色のサンゴの森に到着すると、
たった今、自分が泳いできた方に向き直り、
近くのサンゴに寄りかかりました。
シマシマの魚がいる、サンカク岩は、
ここからでは見えません。
赤い魚は、顔を上に向けました。
サンゴの、
カクカクとした枝のすき間の、はるか向こうの方に、
沈みかけの、半分の月が、
ぼんやりと白く、輝いていました。
しばらくすると、
辺りが急に、フッ・・・と暗くなりました。
赤い魚は、顔を上げました。
空に月がありません。
もう、沈んでしまったのです。
夜空には、
数えきれないほどの、たくさんの小さな星たちが、
宝石のようにキラキラと、
そこら中で、またたいています。
赤い魚は、
サンカク岩の方へ、目を向けました。
シマシマの魚は、まだ現れません。
(もしかしたら他の魚たちに見つかってしまって、
イジワルをされていて、
それで、ここに来られないのかもしれない)
心配になった赤い魚は、戻ってみることにしました。
星明かりの中、
サンカク岩のところまで、ポンポンと戻ってきました。
しかし、
シマシマの魚は、いませんでした。
あわてて、辺りをキョロキョロと見回します。
ちょっと離れたところに、シマシマの魚の姿がありました。
海底の砂地の上で、
何かを見上げたまま、口をせっせとパクパク動かしています。
その、シマシマの魚の見ている先には、
赤い魚の知らない、もう1ぴきのシマシマの魚がいました。
ときどき尾ビレを動かし、その場でプカプカと浮いています。
砂地の上にいるシマシマの魚を見下ろし、
こっちも、口をパクパクと動かしています。
何かを話しているようでした。
しかも、
2ひきとも楽しそうです。
赤い魚は、
シマシマの魚たちに気づかれないよう、岩場のカゲからカゲに隠れて移動し、
コッソリと近づいていきました。
「そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
砂地の上の、
赤い魚といっしょに暮らしている方の、シマシマの魚の声が聞こえました。
海中にプカプカと浮いている方の魚が、
すぐさま、聞き返します。
「なんて言ったの~?」
「ワタシが取ってきてあげるわ」
「え?。
でも、デカい目のソイツ、うまく泳げないんでしょ~?」
「そう、泳げない」
「じゃあ、どうやって取ったの~?」
「それがもう、おかしくってさぁ。
こうやって寝そべって・・・、」
砂地の上の、シマシマの魚は、
パタンと倒れて、横になり、
「自分の、ぶかっこうな尾ビレを海底に叩きつけてさ、
こんな風にジャンプしたんだ」
と言って、
尾ビレを海底に力いっぱい叩きつけ、高くジャンプしました。
「なにそれ~。チョーうける~」
プカプカ浮いている方の魚は、
自分の目の前まで上がってきたシマシマの魚を見て、体をくねらせ、
大いに笑いました。
「だろ?。
で、そうしてアイツが取ってきた海草の実だけど、
どう見ても、おいしそうじゃなくてさ・・・」
「え~。でも、ソイツの好物なんでしょ~?。
甘くておいしい・・・って」
「うん、そう言ってた。
だから、仕方なく食べてやったんだけどさ・・・、
正直、味はイマイチだった。
ガッカリしたよ」
「え~、ひど~い」
「それで顔を上げたらさ、
アイツが、あのデカい目でオレを見つめて、
どう?、おいしいでしょ?・・・って得意そうに言うもんだから、
つい、
おいしい・・・って答えちゃってさ。
そしたらアイツ、
なぜか急に、はりきり出して、
あの、おかしなジャンプを何度もくり返して、
山のように取ってきてさ。
ぜんぶ食べるの、大変だったんだぜ」
そう言った、砂地の上のシマシマの魚は、
海草の実を次から次へと食べるマネを、
おもしろおかしく、ひろうしました。
プカプカ浮いている方の、シマシマの魚は、
それを見て、また体をくねらせ、
大いに笑いました。
そして、
少しして、その笑いが収まってくると、
「ねぇ」
と、声をかけました。
まだ、海草の実を食べるマネをしていたシマシマの魚は、
動きを止めました。
浮いている方の魚を見上げ、聞き返します。
「なに?」
「きのう来た子も、同じこと言ってたと思うけどさ~、
そろそろ群れに戻ってきなよ~。
先生も、
アイツはどこに行ったんだ・・・って、カンカンになって怒ってるよ~」
「・・・いや、
オレ、まだ尾ビレをうまく動かせないからさ」
「・・・そうなの?」
「うん・・・」
「わかった。
とにかく戻ってきたくなったら、いつでも戻っておいでよ~。
みんな待ってるからさ~」
「・・・わかったよ」
「じゃあね~」
プカプカ浮いてた方の、シマシマの魚は、
そう言って身をひるがえし、泳いで帰っていきました。
岩場のカゲに隠れていた赤い魚は、
その2ひきの会話を聞いていました。
ショックでした。
「さてと、そろそろアイツのところに行くか」
残されたシマシマの魚が、
そう言って、体の向きを変えたときです。
岩場のカゲから顔をのぞかせている、赤い魚の姿が目に入りました。
赤い魚は、
ぼう然とした様子で、こちらを見ています。
シマシマの魚は、あわてて言いました。
「よ、よう。来てたのか」
「・・・」
「こ、これから急いで向かおうと思ってたところなんだ。
ほら、早く行こう」
それを聞いた赤い魚は、
シマシマの魚の方へと、ゆっくり近づいていき、
そうして、
こわい顔になって尋ねました。
「・・・どういうこと?」
「え?、どういうこと・・・って?」
「用事がある・・・って言って、ときどきいなくなってたけど、
いっつも、こうやって、
カゲでワタシのことバカにして、笑いものにしてたの?」
「い、いや、
それは、その・・・」
「ワタシ、
あなたのこと、ずっと信じてたのに・・・。
ひどい!」
赤い魚が、責め立てると、
シマシマの魚は、急に怒り始めました。
「なんだよ!。
1ぴきだけで寂しそうに泳いでたから、
ダンスをサボるついでに、いっしょにいてあげたのにさ!」
「”ついで”?。
ワタシとは、今までずっと”ついで”で暮らしてたの?」
「そうさ!。
ダンスのレッスンが厳しくて、
それで、
尾ビレが動かなくなった・・・って、先生にウソついてサボってたら、
ちょうど、お前の姿を見つけてさ。
こりゃ、いいヒマつぶしになりそうだ・・・って思って、
それで、サボる”ついで”に、
お前といっしょに暮らしてみただけさ!。
それだけさ!」
「ひどい!。
ワタシのこと、好きでも何でもなかったのね!。
たんなるヒマつぶしだったのね!」
「あぁ、そうさ!。
お前みたいに目がデカくて、ろくに泳げない魚なんか、
だれが好きになるかよ!。
じゃあな!」
シマシマの魚は、そう言い残して、
自由に動く尾ビレを使い、海をスイスイ泳いで去っていきました。
赤い魚は、
シマシマの魚の、小さくなっていく後ろ姿を、
こわい顔をしたままで、
ずうっと、にらみ続けていました。
腹が立って腹が立って、仕方がありませんでした。
その、シマシマの魚が海の向こうへ消え、
ちょっとしてからのことです。
赤い魚は、
ふと、辺りの海の静けさに気づきました。
近くには、だれもいませんでした。
魚の姿も、
クラゲの姿も、
ヤドカリの姿も、見あたりません。
星明かりがかすかに照らす、どこまでも広い海の底には、
自分しかいません。
夜の海は、
しん・・・と、静まり返っています。
赤い魚は、急に寂しくなりました。
そうして、少しすると、
心が苦しくなってきて、
どんどん、どんどん苦しくなってきて、
ガマンができなくなってきて、
ついには、
その大きな目から、ポロポロとナミダがあふれてきました。
次から次へと、
たくさんたくさん、あふれてきました。
止まりませんでした。
赤い魚は、その夜、
ひっそりとした海底の、うす暗い砂地の上で、
そのまま、
1ぴきで泣き続けました。
やがて、朝になり、
日が昇って、辺りの海が明るくなっても、
泣き続けました。
夕方になり、日が沈み、
ふたたび海に暗い夜が訪れても、泣き続けました。
何日もの間、泣き続けました。
1ぴきで、泣き続けました。




