父と息子
木々の葉が風にそよぐ静けさの中に、乾いた木撃音が連続して響き渡っていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
荒い息を吐きながら、本間陽樹は汗に濡れた前髪を激しく振り払った。握りしめた木刀の柄は、己の汗で滑りそうになっている。
放課後の演習場。夕陽が朱色に染める訓練台の影から、呆れたような、けれどどこか温かみのある声が届いた。
「また大技を狙って隙だらけ。相変わらず大雑把ね、陽樹は」
黒髪をなびかせて歩み寄ってきたのは、佐藤櫻だ。彼女は腰に手をつきながら、地面に転がっていた水の入った竹筒を陽樹に向かって放り投げた。
「サンキュ、櫻」
陽樹は受け取った竹筒の水を一気に喉へと流し込む。火照った体内に冷たさが染み渡っていく。
「ふん、言われなくても分かってるさ。……けどな、普通にやってちゃダメなんだよ」
「また『英雄の息子』なんて周りの声、気にしてるの?」
櫻の素直な問いかけに、陽樹は視線を落として口を噤んだ。
かつてこの里を、そして忍界全体を壊滅の危機から救った伝説の忍者——本間豪樹。それが陽樹の父親だった。
どこへ行ってもついて回る「あの英雄の息子」という名声と過度な期待。あるいは、「親の七光りに過ぎない」という冷ややかな視線。陽樹がどれだけ努力を重ねても、周囲の評価は常に父親の影を通して語られた。
「気にすんなと言われても無理だろ。俺は……俺の力で『最強の忍』になりたいんだ」
「焦りは刃を鈍らせるぞ」
静かな、しかし氷のように澄んだ声が演習場の入口から響いた。
腕を組み、木に背を預けて立っていたのは、鈴木佐助だった。名門・鈴木一族の血を引くエリートであり、校内でも常にトップの成績を誇る男だ。そして——櫻の幼なじみでもある。
「佐助……」
陽樹は木刀を強く握り直した。同じ学年でありながら、これまでまともに言葉を交わしたことは少ない。だが、誰もが認める天才である佐助の存在を、陽樹は強く意識していた。
「佐助君、来てたんだ」
櫻が声をかける。幼少期から共に育った二人の間には、どこか落ち着いた空気が流れていた。佐助は櫻に軽く一瞥を送ると、再び冷ややかな黒い瞳を陽樹へと向けた。
「本間陽樹。お前が見ているのは父上の『名声』であって、己の足元ではないんじゃないか?」
「なんだと……!?」
「名門の重圧も、英雄の影も関係ない。忍に必要なのは結果だ。大技に頼る焦りが見えるようでは、お前が『最強』に至ることなど万に一つもない」
淡々と放たれる言葉には、一切の容赦がない。陽樹の胸に熱い怒りと対抗心が燃え上がる。
「言わせておけば……! 俺の何を知ってるってんだ!」
「何も知らん。知る必要もない」
佐助は興味なさそうに踵を返すと、歩き去っていく。
陽樹は去っていく佐助の背中を、悔しそうに睨みつけた。
「あいつ……! なんであんなに偉そうなんだよ!」
「もう、陽樹ったら。佐助君は昔から口数が少なくて誤解されやすいけど……陽樹の危うさを指摘したつもりなのよ」
櫻は苦笑しながら、去っていく幼なじみの背中と、不満気な陽樹の顔を見比べた。
夜。里の灯りがぽつぽつと点り始める頃、陽樹は一人、自宅の裏手にある小高い丘の上に立っていた。
そこには、一基の小さなが置かれている。父・豪樹の墓標だった。
風が草木を揺らす音を聞きながら、陽樹は額の額当てをギュッと握りしめた。脳裏に蘇るのは、幼い頃に見た父の姿だ。
誰もが「英雄」と崇める父だったが、家の中では料理を焦がして失敗したり、陽樹と風呂に入って無邪気に笑ったりする、ごく普通の不器用な父親だった。
『陽樹、聞いておけ』
耳の奥で、懐かしい父の低く温かい声が再生される。
『本当の強さってのはな、誰も追いつけない派手な術や、生まれ持った特別な血筋のことじゃない。大切なものを守りたいと願う強い心と……泥を舐めても決して諦めない、しぶとさのことだ』
父は天才ではなかった。幾度も挫折し、傷だらけになりながら、それでも仲間を守るために立ち上がり続けた人物だったのだ。
(そうだったよな、父さん……)
陽樹は自嘲気味に微笑み、目元を拳で擦った。
(佐助の言う通りだったのかもしれない。俺は父さんの誇らしい名前を守りたくて焦ってたんだ。俺は……父さんみたいに、誰かを守れる強い忍になりたいんだ)
迷いが消え、胸の奥で熱い炎が揺らめいたその時だった。
「——誰だ!?」
静寂を切り裂くように、里の境界付近から鋭い金属音が響いた。クナイとクナイがぶつかり合う音だ。続いて、幼い悲鳴が聞こえる。
「……っ! 演習中の下級生たちか!?」
陽樹は一瞬も躊躇することなく、地面を強く蹴った。
竹林の暗がりの中、二人の忍学校の生徒が追いつめられていた。その前に立ちはだかっているのは、異形の仮面をつけた異国の不審な抜け忍だ。
「へっ、里のガキどもが。運が悪かったな」
不気味な刃が、怯える子供たちに向けて振り下ろされる。
「やめろぉぉぉっ!!」
空中から飛び込んできた陽樹の木刀が、間一髪で抜け忍の刀を弾き飛ばした!
「陽樹先輩!?」
「下がってろ! ここは俺が引き受ける!」
着地と同時に、陽樹は体勢を低く構えた。相手は実戦をくぐり抜けてきた本物の忍。醸し出す殺気は、学校の訓練とは比べものにならない。背中に冷や汗が流れる。
「ガキが、英雄気取りか!」
抜け忍が高速で肉弾戦を仕掛けてくる。鋭い蹴りと拳のラッシュ。陽樹は必死に木刀で防ぐが、威力を殺しきれず、竹林の幹へと激しく吹き飛ばされた。
「ぐはっ……! ガハッ……!」
背中に激痛が走り、視界が歪む。口の中に鉄の味が広がった。
「ハハッ! 口ほどにもない。『英雄の息子』も、所粋はこの程度か!」
見下ろす敵の刃が光る。絶体絶命の瞬間。
(……諦めるかよ)
陽樹は泥のついた顔を上げた。血の混じった唾を吐き捨て、震える足でゆっくりと立ち上がる。
(泥を舐めても、立ち上がる……! それが、俺の父さんだ!!)
「なに……!?」
陽樹の目から、強い意志の光が放たれる。
敵が踏み込んでくる一瞬の隙——陽樹は素早く懐から「煙幕弾」を取り出し、足元へ叩きつけた。
煙が爆発的に広がる。
「チッ、足掻きを!」
煙の中から飛び出した陽樹の姿に、敵は刀を振り下ろす。だが——それは陽樹が脱ぎ捨てた上着を使った囮だった。
「しまっ——」
「ここだぁぁっ!!」
敵の死角、頭上から泥だらけの陽樹が落ちてくる。全身の体重を乗せた、愚直で泥臭い一撃の「膝蹴り」が、敵の仮面を粉砕した!
ドガンッ! と大きな音が響き、抜け忍の巨体が地面に沈む。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
着地した陽樹は、膝に手をついて荒い息を吐いた。
「見事な機転だったわ、陽樹!」
竹林の奥から、櫻が駆けてくる。その隣には、静かに刀の柄に手を置いたまま立っている佐助の姿もあった。異変に気づいて駆けつけていたのだ。
「櫻……佐助……」
「怪我はない? すっごくかっこよかったよ!」
心配そうに寄り添う櫻の横で、佐助は倒れた敵と、泥だらけになりながらも倒れずに立っている陽樹を交互に見つめた。
「……フン。泥臭い戦い方だな」
佐助の口元が、ほんのわずかに持ち上がる。
「だが……口だけの男ではないらしい」
初めて佐助が見せた、ライバルとして陽樹を認めるような眼差し。陽樹もまた、血のついた唇を拭い、不敵に笑い返した。
「当たり前だ。俺は……お前にも、父さんにも負けるつもりはない!」
静かな火花が散る二人を、櫻は温かい眼差しで見守っていた。
(見ててくれよ、父さん。俺は『英雄の息子』としてじゃなく……本間陽樹として、自分の足で『最強の忍』になってみせる!)




