三日月の綺麗な或る宵の一幕。六
「梅お婆さま……」
朝食の時間を告げに部屋にやってきたのは、もちろん梅お婆さまでした。
普段、私とお婆さまは食事を階下の部屋で一緒に食べています。ですが、今日はまるで私が調子を崩して風邪をひくとあらかじめわかっていたかのように、食事が載っているであろうお盆を手にされています。わざわざ持ってきてくださったのでしょう。
お婆さまは私が横になっている布団の隣にかがみ込むと、枕元に手にした盆を置かれました。温かいお粥が湯気を立ちのぼらせ、梅干しの酢いた香りがほんのりと鼻を撫でます。
「口は漱げるかい?」
「はい、ご迷惑を……」
背を支えられて起こしていただき布団に座れば、水差しと金盥がさしだされました。
「ほれ」
私が口を漱いでいるうちに、梅お婆さまは私の額に手を当てます。
乾いた皺だらけの手が、額の熱を吸っていくよう。
「ふん、熱あり、倦怠感、身体の重さと痛みか。汗もかいた様子はなく鼻水もなし」
「はい」
「ま、典型的だね」
そう言って私の額から手を離します。
典型的……、私はずっと以前、倉橋の家にいた頃からこうして頻繁に体調を崩してしまいがちです。ここ神田に来てからも幾分ましになっているとはいえ、何度もこのような姿をお婆さまに見せてしまっています。
今回は特に体調が悪く感じられるのです。最近ですと体調を崩しても気分が悪くなる程度で、なんとか師範学校にいくくらいはできていたのですが、今日は起き上がることも難しい。それでもお婆さまの見立てではいつもの症状の範疇であるということでしょうか。
「あ……その……」
典型的とはどういう意味か問おうとしましたが、頭がぼうっとしているせいか、うまく言葉になりません。
そうこうしているうちにお婆さまは金盥を持って立ち上がってしまわれました。
「ま、寝てな。学校には休むよう伝えておく」
「すいません……」
「なに、小間使いを走らせるだけさね」
お婆さまは一歩、二歩と私から離れて部屋から出て行こうとし、その直前で踵を返します。ですが視線はこちらに向けられたのではなく……。
「猫」
梅お婆さまはヒスイに向けてそう呼びかけました。ヒスイの片耳がピンと持ち上がります。
「ヒスイと……」
「猫やい、下にいくよ」
私がそう言った声は掠れて聞こえなかったのか、お婆さまは再び猫と呼ばれました。
なあ、と籠の中から返事があり、ヒスイはごそごそと身じろぎして寝床から出ると、金の瞳で一度じっとこちらを見つめました。そして鼻先をちょんと私の手に寄せると、すぐに梅お婆さまと共に部屋をでていきました。
まるで言葉が分かっているかのような様子に、ほんの僅か笑みがこぼれます。
軽い足音が廊下から階段と離れていって、聞こえなくなりました。
障子越しに朝の日差しが部屋を明るく照らしていて、ただ金魚の赤と黒の尾だけが瓶の中でひらひらと揺らめいているのだけが見えます。
「うぅ」
寂しい。そう口にしてしまえば、さらに寂しさが募るのは分かっています。
猫ちゃんが出ていってしまったのもそうですが、部屋の中は静かで、何の気配もありません。転がっている海栗のような妖も、駆け回って遊んでいる小鬼たちも。体調のせいか、霊なるものたちを感じる力がまた失われているのです。
「ダメだなあ、私……」
そう自嘲するように呟きました。
いえ、本来でしたら妖が見えなくなることは良いことであるはずなのです。私はそのために静めの巫女たる梅お婆さまのもとに滞在しているのですから、この静かな世界こそ、私があるべき世界。ただ、喪失感と無力感、それと体調不良によるぼうっと回らない頭がそういった言葉を発させたのでしょう。
私はため息を一つ落として、のろのろとお盆の上の匙に手を伸ばします。
「あったかい……」
お粥は、そんな私の身体にも優しく染み渡っていったのでした。




