第八話 狙われたツアコン
最初に感じたのは、匂いだった。
甘いような、苦いような、薬草を煎じた独特の匂い。
そう、漢方みたいな匂いが充満していた。
あまりいい香りじゃない。
次に、規則正しい微かな振動。
耳鳴りではない。私の隣で何か動いている音だ。
――生きてる。
ぼんやりと、そんなことを思った。
ゆっくりと瞼を開く。
白い天井。
そこに刻まれている見慣れない彫刻模様。
壁際には淡く光る魔石灯が据え付けられている。
ああ、ここは王宮の医療室だ、と理解するまでに数秒かかった。
右肩が重い。
動かそうとした瞬間、鋭い痛みが走った。
「……っ」
「動かないでください」
低く、落ち着いた声。
横になったまま視線を横へ向けると、リウさんが椅子に腰掛けていた。
腕を組んだまま、じっとこちらを見ている。
その瞳の奥に、怒りの残滓がまだ沈んでいるように見えた。
「……お客さんたちは」
声が思ったよりかすれていた。
「全員無事です。軽い擦過傷がある方もいましたが、治療は済んでいます。命に関わる怪我はありません」
よかった。
ツアコンとして、連れて来たツアー客に怪我なんて許されない。
「リウさん、起こしてもらえますか?」
「……では支えますね」
リウさんの手が私の背中を支え、寝台の上に起こしてもらえた。
「肩を貫通しています。幸い骨は逸れましたが、魔術干渉の残滓があったため、治癒術に時間がかかりました。今は魔術干渉の残痕も消えてます」
貫通。
さらりと言われた言葉が、遅れて現実味を帯びる。
あれは本気だったのだ。
警告でも、威嚇でもない。
私を、殺そうとした一撃だったのだ。
「……今は大聖堂は?」
「封鎖されて立ち入り禁止となっています。封鎖の外部への発表は“結界の誤作動”とされていますが」
そこでリウさんが拳を強く握る。
真っ白い手袋に深いしわが寄るくらいに。
「あれは、誤作動ではありません」
やはり。
胸の奥が、冷たくなる。
「内部協力者の可能性が高いと、王宮の管理部隊も認めています」
静かな爆弾のような言葉だった。
王宮内部で、反王族派閥が動いている、ということだ。
「おそらくですが、女王陛下への反対派閥の犯行の可能性が高いかと。女王陛下のおひざ元であり、祈りを捧げられる場所で、よりにもよって、地球の日本からの客人が害されたということになれば、陛下の御代を揺るがすことになりますから」
「……つまり狙われたのは、私、なんですよね」
自分で言うと、妙に現実味が出る。
リウさんは否定しなかった。
「あなたは“象徴”になります」
「象徴?」
「地球からの正式な観光。その責任者。あなたを害すれば、国交に傷がつく。狙いはそこにあるのでしょう」
外交。
国と国。
急にスケールが大きくなりすぎて、理解が追いつかない。
私はただ、ツアーを成功させたかっただけなのに。
「帰国を勧められる可能性があります」
その言葉に、心臓が強く打った。
帰る。
安全な場所へ。
それが正しい判断だろう。
でも。
まだだ、まだ帰れない。
「……お客さんのツアーは、まだ終わっていません。明日まではこのツアーは続きます」
気づけば、そう言っていた。
リウさんの視線が、わずかに揺れる。
「私は責任者です。途中で投げ出すわけにはいきません」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて彼は、小さく息を吐く。
「無茶を言いますね」
「そうですか?」
「はい」
それでも。
その瞳の奥に、ほんの僅かに安堵が混じったように見えた。
「……あなたの意思は、王宮側に伝えます」
そのとき、扉がノックされた。
「失礼いたします」
王宮の侍医らしき人物が入ってくる。
空気が張り詰める。
私は無意識に背筋を伸ばした。
私は今、この国の問題の中心に立たされている。
「ああ、無事に目覚められてよかった。陛下にお伝えしてくれ、地球からの客人は無事に目覚められたと」
そう告げられた入口にいた警備員らしき猫耳の獣人が走っていくのが見えた。
「肩の痛みはいかがですか?」
そう問われ、恐る恐る肩を動かしてみる。
「……痛みはありません」
本当に痛くない。
「そうですか。やはり地球の方々には、魔術の馴染は良いということですね」
ああ、なるほど。こちらの治癒魔術が私にはよく効いたということなのだろう。
「通常、異界の方は魔力の流れに拒否反応を示すことがあります。ですが、あなたにはそれがほとんど見られませんでした。むしろ、術式の定着が早い。」
侍医は興味深そうに私を見つめる。
実験動物を見るような目ではない。だが、純粋な学術的関心が宿っている。
異界人。
私はこの世界ではそう呼ばれる存在だ。
地球ではただのツアーコンダクターなのに。
「……それって、良いことなんですか?」
「ええ。少なくとも治療の面では」
そこで侍医はわずかに言葉を濁した。
「何か?」
「……今後、魔術の影響を受けやすい可能性もあります」
空気がわずかに重くなる。
リウさんが口を開いた。
「つまり、標的として“狙いやすい”ということですか」
侍医は否定しなかった。
胸の奥がひやりと冷える。
――狙われやすい体質。
そんなもの、望んでいない。
「ですが現在、体内に残存する干渉は確認できません。安静にしていれば夕方には歩行も問題ないでしょう」
「夕方には動けるんですね」
私がそう言うと、リウさんが鋭くこちらを見る。
「……本当に続行するおつもりですか」
「はい。旅行日程は明日までです。ツアー客の皆さんにとっては大事な時間です。その大事な時間を私のせいで台無しにはしたくありません」
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
聖堂の石床に膝をついた瞬間。
肩を焼くような衝撃。
崩れる視界。
遠のく意識の中で聞こえたリウさんの声。
――狙われたのは彼女だ。
あの一言が、今も耳の奥に残っている。
自分が標的だと明確に言われるのは、こんなにも現実味があるのか。
それでも私は責任者だ。
このツアーは、私が皆さんを最後まで案内する。それが仕事だ。
「……分かりました」
リウさんは短く言った。
「ですが警備体制は強化します。あなたは単独行動禁止です」
「はい」
「約束できますか」
「約束します」
そこで侍医が軽く咳払いをした。
「夕方までもう少し休養を。面会は最低限にしてください」
「面会?」
その言葉に首を傾げる。
すると、ちょうど扉の外から慌ただしい声が聞こえた。
「篠原さんっ!」
聞き覚えのある若い声。
女子大生の木下さんだ。
リウさんが眉をひそめる。
「本来は許可していませんが……」
「少しだけでいいです」
私がそう頼むと、彼はため息をつき、扉へ向かった。
数秒後、遠慮がちに扉が開く。
そこに立っていたのは、あのカメラを常に持ち歩いている女子大生だった。
顔色が悪い。目の下にうっすら隈がある。
「……無事で、よかったです」
涙をこらえるような声。
「心配かけてごめんね」
「いえ……あの」
彼女は言い淀み、胸の前でスマホをぎゅっと抱きしめる。
「大聖堂の、映像なんですけど」
空気が一変した。
リウさんの視線が鋭くなる。
「何か、写っていましたか」
「まだちゃんと確認できてなくて……でも、床が一瞬、変な色に光って」
私の背筋に冷たいものが走る。
床。
あのとき、確かに違和感があった。
「紫色、に見えました」
その言葉に、リウさんの表情が完全に変わった。
静かな怒りの色だった。
「……結界操作の痕跡です」
低く、抑えた声。
侍医も息をのむ。
「その映像は、王宮管理部隊へ提出していただけますか」
彼女は小さく頷く。
「はい。でも……怖くて」
「大丈夫です」
リウさんは穏やかな声で言った。
「あなたのおかげで証拠が確保できたようなものです」
「分かりました。じゃあ提出します。どちらに行けばいいですか?」
「案内を呼びます」
「分かりました」
彼女は強く頷いた。
これはもう、偶発的な事故ではない。
証拠が残っている。
誰かが、意図的に結界を書き換えた。
そしてそれは、王宮内部の人間でなければ不可能だ。
静かに、だが確実に、この国の足元が揺れている。
私は寝台の上で拳を握った。
怖い。
でも、逃げない。
このツアーが終わるまでは。
明日までの日程のスケジュールを頭の中で思い出しながら、今日の午後に行くはずだった天文台に行けなかった埋め合わせをどうしよう、と考える。
医療室の窓の外では、王宮の塔が夕陽に染まっている。
その赤は、まるで予兆のように濃かった。




