第六話 美しい庭園の中の不穏な気配
静かで広い庭園には、私たちと同じように夜の散歩を楽しむ人たちもちらほら見受けられた。
「わ……やっぱりここ、すごい……」
小さな声。
振り向くと、スマートフォンを構えた若い女性が立っていた。
昼間、バスで後方席に座っていた一人参加の学生さんだ。
名前は確か……木下麻衣さん。
「篠原さん!」
こちらに気づいて、小走りに近づいてくる。
「すみません、ちょっと素材撮らせてもらってて……ここ、何もかも全部映えますよね!」
興奮気味の声。
スマホの画面には、淡く光る花々が映っている。
「ライブ配信はだめって聞いたので、ちゃんと録画だけです!帰ったら頑張って動画作りますね!」
えへへ、と笑う。
好奇心がそのまま形になったような子だ。
「ええ、この宿内の録画や写真でしたら問題ありません。ただ、ここから見えるあちらの王宮方向は映さないようにお願いしますね」
庭園の向こう側には一際豪奢な建物が見える。あれがこの国の王宮だ。
「わかってます! 機密ですよね?」
軽い調子だが、悪気はない。
この世界が珍しくてたまらない、という顔をしている。
そのとき。
「あの……その隣の方、護衛の方ですよね?」
視線が、私の隣へ向く。
リウさんは静かに会釈した。
「はい。今回のツアーの警備任務に就いています」
「やっぱり! ちょっとだけ、雰囲気撮らせてもらってもいいですか?」
ぐいっと距離が縮まる。
思わず、胸の奥がざわついた。
――近い。
その距離に、理由の分からない焦りを覚え、一歩だけ前に出る。
「警備担当者の個人映像は、事前確認が必要になります」
自然に出た言葉だった。
仕事の声。
そう、これは仕事だ。
「え、あ、そっか……ごめんなさい!」
木下さんはすぐにスマホを下げる。
「私、テンション上がると周り見えなくなっちゃって」
しょんぼりと笑う。
「いえ、気持ちはわかります。初めての異世界ですものね」
そうフォローすると、ぱっと顔が明るくなる。
「ですよね!? だって花が光るんですよ!? やばくないですか!?」
その無邪気さに、思わず笑ってしまう。
隣で、リウさんが小さく言った。
「……助かりました」
「え?」
「任務対象としての私を守ってくださった」
任務対象。
ああ、そうだ、私はツアコンとしてリウさんのことも守らなければいけない。
ちゃんと守れてた?大丈夫だった?
胸の奥が、また静かに熱を持つ。
木下さんは、申し訳なさそうにスマートフォンを胸の前で持ち直した。
「あの……篠原さん。一応、今日一日で録画したものを確認してもらえませんか? ダメなものがあったら、ちゃんと消しますので」
思っていたより、ずっときちんとしている。
「ありがとうございます。助かります」
私が答えると、彼女はほっとしたように笑った。
「リウさんもお願いします」
「分かりました。では失礼します」
三人で画面をのぞき込む。
昼間の庭園。
休憩所ののんびりした風景。
宿に着いてからのガヤガヤした雰囲気。
泊まる部屋のあちこちを録画した動画。
淡く光る花々。
青白い小径。
夜空の星。
映像はどれも美しく、王宮方面も映っていない。
「問題なさそうですね」
私が言うと、リウさんも頷いた。
「はい。機密区域は含まれていません」
「よかった……!」
木下さんは胸をなで下ろす。
「私、初異世界でテンション上がりすぎちゃって。やらかしてたらどうしようって」
「そのお気持ちは分かります」
自然と笑みがこぼれる。
本当に、悪気はないのだ。
彼女はぱっと顔を上げた。
「あ、でもせっかくなので――」
今度は、にやりと悪戯っぽい笑み。
「お二人、そこに並んでもらっていいですか?」
「……え?」
「この庭、絶対“人が入った方が映える”んです! 光の感じとか、スケール感とか!」
仕事モードの説明が妙に説得力がある。
「私たちが、ですか?」
「はい!ツアーコンダクターさんと護衛さんって、めちゃくちゃ絵になるじゃないですか」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
隣を見ると、リウさんは困ったようにこちらを見ていた。
「業務に支障がなければ」
真面目な返答。
――断る理由も、特にない。
「……分かりました」
そう言うと、女子大生は嬉しそうにスマホを構えた。
「じゃあ、もうちょっとだけ近くで!」
近く。
その一言で、急に意識する。
自然に並んだはずなのに、肩の距離がやけに気になる。
「もう少し……そうそう、いい感じ!」
光る花が背景に揺れる。
夜風がそっと吹き抜ける。
そのとき、不意にリウさんの腕が、かすかに触れた。
ほんの一瞬。
でも、確かに触れた。
「はい、撮れました!」
木下さんの明るい声が響く。
「……お似合いですね」
何気ない一言。
なのに、胸が跳ねる。
「ち、違います。仕事ですから」
反射的に言い返す。
隣で、リウさんが小さく咳払いをした。
「写真は確認しますか?」
真面目すぎるフォロー。
そのことが、逆におかしくて。
思わず笑ってしまう。
スマートフォンの画面に映る私たち二人は、思っていたよりも、自然に並んでいた。
まるで――最初から、隣に立つのが当たり前だったみたいに。
そんな錯覚が、やけに心地よかった。
木下さんは満足そうに何枚か画面をスワイプしたあと、ぱっと顔を上げた。
「やっぱり、人が入ると風景の見え方が全然違いますね。世界観が一気に物語になるっていうか」
「物語、ですか?」
「はい。風景だけだと“綺麗”なんですけど、そこに立ってる人の関係性とか、距離感とかが入ると、“何かが始まりそう”って感じになるんです」
何気ない言葉なのに、胸の奥がくすぐったくなる。
リウさんが静かに問いかける。
「あなたは、なぜ配信をしているのですか?」
「え?」
唐突な質問に、木下さんはきょとんとした。
「その……こちらの世界に来たり、素材を集めてまで、発信したい理由です」
少し考えてから、彼女は照れくさそうに笑う。
「……私、子供のころ、体が弱くて旅行なんてしたことなかったんです。いつも国内も海外も憧れているだけでした。でも、高校生の時、病気を治してもらって、無事に大学生になれたんです。それでバイトでお金をためて旅行に行くようになりました。それで思うようになったんです。一人で見ているだけじゃもったいない、だから“見てくれる人が行けた気分になれる動画”を作りたくて」
宝物のようにスマホをぎゅっと握る。
「自分がワクワクした瞬間を、そのまま誰かに渡せたらいいなって。画面越しでも、“ここで一緒に見てる”って思ってもらえたら嬉しいなって」
素直な言葉だった。
私は思わず口にする。
「……素敵ですね」
「篠原さんは? どうしてこの仕事を?」
不意打ちだけど、嫌ではなかった。
夜風が頬を撫でる。光る花々が、静かに揺れている。
「私は……」
少しだけ考える。
「私は旅行が好きで、色々なところに行きたくて旅行会社にツアコンとして入りました」
「旅行って特別な時間ですよね。事前準備も楽しかったり、ガイドブックを読む時間もワクワクしたり。そんな誰かの“初めて”に立ち会うのが好きなんです。初めて見る景色、初めて触れる文化、初めて感じる驚き。そういう瞬間に、安心して向き合ってもらえるように支えるのが、楽しいんです。だからこの仕事をしてます」
木下さんの目がきらりと光る。
「じゃあ今回の私の“初異世界”もサポートしてくれてるんですね」
「はい。全力で」
「リウさんは?」
彼女の視線が移る。
少しの沈黙。
そして、低く落ち着いた声。
「守ると決めたものを、守れる立場でありたい。それだけです」
飾りのない言葉。
けれど、その重みは十分だった。
木下さんは小さく「かっこいい……」と呟く。
「なんか、お二人の距離が近い理由、ちょっと分かった気がします」
「距離、近くないです」
即答してしまう。
「えー、さっきの写真、めちゃくちゃ自然でしたよ?」
「業務上の連携です」
隣で、また小さな咳払い。
「……否定はしません」
その一言に、なぜか頬が熱くなる。
木下さんは満足そうにうんうんと頷いた。
「今回の異世界旅行動画、最後はさっきの写真にしようかな。“このツアーで出会った、頼れる二人”ってタイトルにして」
「ちょっと待ってください」
「冗談です!」
けれどその笑顔は、どこか本気半分だった。
夜は静かに深まっていく。
光る花々の中で、三人で笑い合うこの時間も、きっと彼女の動画のどこかに、残るのだろう。
そして私は、ふと思う。
――もしこの世界が物語なら。
私は、彼の隣に立つ役なのだろうか。
そう思った瞬間、また少しだけ、距離が縮んだ気がした。
木下さんが手を振りながら去っていく。
彼女の背中を見送りながら、ふと、リウさんの視線が庭園の奥へ向いた。
そのほんの一瞬。
彼の表情が、任務の顔に戻る。
「……どうかしましたか?」
木下さんの背中が消えていった王宮が見える宿への方角に、ほんの一瞬だけ灯りが揺れた気がした。
だが次の瞬間には、ただの夜の静けさしかない。
「いえ。……気のせい、だと思います」
リウさんの視線が王宮の方角へ向けられる。
「篠原さん。明日の観光予定のメインは、王宮の聖堂でしたね?」
「あ、はい。女王陛下がいつも祈りを捧げられている聖堂と聞いてます」
「その通りです。ですので、めったなことはないかと思いますが、明日はどうか私のそばを離れないように」




