ジェラルド・フィリエという人
コレットがやっと我にかえったのは、唐突な客人とみつめあってすでに数秒が経過したあとだった。
「あ、い、いらっしゃいませ。えっと、今、お茶を用意しま……あ、紅茶は駄目なんですよね」
「かまわなくていい。それより、」
大きくはないがよく通る声だ。厨房を振り返ろうとしたコレットを制するように上がりかけた手に、反射的に肩がはねる。大きな反応ではなかったが、小さな店舗にふたりきりという字面のわりにまったく甘くない状況で、聡そうな彼が見逃してくれるわけもない。
「ご、ごめんなさい」
何ごとかを言いかけた口が開ききる前にコレットは頭を下げた。油断していたからか、拍子に涙がぽろりとこぼれてエプロンの胸もとに落ちた。
なんて失礼なんだろうと思う。曲りなりにもジェラルドはパティスリーの正式な客だ。その人の前で涙など見せていいわけがない。彼を苦手だと思うコレット自身の事情など関係がないのだ。
けれど、そうわかっていてさえ、顔から火が出てしまいそうな恥ずかしさと唇を噛みたくなるようなやるせなさが混じりあって、また新たな滴が目からこぼれそうになる。今声を出したらそれが濡れた響きを持っているのは簡単に予想がついて、沈黙は甘いケーキのほとんどなくなった店内を重く包んだ。
「……そういう意味じゃなかったんだ」
依然扉の前で立ちつくしたまま、ジェラルドがつぶやくように言う。おもわず顔を上げてしまったコレットのあとに、記憶にあるより重い調子の声が続く。
「眠気覚ましにはコーヒーの方が効くからよく飲んでるだけだ。紅茶が嫌いとか、そういうことは一切ない」
「フィリエさ、」
「あのときは早く帰ることしか頭になくて、長居してしまうようなまねは避けたかった。……エリクとアデライドが君の出してくれた紅茶はおいしかったと言っていた。きっととてもいいものだったと。せっかくの君の好意を無駄にするような真似をしてしまって本当にすまなかった」
謝罪の言葉とともに、ぴんと伸びていた背筋が直角よりも深く折り曲げられる。そこにためらいなど欠片もない。
自分より大きな男性、しかも軍人に頭を下げられている状況にコレットは迷わずあわてた。その衝撃で涙も引っ込む。
「わたしは大丈夫です。フィリエさんのほうこそ、昨日は大変だったと聞きました」
「俺の事情なんて君はかまわなくていい。君には昨日の失礼極まりない客に怒る権利があるし、俺にはその怒りに対して何かしらの方法で謝罪する義務がある」
「こうして来てくださっただけで十分です。あの、エリクさんが体調のことを心配していらっしゃいましたけど、身体のほうは大丈夫ですか」
「まあ、確かに昨日は……。だが、今日はもう心配ない」
あからさまに濁された昨日と強調された今日に、何かあったのだと悟ることはコレットにもたやすかった。そんな彼女の心中を察したのだろうか、それとも顔に出ていたのだろうか、少しの沈黙のあと、ジェラルドは重い口を開く。
「確かに昨日は帰ったあとに……その、吐いてしまったが、今日の体調は悪くない。本当に君が心配するようなことじゃないんだ」
「は、吐いたんですか!?」
大きな目をさらに見開いたコレットを見て、ジェラルドはだから言いたくなかったんだとでも言いたげにため息をついた。
「ケーキを作ることを職業としている君に、たとえ冗談だとしても言っていいことではないだろう」
きまり悪げな言葉には、コレットが彼がケーキを食べて吐いたという事実を快く感じないことを憂う彼の心情がよく表れている。
だが、実際は逆だった。
確かに普段だったら嬉しくはないだろうが、今のコレットは吐き気を感じてまで苦手なものを口にしたジェラルドに一種の感動さえおぼえていた。
「フィリエさん、顔を上げてください」
「……」
「ええと、とりあえず座りませんか?今日はお店の匂いは大丈夫ですか」
コレットがうながせばはっとしたように銀色の頭が上がる。ようやく見えるようになった切れ長の目は少し見開かれて目の前の少女を映していた。
「……君は、」
「あ、何かおっしゃいましたか?すみません、よく聞こえなくて」
「……いや、なんでもない。今日は心配はいらない。普段も匂いくらいは耐えられるし、昨日が例外だっただけなんだ」
今日はきちんとジェラルドが椅子に収まるのを確認してから、コレットはいったん厨房のほうへと下がった。待たせてはいけないので少しだけ急ぎつつ昨日と同じ紅茶を淹れる。砂糖とミルクのポットはいらない。できるだけ丁寧に、はいつもどおりだが、それを普段よりも意識して淹れたのはきっと、どんな理由であれジェラルドが昨日紅茶よりもコーヒーを選んだからに違いなかった。
差し出されたカップにを見てありがとう、と小さく頭を下げたジェラルドに驚きたくなるのを必死にこらえながら向かいに腰かける。甘いものと紅茶が好きな人に悪い人はいない、が信条のコレットの中で、彼女が思っていたより彼の印象は最悪だったらしい。
「……おいしいな」
「よかったです」
カップから口を離して小さくつぶやいたジェラルドに、皮肉ではなく心の底から安堵してコレットは言った。顔がほころんだのが自分でもわかる。単純だとは思うが止められない。
そんな彼女の反応に彼もまたどこかほっとしたように眉間の皺をやわらげたのには気付かなかったが、ソーサーにカップが置かれたのをみはからって、あの、とコレットは口を開いた。
「わたし、お店をやっていて甘くないケーキなんて注文されたのは今回がはじめてなんです」
「……そうだろうな」
「悪い意味で言ったんじゃありません!あの、フィリエさんは甘いものが苦手なのにパティスリーに何回も足を運んでいるんですよね?よかったら、事情というか、その理由を教えていただきたいと思って」
出来のよい紅茶で一旦はほころんだはずの薄い唇が、また何かを思案するように引き結ばれる。話題を間違ってしまったかと少し不安になったが、それでも彼の依頼をきちんと成し遂げるには引いてはいけないところだろう。
コレットの意思が伝わったのだろうか、数秒ののちにジェラルドは意を決したように口を開いた。
「本当に個人的な話になってしまうんだが。……君はリュシエンヌという孤児院を知っているか?」
リュシエンヌ孤児院は大通りから少し離れた、コレットの店とは反対の方向にある町で唯一の孤児院である。シスターたちがいる修道院と併設されており、母が生きているころは慈善活動として手作りのお菓子を配りに行ったことも何回かあった。
うなずいたコレットに、ジェラルドはカップの中に残っている紅茶をみつめつつ続ける。
「別に秘密にしているわけではないから言うが、俺はそこの出身なんだ。親の顔は知らない。赤ん坊のころにバスケットに入れられて門の前に捨てられていたらしい」
「それは……」
ジェラルドはなんでもないように言ったが、それを聞いたコレットはなんと言っていいかわからない。それを察して、彼は首を振った。
「君は生まれてなかっただろうから縁遠いかもしれないが、ちょうど最近でいちばん大きな戦が終わったばかりだからそういうのはざらだっただろう。そうでなくても親がいない子どもなんて珍しくない……いや、今はそういう話をしに来たんじゃない。とにかく、俺はリュシエンヌ孤児院で町から出るまでの時間を過ごしたから、そこに馴染みもたくさんいる。帰ってきた俺をシスターたちはあたたかく迎えてくれたし、十年前はほんの小さな赤ん坊だった子どもたちももう立派な働き手で、小さな子たちの面倒をよく見てくれてるよ」
「フィリエさんは孤児院のことをとても大切に思っていらっしゃるんですね」
「よくないことを言う輩はどこにでもいるが、俺はあの孤児院を出たことを誇りにすら思ってる。俺が面倒を見たおぼえのある子はもう最年長だ。王都での噂を聞いて、俺を慕ってくれる」
一見冷たげに見える切れ長の双眸が孤児院のことを口にしたとたんにふとやわらいだ。ジェラルドの感情はきっと慈愛と呼ばれるもので、あまり変わらない表情がゆるんだのを見てしまえば、孤児院に対する彼の思い入れの深さは、何も事情を知らないコレットにも簡単にわかってしまう。
あたたかい気持ちにつられて上がりかけた唇の端は、けれど次に続いた言葉にもう一度下がらざるを得なくなった。
「皆、素直で真面目ないい子ばかりだ。いい子たちだから、俺に内緒で歓迎パーティーを開いてくれることになったんだが」
「えっと、フィリエさんに内緒のパーティーを、どうしてフィリエさんがご存知なんですか?」
「シスターが教えてくれたんだ。彼女は古参で少年時代の俺もよく知っているからな」
だから好みも全部知られているわけだ、と甘いものを前にしたような苦々しい顔になってジェラルドは言う。
「孤児院では普段果物が食事に出てくるが、おやつにたまに焼き菓子が出てくるくらいか。だからケーキなんかめったに食べられないごちそうで、子どもたちはなけなしの金をかき集めて、その金で俺を喜ばせるための特別なケーキを注文してくれとシスターに頼んだらしい。……無邪気な善意なんだ。顔も知らない子のほうが多いだろうに、同じ孤児院から出たってだけで俺を英雄のように慕ってくれてる。俺はあの子たちの期待を裏切りたくない」
「フィリエさ、」
「昨日あれだけ無礼なまねをしておいてどの口が、と思うだろうが、頼れるのはもう君しかいないんだ。……このとおりだ」
言うなり、ジェラルドは立ち上がってもう一度コレットに向かって深く頭を下げた。
彼が店に入って来てからまだほんの少しの時間しかたっていない。その短い時間の中で早くも二度目の光景だったが、はじめのときのようにコレットが驚くことはなかった。
「――フィリエさん、顔を上げてください」
同じく立ち上がったコレットの言葉に、しかしジェラルドは動かない。
相手がコレットでなくとも、誰かに頭を下げたままでいるというのは容易なことではないだろう。しかし微動だにしない肩に、軍人らしいな、と思って、こんなところで彼の職業を思い出してしまったことに状況も忘れて少し吹き出しそうになる。それがすべての答えだ。
これが彼なりの勝負なのだとしたら、そのもくろみは大成功だろう。
コレットの負けだ。もっとも、勝つつもりがなかった点ではじめからジェラルドの勝利は決まっていたようなものだっただろうが。
「顔を上げてください。フィリエさんはわたしのお客さまなんですから」
コレットがそう言ってやっと銀色の頭が上がる。最初のときと同じようにあらわれた顔は驚きに染まっていた。しかし今度は最初よりももっと大きく目が見開かれている。
きっと表情が動きにくいだけで、本当は感情が豊かな人なのだろう。もとが最悪だったからというのも否めないが、この短い時間の中でコレットのジェラルドに対する印象は格段によいものへと変わっていた。
「お菓子とひとことで言っても数え切れないくらいたくさんのものがありますし、その中のひとつくらい、フィリエさんが食べられるものもあったっておかしくありません。まだ三週間もありますし、きっと大丈夫です」
中途半端に腰を折ったままの格好はあまり格好いいものとはいえなくて、自然に唇に笑みがのぼる。だからだろうか、すらすらと思ったとおりの言葉が紡ぎ出せる。コレットのジェラルドへの恐怖心はもはやどこかに消えてしまっていた。
「わたしにきょうだいはいませんが、家族を大切に想う気持ちならわかります。お兄さんとしてのフィリエさんの願いを、わたしに叶えさせてほしいんです」
コレットの唯一の家族だった母はもういない。亡くなってしまったときはとても悲しくて、ひとりというものには今もなかなか慣れることはできない。大切というひとことで済ませてしまうには惜しいけれど、それ以外にふさわしい言葉をみつけるのもなかなか難しい。コレットが母に抱くそんな気持ちは、ジェラルドが弟妹たちを想う気持ちと同じなのだろう。
血の繋がりがなくとも実のきょうだいと同じかそれ以上にジェラルドは弟妹たちを大切に思っていて、きっとそれは孤児院の子どもたちも一緒なのだ。
大好きな兄を甘くておいしいお菓子で喜ばせたい。かわいい弟妹たちをがっかりさせたくない。
お互いを思いやる気持ち、とてもすてきな家族の絆を、なんとかして繋げてあげたい。そのためにコレットができることならなんでもしたいと思った。
「高価な材料を取り寄せたり見たこともないケーキを作ったり、そういう大きなお店のようなことはできないと思いますが」
「十分だ」
嘘のない口調で、ジェラルドは真摯な目をしてうなずいた。
「有名な店に頼んでも結局解決はしなかった。それよりも、俺はこんな面倒な客を受け入れると言ってくれた君の優しさに賭けたい。よろしく頼む、コレット嬢」
そう言って、ジェラルドは右手から白い手袋を取ってコレットに差し出す。頭を下げられたのと同様、男性の軍人にそんなことをされるのははじめてだった。一瞬のためらいを見抜かれないように出した手はジェラルドの大きな手にすっぽりを隠れてしまうほどに小さく見えた。
けれど、労働を知るかたい手のひらは意外なほどに温かい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
――きっと、うまくいく。
ジェラルドは笑わなかったが、見上げた先の夜空の色のまなざしはどこまでもまっすぐだ。何の根拠もないが、そんな予感がした。
三週間のあいだ戦友となるであろう男性の目をみつめかえして、コレットはしっかりとうなずいた。




