悲しいお菓子
次の日の夕方にもパティスリー『コレット』の店舗には明かりが灯っていた。扉の木の札はもうひっくり返してあるが、コレットはショーケースのそばからかれこれもう三十分ほど離れられないでいた。
中にはガトーショコラがふた切れと、乾燥させたいちごを乗せて焼いたマフィンが三つ。
五つのお菓子が寂しそうに見えるのはまぎれもなくコレットのせいだ。
「……売れ残っちゃった」
小さくつぶやいたはずの言葉は、コレットしかいない店内でその声はとても大きく響いた。
品数がけして多いといえない店では、母がいたころからショーケースの中身が売り切れたときが店じまいの時間だった。早いときにはお昼をすぎたころにも閉店しなければいけないときもあって、空のショーケースが子ども心に誇らしかったもので、今もそれは変わらない。
今日はこの店にとって初めての日だ。すなわち、完売以外の理由で閉店を迎えることになってしまった初めての日である。
母がよく言っていた。人が作ったものには全部にその人の心が表れるのだと。だから悲しい気持ちでお菓子を作れば悲しいお菓子ができあがるし、楽しい気分で作ったお菓子は楽しいお菓子になる。
小さいころから聞き続けてずうっとわかった気でいた言葉の本当の意味を、十八歳のコレットは今日はじめて思い知ったのだ。
考えごとをしながらたてたメレンゲはいつもはぴんと立つはずの角がふにゃりと元気をなくしていた。そのメレンゲを使ったガトーショコラは綺麗な割れ目ができずにどこか不格好で、焦ってごまかそうと粉砂糖を多めに振りかけたら中央のくぼみに不必要な粉末がたくさん溜まってしまった。
マフィンは数種類のベリーのドライフルーツを混ぜこんだベリーマフィンにする予定だったのに、生地に何も入っていないことに気付いたのはオーブンに火が付いてからだった。お菓子を焼いているあいだにオーブンの扉を開いてしまったら中の焼き菓子がどうなるかは簡単に予想がついたのに、今日のコレットはそんな初歩的な失態を冒してしまったのだ。結局いちごだけを乗せて焼き直したマフィンは硬くていつも店に並べるものよりもぼそぼそしていた。
そのふたつだけならまだしも、パウンドケーキやタルトもようやく売れたが、作る工程で失敗だと思えるような小さなひっかかりはたくさんあった。イートイン用の紅茶の蒸らす時間を間違って黒みがかったような汚い色になってしまったときは泣きそうになったものだ。
それも今日だけなら買いに来てくれた人も目をつむってくれるだろうが、明日も明後日もと続いたらそうはいかない。
――今日のお菓子は美味しくなかった。だから、全部売れなかった。
誰にでもわかる簡単な事実は、単純だからこそコレットの胸を深く抉る。
今日一日、いや、昨日の仕込みからずっと、ジェラルドの依頼のこと、それから彼自身のことが頭から離れなかった。甘くないケーキのことを考えてみても何もいい案が浮かばなくて、それでも引き受けてしまったものはしかたない。三週間後までに形にできなければ彼がコレットに何を言ってくるのか、またあの不機嫌そうな視線で見据えられるのではないかと思うと気が気ではなかった。
こんなことなら今日は店を休みにすればよかった。ショーケースをみつめながらコレットはきゅうっと唇を噛んだ。客にはもちろん、こんな中途半端な気持ちで店を開いたところで何の意味もない。お菓子に、客に、そしてこの店をはじめてコレットに託してくれた母にも申し訳がたたない。
――だめだ、泣くな。
熱くなってくる目を握りしめた拳で乱暴にこする。悪いのは自分なのに泣いていいわけがない。わかっている。わかっているのに、嗚咽すらこみあげそうになる。
ひとりで店をやっていくのに、こんなことで泣いていたらだめだ。
気持ちとはうらはらに涙の粒はじわりと目のふちで大きくなって玉を結び、ショーケースの上に最初の一粒がこぼれ落ちようとする。
けれど、それより早いか否か、ちりり、ともう店じまいをした店内に来店を知らせるベルの音が鳴った。
「……あ、すみません、今日はもう終わりなんです。また明日、よろしかったら――」
あわてて涙を拭いて顔を上げ、接客用の笑顔を作ろうとしたコレットは、そのまま目を大きく見開いた。
「フィ……フィリエ、さん……?」
「……少し、時間をもらってもかまわないだろうか。コレット・バルニエ嬢」
見間違えるわけがない。
扉を開けたのは昨日、同じ扉から振り返りもせずに出て行ったのと同じ人だった。
町の英雄、ジェラルド・フィリエが、昨日と同じ軍服姿でそこに立っていた。




