三人のお客さま
パティスリー『コレット』の客層は幅広い。イートインスペースで噂話を楽しむ主婦やお茶請けにと小さな焼き菓子の詰め合わせを買いに来る老人たち、はたまた甘いもので喧嘩した恋人の機嫌をとろうと必死な青年なども少なくない。
「ありがとうございました!またのご来店をお待ちしております」
店先でコレットが頭を下げて見送った男性が今日の最後の客だった。その手には何週間も前から予約していたケーキの箱が下がっている。
娘の七歳の誕生日にピンク色のケーキが欲しいというのが彼の依頼だった。年頃の女の子の我がままに頭を抱えていた父親は、しかしコレットが花からできた赤い色素をクリームと混ぜて作ったバースデーケーキを前に、安堵とこらえきれない娘への慈愛をまなざしに宿していた。もう一方の手に抱えられた大きなリボンが付いた箱はきっと最愛の娘へのプレゼントに違いない。
いちごがたっぷり入った赤とピンク色のケーキが、おしゃまなかわいい女の子の思い出に彩りを添えることができたら、職人としてそれ以上に幸せなことはない。
店にあるお菓子が売り切れた時間が『コレット』の閉店時間である。今日は一時間ほど前にショーケースは空になっていたが、予約分を引き取る約束があったので今日はこれで店じまいだ。
くるりと振り返って扉にかけてある木製のプレートをひっくり返すと、それが閉店の合図である。外に出る前に見た時計の針は五時を指していた。早くもなければ遅くもない、いつもどおりの時間だ。
大通りから一本外れた通りにあるわりには繁盛しているほうだろう。昼間はそれなりににぎわっているが夜は静かなこの場所を、コレットはとても気に入っているのだ。
今日も一日無事に店をまわせたことについて、母と、それから顔を知らない父に感謝しながら、軽い夕食をとって明日の仕込みをする。それでコレットのいつもの一日は終わるはずだった。
「――待って!」
けれど、その日はいつもと違っていた。店の中に入ろうとしていたコレットは、後ろからかかった声にもう一度振り返る。
そして、その瞬間、手首をがっとつかまれて、ひっと息をのんだ。
「よ……、かった……!あの、……まだ、しまって、ませ、……はぁ、はぁ、……んか!?」
けれど、上がりかけた悲鳴は喉の奥に溶けて消えた。なぜなら突然の行動への恐怖が薄れて単純な驚きに変わってしまうほど、コレットを拘束した手の持ち主が目に見えて必死だったからである。
コレットの腕をつかんでいるのはひとりの男性だった。めいっぱい走って来たのだろうか、きちんと撫でつけられていたのであろう金色の髪があちこち飛び跳ねている。うつむきがちに必死に息を整えているから顔は見えないが、声や雰囲気からしてまだ若い青年だろうとコレットは思った。
「ここ、はぁ、パティスリーで、あって、ますか?」
「は、はい。合ってますよ。でもごめんなさい、今日のお菓子は全部売り切れてしまって、ちょうど今お店を閉めようとしていたところなんです。せっかく急いで来ていただいたのに申し訳ないんですが、また明日に来ていただくしか……」
「だ、だいじょうぶ、です。急ぎではないので……いや、すごく急いでいるのは確かなんですが」
ようやく呼吸が落ち着いてきたのか、そこまで言ってから彼はようやく顔を上げた。
秀でた額に名残のように汗が伝って下に滑り落ちる。その顔は綺麗に整っていた。骨格は確かに男性のものだが垂れがちな目もとは甘く、優しげな緑色の瞳がとても女性に好かれそうだ。
だが、整った顔立ちよりもコレットの目を奪ったのは彼の格好だった。
黒い上等そうな生地の胸もとに縦に二列に並んだ金色のボタン。一番上のボタンまで閉められたシャツと手首までをきっちりと覆う袖口のラインの白が鮮やかに黒い色を際立たせている。
きちんと結ばれたタイも、膝下までの革の長靴も見事なまでの真っ黒だ。そこに胸のバッジが特別にきらめいているのだった。
コレットには本物か偽物かの区別もつかないが、金色の地金に白と黒で着色されたバッジは見るからに格式高い。金色の肩章と胸もとまで垂れ下がった飾章も合わせて、その服装は彼が何の職業に就いているのか言うよりも雄弁に語っている。
――軍人の人だ。
コレットが驚きに目を丸くしている一方で、彼もまた何かに気付いたようだった。
「あっ、ごめんね!」
そう言って彼はあわててコレットの腕を解放した。もうつかまれていることも忘れていたコレットは、風で手首がすうすうする感触を今さらのように受け止めたが、彼は――いや、彼らは違うようだった。
「あっ、何女の子にちょっかいかけてるのよ!」
新たな声にコレットと彼が同時に振り返ると、ちょうど道の向こうからふたつの人影が近づいてくるところだった。
こちらを指差して足早に駆け寄ってくるのは女性だ。高い位置でひとつに結わえてある赤い髪がその動きに合わせて跳ねるように揺れている。踵がある長靴を履いているが、それがなくても脚が長く顔が小さい。
もうひとりは男性だった。背が高く、短い髪の艶のある銀色が少し遠目からでも見てとれる。そっぽを向いているせいで表情は見えないが、その姿はあまり乗り気には見えない。
ふたりもまた、当然のように同じ軍服をその身に纏っていた。
「ちょっかいなんかかけてないよ!」
「だって手を握っていたじゃない」
「あれは、だって、君たちが言ったんじゃないか!閉まりそうだから走って止めてこいって!」
どうやら彼らは顔見知りのようだった。しかしまた知らない人間、しかも軍人が増えたことに固まることしかできないコレットに彼らはかまわない。
人通りの少ない場所と時間帯であるのをいいことに、金髪の男性が少し大きな声で言い返す。
「だいたいなんで僕に走らせるんだよ!やめてよ、こういうのは当の本人が必死こくもんなんじゃないの!?」
「本人が必死こいてるくせにそれが態度に出ないから、こうやってあたしたちが一緒に来てるんでしょ」
「だって僕ら関係ないだろ!自分が関係ない用事のために何で貴重な有給消化しなきゃいけないんだよ……」
「それに関してはすまないと思ってる……ってジェラルドも思ってるわよ、たぶん」
「思ってくれなきゃやってらんないよ。見ただろ?午後休申請するときの少佐の嬉しそうな顔!これを口実に次から馬車馬のように働かされるんだ……!」
「あら、あんたがぐだぐだ言ってるならこっちも言わせてもらうけどね、最初に首突っ込んだのはあんたのほうなんだからね?友人の危機に黙ってちゃ男が廃るとかなんとか言って面白がってあたしまで巻き込んで、それに関してはどう思ってるのかしら」
「それはそれ、これはこれだよ!」
「あ、あの、ご用件をうかがっても……?」
おそるおそる尋ねれば、三人の目がいっせいにコレットに向いた。にぎやかに言い争っていた金髪の男性の緑色と赤髪の女性の明るい水色の瞳、そして、うつむきがちになっていたせいで見えなかった銀髪の男性の暗い色の瞳が、それぞれにコレットだけを映す。
いずれも背の高い、軍服を着た三人から見下ろされて、普段軍人と接する機会などほとんどないコレットの身体は自然と委縮してしまう。
小柄な少女が肩をひきつらせたのに気付いたのだろう、言い争っていたふたりははっとしたようにもう一度口を開きかけたが、それよりも薄い唇が開かれるのが早かった。
「……ケーキを」
「え……?」
「君にケーキを作ってほしい。――ただし、砂糖の味がしない、まったく甘くないケーキだ」
思ったよりも低い声がまだ肌寒い春先の夕暮れの空気を震わせた。
ケーキなのに甘くないケーキという謎かけのような言葉にコレットはおもわず自分の耳を疑ったが、からかわれているのかと尋ねようとすれば銀髪の男性とはじめてはっきりと目が合う。
――暗い色だと思っていた瞳は、よく見れば夜空のような深い紺色をしていた。
そのまなざしの真剣さに、気付いたときにはコレットは首を縦に振ってしまっていたのだった。




