一睡
起きて、クロティラが隣で息をしていることを確認した。
クロティラの口元に手を当てると、その吐息の温かさを感じる――現実なんだ。今日もクロティラは僕のそばで生きている。
昔は、彼女の夢をみることだけが救いだった。けれど今は眠りがクロティラを僕から遠ざける。クロティラも僕も眠る必要がなければどんなにいいだろう。
美しい夕闇の髪に指をすき入れて、その肌に顔を埋める。彼女の体温を噛みしめながらクロティラの胸元で小さく呟いた。
「クロティラ、まだ起きないの…?」
残念なことに優しい声は返ってこない。でも温かい。温かい、温かい。
僕はクロティラの背に腕をまわして、彼女の背中の骨をなぞった。
以前のクロティラにはここに羽根があった。
白くて伸びやかで言葉で表せないほど美しい羽根だったのに……あの時落ちていったクロティラの羽根を、僕はまだ見つけられないでいる。僕は死ぬまで全ての魔族を呪い続けるだろう。天使族も滅べ。
彼女はこともなげに
「仰向けで寝られるようになったから、これはこれでいいんですよ」
と言うけれど、その失われた羽根はクロティラが損なわれた証のように思えてならなかった。
最期の最後まで気高く美しかった彼女…――彼女は僕を庇って死んだのだ。だから僕は魔族と天使族に次いで、無能だった己が心底憎い。
このところずっと彼女のそばを離れないままで、世界を浄化する方法がないかを考えている。クロティラのそばで生きる自分と、魔族と天使族を殺す自分……身体が二つ欲しい。
「クロティラ………」
彼女は深く眠っている。
彼女に抱きついて、自分の羽根でクロティラの身体をすっぽりと覆い隠した。
クロティラの微かな呼吸音だけが羽根の中に満ちる。
白い繭の中、これで世界は完全だった。
もしもこのまま世界を閉じてしまうことができたなら、魔族を殺すのをあきらめてもいい。
ここが最上だった。これ以上は望むべくもない安寧の中で、僕は彼女が起きるまでもう一度眠ることにした。
そう時間をおかぬうちに完全だった空間に不快な雑音が混じり、部屋の入口の掛布がめくられて騒がしい気配が入ってくる。
「かーさん朝ごは…」
この気配はクロティラが生んだ、二番目と三番目だ。
僕は口には出さないが、彼らがクロティラに少しも似ていないことを忌々しく思っていた。せっかくクロティラから生まれたのに、その存在価値はクロティラの血を引いているということだけだ。
二番目は途中で言葉を止め、後ろにいる三番目にむかって言った。
「だめだ。父さんまた二人の世界つくってる」
はやく立ち去ればいいのに、続いて三番目も入室したようだ。
「えぇ、それじゃ今日も母さんのご飯はなしですか?」
「この時間まで起きないってことは、きのー父さんが散々ヤったんだろ」
こちらを無視して平然としゃべりはじめる。クロティラが眠っているのがわからないのか?
「でもエリ兄さんが…母さんのご飯がないからもう二日寝たまま、なにも食べてないんですよ」
「口になんかつっこんどけ。そのうち噛むだろ」
「もう、兄弟なのにそっけないなぁ」
「そーか?」
あまりに姦しいのでクロティラの目を覚まさぬよう静かに身をおこして、羽根につくった隙間から声を投げた。
「うるさい。黙れ」
二番目と三番目は同時に顔を見合わせて、二番目がこちらを指さした。
「ほら見ろ。あれが一般的な天使族だ」
「でも父さんが普通だったら、魔族だって親しみやすくておだやかですよ」
「まぁ、一般的は言い過ぎたか」
声は止まなかったが、幸いこちらの意図は理解できたのか、遠ざかっていく。
「普通の天使族って、うーんそうですね、おじいちゃんじゃないですか」
「いや。あの人もあれはちょっとアレだ」
「アレ?」
騒音が消え、クロティラと二人の世界が戻ってきた…――いや、彼らが去るのを待っていたかのように窓に影がさした。
窓のむこうから視線を感じる。
そのまま無視していると気配はうろうろと外を動きまわり、すぐに羽音がしたので飛び去ったのだろう。
あれはクロティラにたかる虫だ。
小さくて柔らかくて温かくていつもいい匂いがする彼女は、虫がつきやすい。
あの害虫のせいで僕は一時期、クロティラからぎこちない笑顔をむけられる羽目になった。次に来たら三番目を投げつけてみよう。上手く当たればもう寄ってこなくなるかもしれない。
「それとも殺したほうがいいのかな、クロティラ」
今の僕なら、きっと全てを叶えてみせる。
もっとなにか望んでくれたらいいのに。
クロティラの返事はなかった。
昼になり、風のむきが変わる。
今日は風が強いのか、どこかで咲いている花の匂いを微かに感じた。
そして風と共にまた、僕らの空間に不純なものが入ってくる。
「おい、お前らいつまで寝てんだ? もう昼だぞ」
誰も彼も、どうしてこう無遠慮なんだろうか。僕は仕方なく身をおこした。
「…イコ兄さん」
「あれ? お前羽根広げて何やってんだ? たためよ、邪魔だろ」
邪魔なのは自分だと気づいてほしい。僕は羽根でさえぎって、彼の視線からクロティラを隠した。
しかしイコ兄さんだけは、気軽に消すという選択をとることができない。クロティラの思い入れが深いし、彼には恩がある。彼の庇護がなければ、弱く無力だった僕は生き残れなかっただろう。
だが彼もクロティラにすり寄る虫の一匹なのだ。いざとなれば躊躇いはしない。
「クロティラ起きねーな。どうした?」
「昨日、僕と遅くまで夜更かししてたんです」
「へーあっそ……おい、こないだクロティラ下で酒みてくるって言ってたんだけど、お前しらね?」
「確かレイリアが持ってましたよ」
「げ」
理由はわからないが三番目の末子は彼に対し、ことのほか馴れ馴れしかった。顔が似ているからだろうか?
今も敏感にイコ兄さんの気配を察知したらしく、三番目はずるずるとなにか引きずりながら近づいてくる。
「イコおじさん、いらっしゃいませ」
引きずられていたのは眠ったままの一番目だった。僕は不快感に眉を寄せる。
三番目が引きずったせいで一番目の髪が白く汚れていたのだ。腕が千切れても髪と眼だけは汚すなと言いたかった。
「お前、それ、なんで兄貴もってきてんだ」
「ご飯を食べさせてたところだったんです」
「なんでだよ」
「ほっとくと餓死しちゃいそうなんですもん――ね、イコおじさん、このあいだ雪狼の仔を僕と一緒に探してくれるって言ってましたよね」
「嫌だ。一人でいけ」
「それじゃつまらないです。約束したじゃないですか」
「してねぇ。それよりお前、クロティラが俺に探してきた酒しらねーか?」
「僕もってます。あとで渡しますから、いきましょうよ。ね?」
「はぁー?」
この三番目は、自分の外見を最大限に活用して意思を押し通すことに長けている。小賢しいが、僕も昔クロティラによく使っていた。
「昨日お母さんと作ったクッキーもつけますから」
「親父にやれば」
そして結局イコ兄さんはうまくのせられるのだろう。
でもクロティラが僕以外のものに眼をむける時間が減るから、僕にとっても都合がよかった。
「イコ兄さん。うるさいのでどこかにいってくれませんか」
「ほら、父さんもこう言ってますし」
「お前ら腹立つな」
文句を言いつつもこのうるさい子供に付き合うのだから、彼とて異端なのだ。
僕がイコ兄さんを気軽に殺せないのは、もしかしたら彼の性格のせいかもしれない。
彼らが去って急に静かになった。
僕は羽根を広げて、世界を再構築する。
窓から日が射しているので繭の中も光で満ち、クロティラがさらに輝いた。
眩しいその寝顔を見ながら、僕は呟いた。
「ねぇクロティラ、僕は貴女がいない間、僕はいつもいつも、こうしていたんだ」
彼女の骨を抱いて眠ったあの頃。
あの暗闇の、汚泥の中。
「ここは地獄だったよ」
頭が壊れそうな殺意と、途方もない怨嗟と、ほんの少しの喜びに埋もれ、僕は死ぬはずだった。
僕は唇が触れるほど近く、クロティラに顔をよせた。
「クロティラ、起きてよ……僕を見て。声を聴かせて」
そしてクロティラは
いつだってクロティラは、僕を救い上げてくれるのだ。
睫毛がふるえ、瞼がひらいていく。
この世界は彼女が生まれた瞬間にはじまって、彼女が死ぬときに終わるのだろうと、ぼんやり確信した。
この話はこれでお終いにします。
読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。