第九章・3
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「……おい」
東田は病院の飲み物を買う自動販売機の前に、鈴の姿を見つけた。
「お前……小夜に最後なんて言ったんだ」
「二十円」
「は?」
「二十円。喉が渇いたんですが足りなくて」
鈴は目の前の自動販売機を指差した。
東田は舌打ちするとポケットの小銭を探って、コインの投入口に足りない分を入れた。
「そのことなら、もう言ったでしょう。俺は事実を伝えただけです。本当の小夜は今、ベッドの上で寝ているということ、怪我をしてるということ、住んでいた家はもうないということ、お父さんとお母さんはもういなくて、目を覚ませば小夜は一人ぼっちだということを」
迷うように自動販売機の飲み物を眺めボタンを押す鈴。
ガコンという音と共に、缶のお茶が取り出し口に落ちる。
「ああ、そういえばもう一つ」
身を屈めてそれを取り出すと、早速その蓋を開けながら鈴は言った。
「小夜が病院に運ばれてから、ヒゲのオッサン刑事が毎日、小夜の様子を見に会いに来てるって言いました」
「……何?」
「俺ならそんなの聞いたら、絶対に目を覚ますのはやめるんですけどね」
しかし小夜は目を覚ました。
月島からそのことを聞いて走って病室へと戻ると、小夜が重たそうな瞼を開いていて、飛び込んできた東田にその瞳を向けた。ゆっくり瞬いた小夜は笑ったようにその目を細めた。
小夜は目を覚ますことを選んだのだ。
鈴は缶のお茶に口をつけながら東田の横を通り抜ける。
「じゃあ、さようなら。のぼる君」
「……本当、可愛くねぇガキだ」
口の端に笑みを浮かべる鈴に、苦々しい笑みを返しながら東田は呟いた。
◆◆◆◆◆◆
鈴は車の後部座席に乗り込むとシートベルトを締めた。その横には月島。運転席には霧藤が座っている。
「すみません月島先生……」
「いや、私の方こそ悪いね、霧藤君。運転させちゃって」
また車で送ると言った月島だったが、鈴が月島の運転を嫌がったのだ。
「月島先生は運転が下手糞です」
「鈴」
悪びれもせず言う鈴をたしなめてから、霧藤は車を発進させた。
滑らかに走りだす車に鈴は窓の外を見た。後ろへと流れる景色の向こう、黒い空に点々と星が瞬いている。それにぼんやりと目をやりながら鈴は言った。
「小夜が最後に夢の世界に残るのをためらったとき……あのとき、小夜のおばあちゃんが小夜の背中を押したように見えた」
東田が毎日、小夜に会いに来ている。
そのことを伝えると小夜が驚いたように目を丸くした。そして迷うように視線を落とすと、小夜のおばあちゃんは抱きしめていた小夜から手を離し、そっとその小さな背を押したのだ。
まるでこちら側へ送り返すように。
「つまり君は、小夜ちゃんのおばあちゃんは彼女の記憶が作り出した幻影なんかじゃなく、本当に彼女のおばあちゃんがそこに居たっていうのかい?」
月島が興味深そうに訊いてきた。
「例えば、たまにはそんなことも、あってもいいんじゃないかって話です。小夜はいい子だから」
「じゃあ、朝日奈君も夢で家族が会いに来てくれたりするのかな」
「……俺の家族はもう、俺にはニ度と会いに来てはくれないですよ。たとえ夢の中であっても」
「それじゃあ、朝日奈君はいい子じゃないってこと?」
「そうですよ。俺はいい人間じゃない」
鈴は捨てるように言うと目を閉じた。
「そうかな。ねえ、どう思う霧藤君。朝日奈君は充分いい子だよね」
霧藤の返事はなく、月島は鈴へ視線を戻す。
「……あれ、朝日奈君? また寝ちゃったのか」
月島が覗き込むと、鈴の首が揺れた車の振動に合わせ、がくりと落ちた。
すると霧藤が口を開いた。
「もし鈴がいい人間でなくなったのだとしたら、それはおそらく僕のせいでもあります」
「霧藤君の? なんで」
「それは……秘密です」
「医者の守秘義務って奴か。それはこれ以上訊けないな」
「いえ、どちらかというと僕個人としてです」
「ふうん。なおさら訊けなそうだ」
大きな交差点へと差し掛かり、赤信号で車が止まる。
「霧藤君もお疲れ様だったね」
「何がですか」
「君は君で、小夜ちゃんを目覚めさせようと色々手を回してたでしょう」
「……医者的アプローチで、先に彼女を目覚めさせることができれば、それに越したことはないでしょう。結局は無理でしたが」
それは小夜のためなのか、鈴のためなのか。それとも医者としてのプライドか。霧藤の言葉からは掴めない。
「東田が言ってたけど放火の方も犯人が捕まったらしい。明日のニュースは賑やかになりそうだね」
自分の英雄である兄のために火事を起こしていた弟。
それはおそらく、しばらくの間の人の好奇を煽るには満ち足りたネタではあるだろう。
「誰にでも自分だけの英雄のような存在はあるでしょう」
「――ということは霧藤君にも?」
霧藤自身が誰かの憧れとなりうる存在である。そんな霧藤にも英雄と呼べる存在があったとは。
「ええ、いましたよ」
その返事は過去形だった。
「もういないんだ」
「そうですね。もういません」
「へえ……」
その声色はどこか冷たく感じたが、バックミラーから霧藤の表情を見ることはできない。
月島は大きく欠伸をして、座席にもたれた。
「眠っていてくださって構いませんよ。着いたら起こしますんで」
「そう、じゃあ、お願いしようかな。眠くて仕方ない」
「はい」
「こんなとき夢を自在に操れたら、どんなにいいだろうなと思うよ」
「……そうですね」
青に変わった信号に、霧藤はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
【夢わたり・其の陸】はここで終わりです。
お話は【夢わたり・其の柒】に続きます。
次回は常磐の過去と鈴の悪夢についてです。
お待ちください。




