第1話 白い粉
割れた魔導管は、まだ熱を持っていた。
崩れた石壁の隙間から午後の光が斜めに差し込み、浮いた粉塵を細く白く照らしている。焦げた木材と焼けた油、それに魔力が抜けた後特有の鉄臭さが混ざり、喉の奥に薄い膜を張るようだった。
「そこ、まだ触るなよ」
背後から声が飛んだ。
ユリウス・レインは伸ばしかけていた手を止めた。
「触ってません」
「今から触ろうとしてただろ」
「触ろうとはしました」
「同じだ」
ハルド・メイセンが太い眉の下から睨み、折れた支柱を跨いでこちらへ来る。四十代半ば、肩幅の広い男で、魔法事故残材回収班の班長を十年以上務めていた。
鎧を着るわけでもなく、魔獣と戦うわけでもない。事故が起きたあと、魔術師も救助隊も引き上げた場所へ入り、壊れた設備を分別して持ち出す。
それが彼らの仕事だった。
英雄譚にはまず出てこない。
「救助班の確認が終わるまで待て」
「でも、これ」
ユリウスは床に落ちている金属片を指した。
細長く裂け、片側だけが外へ反っている。
「爆発で飛んだ破片じゃないと思います」
「何でだ」
「こっちの端だけ内側が変色してるので。たぶん先に中から膨らんで、それから割れてます」
ハルドがしゃがみ込んだ。
鼻先まで近づけて見たあと、金属片ではなくユリウスを見る。
「だから何だ」
「何でしょうね」
「分からないのかよ」
「だから気になるんです」
ハルドの口元が少しだけ歪んだ。
呆れているのか笑っているのか、付き合いが長くなっても判別しづらい顔だった。
「お前は壊れた物に聞けば何でも答えてくれると思ってるだろ」
「答えないから見てるんですよ」
「面倒くさい奴だな」
「よく言われます」
「俺しか言ってねえ」
少し離れた場所で救助術式の青い光が立ち上がった。
崩れた梁を持ち上げるための《浮上》だ。床に刻まれた術式が順に光り、梁がゆっくりと浮く。
その光が一瞬だけ途切れた。
本当に一瞬だった。
浮きかけた梁がわずかに沈み、救助員の一人が顔を上げる。
すぐに青い光は戻った。
「出力を上げろ」
誰かが叫び、梁は何事もなかったように持ち上がっていく。
ユリウスだけが、その場に残った小さな違和感を目で追っていた。
風に舞った埃が光の中を横切る。
術式はもう正常に動いている。
「ユリウス」
ハルドに呼ばれ、振り返った。
「ぼさっとするな。回収始めるぞ」
「今、少し途切れませんでした?」
「何が」
「《浮上》です」
ハルドは救助班の方を見た。
梁は安定している。
「古い術具だろ。出力が揺れることくらいある」
「そうですか」
「そうだ。少なくとも今のお前の仕事じゃない」
もっともだった。
ユリウスは手袋を締め直し、壊れた設備へ向き直った。
それでも頭の隅に、ほんの一拍だけ消えた青い光が残った。
*
夕方には雨が降り始めた。
回収所の屋根を叩く雨音を聞きながら、ユリウスは荷台から最後の箱を下ろした。
鉄材。
砕石。
焼けた木材。
魔導部品。
再利用できる物と廃棄する物を分ける。
慣れた作業だった。
「おい」
ハルドが帳簿から顔を上げる。
ユリウスの腕には、分別用の箱とは別に小さな木箱が抱えられていた。
「それは何だ」
「今日の廃棄分です」
「聞けば分かると思うか?」
木箱の中には、黒ずんだ蝶番、欠けた陶片、曲がった銅線、それから先ほどの裂けた金属片が入っている。
ハルドは額を指で押した。
「また持って帰るのか」
「捨てる予定ですよね」
「だからって全部拾うな」
「全部じゃないです」
「違いが分からん」
ユリウスは一度箱の中を見た。
確かに言われてみれば、大半の人間には全部同じゴミに見えるだろう。
「まだ何だったのか分かってないので」
ハルドの眉間の皺が深くなる。
「物だったに決まってるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
帳簿に何かを書き込みながら、ハルドが手を振る。
「持ってけ。ただし倉庫代は給料から引くぞ」
「この前も聞きました」
「お前が聞かないから毎回言ってるんだ」
「払ってないですよね」
「そのうちまとめて取る」
外へ出ると、雨脚が少し弱くなっていた。
夕暮れの街は濡れた石畳を橙色に光らせ、パン屋の煙突からは夕食前の煙が細く昇っている。
その匂いで思い出した。
ユリウスは遠回りして古いパン屋へ寄った。
数日前、窯を取り替えるから古い石を捨てると聞いていた。
裏口には、崩した窯石が積まれていた。
「また来たのかい」
店主が呆れた顔を出す。
「一つだけもらいます」
「昨日も三つ持ってっただろ」
「場所が違うので」
「全部同じ窯だぞ」
「だからです」
店主はしばらくユリウスを見たあと、もう好きにしろという顔で店内へ戻った。
ユリウスは石を選んだ。
窯の入口近くにあった物ではない。
奥の壁。
何十年も炎に晒され、熱くなっては冷え、それを数え切れないほど繰り返した石。
表面には細かな亀裂がある。
けれど崩れてはいない。
抱えると、雨で冷えているはずなのに妙に重く感じた。
*
その夜。
借家の二階にあるユリウスの部屋は、相変わらず寝室というより倉庫に近かった。
壁沿いの棚には木箱が積まれ、その一つ一つに札がついている。
《西区水路・旧弁》
《北門・荷車軸受》
《第三工房・不明片》
《たぶん鐘》
最後の札を見たら、リシェルという魔術師なら怒るかもしれない。まだ知りもしない相手の顔を想像するほどユリウスに余裕はなかったが、自分でも《たぶん鐘》は少し雑だとは思っていた。
窓の外で雨が続いている。
湿った空気に、パン窯石から染みついた煤と古い鉄の匂いが混じる。
机の上には三種類の材料を並べていた。
古いパン窯の石。
町外れの井戸を取り壊した時にもらった鎖。
そして、数十年間使われた冷蔵倉庫の扉金具。
なぜこの三つなのか。
うまく説明できなかった。
新品の石もある。
新品の鎖もある。
同じ形の金具だって店で買える。
けれど魔力を少し流した時、古い物だけが妙な反応を返すことがあった。
ほんのわずかに熱を持つ。
震える。
何も起こらない場合もある。
記録はつけている。
規則はまだ見つからない。
「石が熱を持つのは分かる」
独り言が部屋に落ちた。
パン窯だったのだから、熱と関係している可能性はある。
だが石そのものが燃えていたわけではない。
井戸鎖も同じだ。
鎖が水を生むわけではない。
それでも古い鎖へ魔力を流すと、新品より反応が強い。
ユリウスは細い鑿で、それぞれから小さな欠片を切り出した。
全部を使うつもりはない。
結果が分からないのに、元の素材まで失うのは惜しかった。
窯石。
鎖片。
金具。
机の上に一列に置く。
左から右。
逆にもした。
金具と石を入れ替えた。
何度か試す。
何も起きない。
「違うか」
椅子にもたれ、天井を見る。
雨粒が窓を滑った。
その一本が途中で別の滴と合流し、太くなって下へ落ちていく。
何となく視線で追ったあと、ユリウスは机へ戻った。
石。
鎖。
金具。
順番は同じ。
ただ、鎖を逆向きに置いた。
井戸に使われていた時、上側だった方を石へ。
下側だった方を金具へ。
「これで最後」
何度目か分からない言葉だった。
指先を石へ触れる。
ほんの少し魔力を流した。
石の亀裂が赤く光った。
ユリウスの背中が椅子から離れる。
光は一瞬で消えた。
失敗かと思った。
その時、机の上に置いていた水杯の表面が揺れた。
小さく。
風はない。
もう一度揺れる。
水杯の外側に浮いていた水滴が、白く曇った。
指で触れる。
冷たい。
「何だ?」
さらに白い霜が広がる。
水杯だけではない。
机。
金属箱。
窓枠。
部屋の空気そのものが急に薄く冷え、吐いた息が目の前で白くなった。
ユリウスは立ち上がった。
椅子が床を擦る。
窯石だけが赤くなっていた。
燃えていない。
火もない。
なのに石の周囲だけ空気が揺らいでいる。
熱い。
手を近づけただけで分かった。
部屋は冷えている。
石は熱くなっている。
その間に置いた鎖片が細かく震えていた。
「まさか」
熱が生まれたのではない。
冷気が生まれたわけでもない。
部屋の熱が、石へ集まっている。
そう考えた瞬間、背筋を別の冷たさが走った。
このまま続いたらどうなる。
ユリウスは鎖へ手を伸ばした。
熱いと思ったが、鎖そのものは冷えていた。
指先で弾く。
鎖片が机から落ちた。
その瞬間だった。
張りつめていた何かが切れたように、部屋の冷え込みが止まる。
赤くなっていた窯石の光も消えた。
静けさが戻る。
雨音がやけに大きく聞こえた。
ユリウスはしばらく動かなかった。
自分の息が戻っていく。
窓の霜がゆっくり水へ変わる。
「何をした」
自分へ聞いた。
答えはない。
机に手をついた時、石が崩れた。
さらり、と。
黒い石ではなく、白い粉になって指の間を落ちる。
鎖片も。
金具も。
触れただけで形を失った。
灰ではない。
焦げ臭さもない。
ただ、何かをすっかり使い切ったように白くなっている。
ユリウスは指先へ付いた粉を見た。
魔力の気配さえ残っていない。
何十年も石だった物。
何千回も井戸を上下した鎖。
長い間、冷蔵倉庫の扉に付いていた金具。
それが数秒で、何でもない粉になった。
胸の奥が少し遅れて動き始めた。
怖いのか。
面白いのか。
その二つがうまく分かれず、呼吸だけが浅くなる。
この世界には魔法がある。
子どもでも知っている。
術式を学び、魔力を流せば火が出る。水が動く。傷が塞がる。
魔法とは、すでにあるものだった。
ユリウスは白い粉を見たまま呟いた。
「……今の」
声が妙に小さかった。
もう一度、誰に聞かせるでもなく口にする。
「俺が、作ったのか?」




