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一輪車に乗れない男


 俺はサーカスが好きだ。


 空中ブランコ。


 綱渡り。


 ジャグリング。


 火の輪くぐり。


 そして――一輪車。


 特に一輪車が好きだった。


 あの、たった一つの車輪の上に人間が乗っているという意味不明な光景。


 バランスを崩せば終わり。


 それなのに、平然と笑顔で走り回る。


 俺には、あれがたまらなく格好よく見えた。


 だから俺も、一輪車に乗ることにした。


「……よし」


 公園の隅。


 俺は一輪車にまたがっていた。


 年齢は三十五歳。


 無職。


 童貞。


 彼女なし。


 友達も、ほぼなし。


 そんな俺が、平日の昼間から公園で一輪車の練習をしている。


 我ながら、かなり終わっていると思う。


 だが――


「サーカスに入りたい」


 それだけは本気だった。


 別にプロになりたいわけじゃない。


 ただ、あの世界に入りたかった。


 観客の前で笑って。


 失敗して。


 それでも立ち上がって。


 最後には拍手を浴びる。


 そんな人生を、一度くらい送ってみたかった。


「……いくぞ」


 俺は地面を蹴った。


 ぐらっ。


「おっと」


 右へ傾く。


 左へ体重を移す。


「おおっ」


 戻った。


 いける。


 今日は違う。


 昨日までの俺とは違う。


 俺は成長している。


「乗れてる……!」


 たった三秒。


 だが、三秒だ。


 三秒間、俺は一輪車の上にいた。


「俺は……!」


 四秒。


「サーカスに……!」


 五秒。


「近づいているッ!」


 六秒。


 七秒。


 八秒――


「いける!」


 その瞬間だった。


 俺の目の前に、奇妙な光景が現れた。


「……ん?」


 公園でも。


 道路でもない。


 向こう側に、何かが見える。


 巨大な城。


 見たこともない生き物。


 鎧を着た兵士。


 そして――


「ドラゴン……?」


 空を飛ぶ巨大な翼。


 俺は目を疑った。


「え?」


 次の瞬間。


 地面が消えた。


「うわああああああああああっ!」


 俺は一輪車ごと落下した。


 どこまでも。


 どこまでも。


 落ちていく。


「なんだこれええええええ!」


 そして――


 ドンッ!!


「ぐえっ!」


 背中から地面に叩きつけられた。


「…………」


 痛い。


 ものすごく痛い。


 だが、生きている。


「……ここ、どこだ?」


 俺はゆっくりと身体を起こした。


 森だった。


 木々。


 草。


 見たことのない花。


 そして。


 少し離れた場所に、巨大な足跡があった。


「…………」


 俺は足跡を見た。


 自分の足を見る。


 もう一度、足跡を見る。


「……熊?」


 いや。


 熊にしてはデカすぎる。


 そのとき。


 森の奥から声が聞こえた。


「――いたぞ!」


「人間だ!」


「生存者を発見!」


 ガチャガチャと鎧の音が近づいてくる。


 木々の間から、剣を持った兵士たちが現れた。


「動くな!」


「ひっ!」


 俺は両手を上げた。


「怪しい者じゃありません!」


「怪しいに決まっているだろう!」


「ですよね!」


 自分でもそう思う。


 三十五歳無職が一輪車に乗って森の中に突然現れたら、怪しいに決まっている。


「お前は何者だ!」


「日本人です!」


「ニホンジン?」


「はい!」


「聞いたことがない」


 ですよね。


 俺もこの世界、聞いたことがない。


「名前は?」


「佐藤一郎です」


「サトウ……イチロウ……」


 兵士たちは顔を見合わせた。


「職業は?」


「……無職です」


「ムショク?」


「はい」


「何をしている?」


「一輪車の練習を」


「…………」


 沈黙。


 兵士全員が俺を見る。


 俺も見る。


 地面には、俺が乗ってきた一輪車が転がっている。


「これです」


 俺は一輪車を指差した。


「……なんだ、それは?」


「一輪車です」


「武器か?」


「違います」


「魔道具か?」


「違います」


「では何だ」


「乗り物です」


「車輪が一つしかないぞ」


「そういう乗り物なんです」


「なぜ?」


「……趣味です」


 再び沈黙。


 兵士の一人が頭を抱えた。


「駄目だ。何を言っているのか全く分からん」


 俺も分からない。


 そもそも俺だって分からない。


 なぜ俺は異世界にいるんだ。


 どうして一輪車で転生したんだ。


 そんな疑問が頭を駆け巡る。


 そのときだった。


 森の奥から――


 ズン。


 地面が揺れた。


 ズン。


 もう一度。


 兵士たちの顔色が変わった。


「……まずい」


「まさか」


「こんな場所まで来たのか?」


 俺は振り返った。


 木々が倒れる。


 巨大な影が現れる。


 全長は十メートルを超えていた。


 赤黒い鱗。


 巨大な翼。


 鋭い牙。


 そして――


「ドラゴン……」


 俺は呟いた。


 ドラゴンが俺を見た。


 兵士が叫ぶ。


「全員、戦闘態勢!」


「逃げろ!」


「無理だ! 間に合わない!」


 剣が抜かれる。


 弓が構えられる。


 魔法使いらしき男が杖を掲げる。


 俺は震えながら、一輪車を握った。


「……俺、死ぬのか?」


 ドラゴンが口を開く。


 巨大な炎が、その奥で渦巻く。


 その瞬間――


 俺の身体が勝手に動いた。


「うおおおおおおっ!」


 俺は一輪車に飛び乗った。


「何をしている!?」


「知らねえよ!」


 ペダルを踏む。


 ぐんっ。


 車輪が回る。


 ドラゴンが炎を吐く。


「うわああああああああ!」


 俺は必死にペダルを漕いだ。


 右へ。


 左へ。


 身体を傾ける。


 炎が地面を焼く。


 俺の横を通り過ぎる。


 そして――


 ドラゴンの前脚を紙一重でかわした。


「…………え?」


 俺自身が一番驚いた。


 速い。


 今までとは全然違う。


 まるで――


 身体が一輪車の動きを完全に理解しているようだった。


「なんだ……これ……」


 俺はさらにペダルを踏み込んだ。


 加速する。


 木々の間を縫う。


 岩を飛び越える。


 斜面を駆け下りる。


 ドラゴンが追ってくる。


 だが――


 追いつけない。


「は、速い……!」


 俺は笑っていた。


 怖い。


 怖いのに。


 楽しい。


 生まれて初めてだった。


 自分の身体が、自分の思い通りに動いている気がした。


「これだ……!」


 俺は叫んだ。


「これがサーカスだ!」


 その瞬間。


 ドラゴンが咆哮した。


「グオオオオオオオオオオッ!」


 そして俺は――


 空を飛んだ。


「え?」


 一輪車ごと。


 崖から。


 数十メートルの高さへ。


「…………」


 時間が止まったように感じた。


 眼下には森。


 遠くには巨大な城。


 そして。


 自分の手には一輪車。


「……あ」


 俺は気づいた。


 俺、異世界に来たんだ。


 そして――


「俺、これ……」


 一輪車に乗って空を飛んでいる。


「サーカスどころの騒ぎじゃねえじゃねえかああああああああああ!!」


 俺の叫び声が、異世界の空に響き渡った。


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