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あすかの幸せについて 第三章 憧れの先にあるもの  作者: こうた


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第1話 記憶のなかの人

カラン。

扉の音が、静かに鳴る。

夜の空気を連れて、あすかは店に入る。

いつもの場所。

いつもの時間。

変わらないバーの匂い。

(……落ち着く)

カウンターに座る。

「こんばんは」

ゆたかが、軽く目を上げる。

「……こんばんは」

短く返す。

グラスが用意される。

何も言わなくても、いつものものが出てくる。

それが、心地いい。

(……こういうの)

変わらないものがあると、少し安心する。

グラスに手を伸ばす。

ひと口。

ゆっくりと喉を通る。

(……今日も、普通)

悪くない一日。

でも、特別でもない。

そんな日が続いている。

(……もう一年か)

ふと、思う。

母がいなくなってから。

季節がひとつ巡った。

あの冬。

あの静けさ。

そこから、少しずつ歩いてきた。

恋もした。

終わりもあった。

でも――

(……まだ)

どこか、止まっている気がする。

「……」

グラスを見つめる。

透明な液体の中に、揺れる光。

何も考えていないようで。

少しだけ、考えている。

その時。

後ろから、声がした。

「変わってないな」

低くて、少しだけ懐かしい声。

(……え?)

一瞬、思考が止まる。

自分に向けられた言葉なのか、分からない。

ゆっくりと、振り返る。

そこにいたのは――

見覚えのある顔。

でも。

すぐには、名前が出てこない。

(……誰)

どこかで見た。

確実に知っている。

でも、今の姿と、記憶の中の姿が重ならない。

「覚えてないか?」

その人が、少しだけ笑う。

その表情で。

一気に、記憶が繋がる。

(……あきら先輩)

中学の頃。

サッカー部の部長。

みんなの中心にいた人。

遠くから見ていた存在。

「……あきら先輩?」

やっと、言葉が出る。

あきらは、少しだけ満足そうに笑う。

「そうそう」

「久しぶりだな」

その言い方は。

あの頃と、変わっていない。

(……本当に)

変わっていないのは、どっちなんだろう。

「……お久しぶりです」

あすかは、少しだけ背筋を伸ばす。

自然と、そうなる。

あの頃の距離が、少しだけ残っている。

「ここ、よく来るのか?」

あきらが、カウンターに近づく。

「……はい、たまに」

「へぇ」

周りを見渡す。

「いい店だな」

そう言って、隣に座る。

距離が、近い。

でも。

(……不思議)

嫌ではない。

懐かしさが勝っている。

「お前、ほんと変わってないな」

あきらが言う。

あすかは、少しだけ笑う。

「……そうですか?」

「うん」

即答。

「静かで、ちょっと距離ある感じ」

その言葉に、少しだけ驚く。

(……見てたんだ)

あの頃。

遠くから見ていただけだと思っていた。

でも。

「覚えてるもんだな」

あきらは、軽く言う。

「中学のときとか」

そのまま、話が続く。

サッカー部の話。

クラスの話。

文化祭。

懐かしい名前が、いくつも出てくる。

(……懐かしい)

自然と、少しだけ笑う。

あの頃の空気。

何も知らなかった時間。

ただ、遠くから見ていた人。

その人が、今、隣にいる。

「お前、あのときさ」

あきらが言う。

「よく本読んでたよな」

「あの廊下の端で」

(……覚えてる)

少しだけ、胸が動く。

そんな細かいことまで。

「……はい」

小さく頷く。

あきらは、少しだけ笑う。

「やっぱりな」

「なんか、そういうイメージあったわ」

軽い言い方。

でも。

どこか、懐かしい。

(……あの頃のまま)

そんな感覚。

会話は、自然に続く。

あきらが話す。

昔のことを。

楽しそうに。

あすかは、聞く。

時々、返す。

その流れ。

(……これでいいのかも)

そう思いかけたとき。

ふと、違和感がよぎる。

(……今の話)

一度も、出てこない。

仕事のこと。

今の生活。

何も。

全部、過去の話。

「……先輩は」

あすかが、少しだけ切り出す。

「今、何されてるんですか?」

あきらは、一瞬だけ間を置く。

ほんのわずかに。

でも、分かる。

「営業」

すぐに答える。

「薬のやつ」

軽く言う。

それ以上は、続けない。

(……あ)

ほんの少しだけ、引っかかる。

でも。

その違和感は、小さい。

まだ、気にするほどではない。

「そうなんですね」

それだけ返す。

あきらは、また笑う。

「まぁ、そんな感じ」

そしてまた。

昔の話に戻る。

(……やっぱり)

懐かしい。

楽しい。

でも――

ほんの少しだけ。

何かが、足りない気がする。

その正体は、まだ分からない。

分からないまま。

時間は、ゆっくりと流れていく。

初夏の夜。

記憶の中にいた人が、現実に現れる。

その距離は。

近いようで、どこか遠かった。

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