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88p

■■第四十五章■■

 薄く白く、辺りに漂う幾欠片もの霧があった。

白いワゴン車の助手席に座った幼い日のアユミは、どんどん小さくなっていく母親の姿を、何度も、何度も振り返っては見つめた。

 本当に・・本当に自分はこれで良かったのだろうか。

アユミが父親に付いていくことになったのは、両親が話し合って決めたことだ。

最初から、アユミに選択権などなかったのだ。

 でも本当に・・これでいいのだろうか。


 父親の方がアユミに優しいし、アユミの教育のことを考えて仕事を選んでくれる。

だから、現実的に考えて、アユミが父親に付いていくという選択は正しいのだ。

 これで良い。何も間違ってない。アユミは何も考えず、父親との生活を始めれば良い。

・・・そう自分を納得させて、今日この日を迎えた筈なのに。

 なのになんで、こんなに心が苦しいんだろう?


――・・嫌だよ。離れたくなんかないよ。

 ようやくその気持ちに気づいた時には、アユミの小さな手はもう、決して母親に届かない。

悔しくて、悲しくて。せめて最後に母親に一言届けたくて。

アユミは車の窓を開け、そこから上半身を乗り出した。

 隣で運転している父親が驚き、何か言っているが、それすら気にならない。

ただ一言、最後に叫びたかった。


――お母さん!

 そう口にした筈なのに。何故だろう。アユミの口から零れたのは、人間の声ではなかった。

獣の、切ない鳴き声だった。


『――・・フォオオ・・・・ン』

 遠く、王国中に響き渡る程に。魔王の鳴き声は壮大で、美しかった。

魔王が誕生し、随分と長い年月があったが、その鳴き声を聞いたという人間は、今まで誰もいなかっただろう。

 走る馬車の窓枠に前足を駆け、飛ぶように変わっていく景色の中から、魔王は幼い少年の姿を探し求めた。

少年は彼自らが名づけた魔王の渾名を叫びながら、先程までこの馬車を追いかけてきていた筈なのだ。

なのに、今はもう、どこにも居ない。この馬車が速過ぎたのだ。


「・・・びっくりした。魔王も吠えるんだね。」

 風に打たれるままに黒い毛並みを乱す魔王の後ろ姿に、前方の席に座っていたロナルド王子は振り返った。

この威厳のかけらもない魔王の振る舞いに、ロナルド王子は声を上げて笑った。

 幼いこの王子の笑い声が、魔王は嫌いだった。甲高くって、嫌に耳に障る。


「・・そうね。私も魔王についてはあまり知らないのだけど・・吠えるなんて話は聞いたことなかったわ。

 後でお父上に話してみましょうね。きっと・・驚くわ。」

 王子の隣に駆ける若く美しい王妃は、愛しそうに王子の蜂蜜色の髪を撫でた。

母親の手に優しく撫でられ、満足そうに瞳を細めた王子に一瞥を向け、魔王はそっと窓枠から手を放し、大人しく馬車の後部座席に蹲った。

 普段城に閉じこもりきりの魔王の身体を心配してか、王族の人間たちは時たまこうして、魔王を連れて王国内を旅する習慣がある。

今回も、三日間程の間、国中の街という街、山という山を歩かせてもらった。

新鮮な空気に触れ、新しい生き物や、人間たちに出会うことは、長い年月を生き続ける魔王の、ささやかな楽しみの一つだった。


 もしこの街で、あの少年に再会することにならなければ。

魔王は満足して、城に戻ることができたのだろう。


――ずっと・・あの少年に会いたいと願っていた。


 同時に、もう会いたくないとも思っていた。

大好きだったあの少年は、何故か王室を追放され、魔王の前から消えてしまった。

 あの少年は王族の中で唯一、自分に新しい名前をつけてくれた恩人だ。

少年の拙い声で新しい名前を呼ばれる度に、魔王の心は高鳴った。

魔王は少年の笑顔が、匂いが、声が大好きだった。生まれて初めて、心から好きになった人間が、あの少年だった。

 なのに、何故遠く引き離されてしまったのだろう。

辛かった。まさか会えなくなる日が来るなんて考えたこともなかったから、余計に辛かった。

 一目だけでも、また会いたいと思うと同時に、そんなことをすれば、自分はより一層、あの少年を思って苦しむのだと理解していた。

だから、魔王は少年に再会することを望み、恐れていた。

そう。魔王はもう、あの少年に会うべきではないのだ。

 ぎり・・と歯を噛み締め、思う。

魔王がこれからも生き続けるためには、どうしても王族の力が必要だった。

図体だけは大きく、人間から見れば威厳のある姿に見えるらしいが、実質、魔王と呼ばれるこの魔物の生存能力は低かった。

性格も臆病で、獲物を狩るのもそう得意ではない。極めつけは、自身がその命の終わりに産む卵の存在だ。

 人間はこの卵を進化の卵と呼ぶ。

魔王はこの卵により、永遠の命を生きることができるわけだが、自然界において、これ程不安定な永遠の命の在り方はあるまい。

もし、魔王がそこらで野たれ死んで、卵を産んだならば、その卵は間違いなく、野生の獣や魔物たちにより、食べられてしまうだろう。その時点で、魔王の命は尽きるのだ。


 まだ魔王が、数える程の回数しか生きていなかった頃、魔王は自らの死期が近づく度に、卵を産む場所について悩んでいた。

どんな敵にもみつからない、安全な場所。

それを求めて放浪していた時、魔王はこの国を支配する王族の男に出会ったのだ。

 彼に会った時、魔王は本能的に悟った。この男の一族こそが、自分を生み出した魔の力の主。

彼は魔王の魂自体をも、消滅させる力を持っている。そう考えると恐ろしくて、魔王は彼を前に平伏し、命乞いをした。

 しかし彼は魔王を攻撃する意思を見せなかった。むしろ魔王の姿とその性質を甚く気に入り、提案してきた。

魔王が王族の元に生涯居続けると約束するならば、王族は国を挙げて、進化の卵と魔王の命を守ると誓おう。と。

 当時の魔王にとって、それは願ってもない申し出だった。

ただ王族の傍にいるというだけで、望んでいた安住の地を約束してくれるというのだ。

こんな魅力的な誘いに、乗らないわけがなかった。


 そしてそれから何百回と生きてきた。

王族の治める国は、永遠の命を持つ魔王が象徴するに相応しく、長い栄華の中、その領土を広げていった。

 充分な食事、安らかな寝床、優しい人々。

魔王にとって、王室は最大の安住の地であり、それは今でも変わらない。

少年と離れるのは苦しいが、魔王は既に、この城以外での生き方を知らなかった。

魔王が選んだのは結局、あの少年ではなく、この城であり、次期王位を継承する予定のロナルド王子だった。

 いや、選んだのではない。最初から、魔王に選択権などなかったのだ。


――・・本当に、それで良いの?

 意識の中の誰かが、魔王に問いかけてきて、はっと顔を上げる。

魔王は城の中で一人、高い夜空を見上げていた。

 城の最上階に設置された白亜のバルコニーは、魔王のお気に入りの場所の一つだった。

ここにいると、魔王は自分が恵まれていることを実感できた。

眼下に広がる野山で、今も生死の輪廻を繰り返している野生の生き物。

 彼らと比べて、自分はなんと安全で、なんと恵まれた生活をしているのだろうか。

王室の空気に嫌気が刺す時、魔王はいつもここに来て、そう自分を慰めていた。

 魔王がこの場所を好むようになったのは、つい最近になってからだ。

現在の魔王がまだ幼い時分、魔王のお気に入りの場所はこのバルコニーではなく、謁見の間にある玉座の裏だった。

 国王が頻繁にその場に魔王を呼び寄せていたからという理由は勿論あるが、それ以上に、玉座を前に跪く人間たちを観察するのが楽しかった。

幼少期というのは、何度繰り返してもやはり、好奇心に溺れてしまいやすいものだ。

現在の魔王の幼少期も例に漏れずそうで、魔王はその時分、大変陽気に日々を過ごしていた。

 ちょっとでも気になれば、廊下に並ぶ花瓶を次々と割って遊んだし、城の中庭に大穴を空けてはしゃいだりもした。

厨房で王族のために作られる、バニラの香りの黄色いお菓子が大好きで、勝手に厨房に侵入しては、そこにあるお菓子を全て食い荒らしたこともある。

どれもこれも、魔王が一人遊びで楽しめる内容だった。

 幼少期の魔王は、こうした一人遊びで充分に満足できていたのだが、ある日、それよりもっと愉快な遊びを知ることになる。

それこそがあの少年、エリオットとの出会いだった。


 いつも通り、玉座の裏で人間観察をしていた魔王は、その日、国王と話す見慣れない小さな人間を見かけた。

――あの大きさの人間なら、今の自分が襲い掛かれば簡単に倒れるだろうな。

 倒れたら、どんなに驚いて、どんなに泣き喚くだろうか。

そう考えてしまうとワクワクしてきて、居ても立ってもいられなくなった。

 その小さな人間・・幼いエリオットの隙を狙い、一直線に飛びつく。

周囲にいた人々からは悲鳴があがり、国王すら驚きに間抜けな表情を作っていた。

それが愉快で、倒れたエリオットの上でぴょんぴょん跳ねていた魔王は、ふと、自分の下にいるエリオットの笑い声を聞いた。

 どうやらこの少年。魔王が突然飛びついたことに驚く以上に、魔王に飛びつかれて、くすぐったかったようだ。

そんなエリオットの笑い声を聞いた途端、魔王はこの少年が好きになってしまった。

 理由なんてわからない。ただ、この少年好きなのだ。もっと一緒に遊びたいと思ったのだ。

そして魔王のそんな直感は正しかったらしい。そもそも、魔王とエリオットはとてもウマが合った。

 種族が違うのに不思議な感じなのだが、魔王の考えることはエリオットも考えていたし、魔王が喜ぶことはエリオットも喜んだ。

お互い、初めて出来た友達が嬉しくて。暇さえあれば一緒に遊んで過ごした。


 今、大人になった魔王は白亜のバルコニーの上で星を見上げ、その懐かしい時間に思いを馳せる。

エリオット・・彼も今は大きくなっているのだろうか。

まだ、あの笑顔で、声で、匂いで、いてくれているのだろうか。


――エリオットに・・会いたい。

 ふと、そう強く思った。

人気のない静かな城の中でそんなことを考え始めると、どんどん、空想が膨らんできてしまう。

――どうにかして・・会えないだろうか?

 魔王は具体的にエリオットに会いに行く術を考え始めていた。

今思えば、この時の自分は既に理性の歯止めが効かなくなっていたのだろう。

まともな判断力も持たないうちに、魔王は行動に移してしまった。


 城の出入り口は全て、衛兵が立っている筈。

脱出するとしたら、そこは避けた方がいいだろう。


 魔王は考えた挙句、一階にある大広間の窓ガラスを破って城を出ることに決めた。

そこから外に出たとしても、城の敷地を囲む壁に取り囲まれてしまうが・・

とにかく、まずはこの建物から出ることが先決だ。

壁を乗り越える手段については、現地で考えよう。

そう気楽に考え、魔王は一階へ向かって階段を降りて行った。


 辿りついた大広間は冷たく、静かで人気もない。

これならばきっと、誰も気づかないうちに脱出できるだろう。

脱出できる時間はほんの少しだけでいい。

その間にエリオットに一目会えれば、魔王はそれだけで満足するつもりだった。

 外へと繋がる窓に向かい、魔王は勢いをつけてそれを突き破った。王族の許可なく、一人で外に出ようとしたのは、これが初めてのことだった。

だから魔王は知らなかった。

自分と王族が交わしていた契約の本当の意味を。


――・・最初に、王族と出会ったのはもうどれだけ昔になるのだろうか。

 自分がこれまで生きてきた回数を考えれば、既に千以上の年数が経っていたようである。

そして人類は、それ程過去に遡った時代を、古き時代と呼んでいた。

 魔王は気づいていなかったのだ。

自分と王族が交わしていた約束が、その当時神と共存していた人間の執り行う契約の魔法の一つだったことを。

 魔王は気づかないまま、王族との関係の鎖に縛られてきたのだ。


『・・・・!!?』

 身体が外の風に触れた瞬間。魔王は自分の身体が激しく痙攣し始めたことに気づいた。

魔王は今、王室に逆らうような行動を取ったのだ。

真の王位継承者であるロナルド王子を裏切り、王室を追放されたエリオットの元へ行こうとしていたのだ。

 契約を破った魔王の身体は、見る見るうちに力を失っていった。

これまで魔王の命を支えていた魔の力が、膨大な量の瘴気となって自身から放たれることを知った。

王族の負の感情から生まれた魔の力、そしてその魔の力から生まれた瘴気。

 本能が魔王に知らせた。この瘴気は、この王国の国民を苦しめてしまう。

王族の支配を受け、生きてきた国民は、王族の負の感情を直に受けやすい性質をしていた。

このままでは、国民が危ない。自分はなんて・・浅はかなことを・・


 低く、唸り声を上げた。目が霞む。このままでは自分は死んでしまう。

不意に、魔王は自身の腹部が熱くなるのを感じた。

進化の卵だ。魔王の死を感知し、新たな卵が産まれようとしているのだ。


――・・駄目だ。

 魔王は思った。これ以上、自分が生きていては駄目だ。

一度魔王から放出された瘴気は、魔王の命が続く限り、国民を苦しめるだろう。

だから駄目だ。新しい卵など、あってはいけない。


 それはわかっているのに。無情にも新たな進化の卵は産み落とされてしまった。

黄金色に輝くそれは、今まで自分が産み落としてきた卵とは明らかに様子が違った。

しかも、卵を産んだ魔王はまだ生きていた。


――・・どういうことだ?

 震える前足で、そっと卵に触れた。途端、その卵が罅割れ始め・・


「・・何事だ!?」

 卵の放つ輝きに気づいた衛兵たちが、魔王の元へ駆けつけた時には既に。

そこには新しい魔物が生まれていた。


 美しい人間の女性の姿をしたその魔物は、その身体を眩い光に包まれ、立っていた。

明らかに高レベルなこの魔物の存在に、駆けつけた衛兵の足が止まった。

 女の魔物は、衛兵たちのその姿に目を遣ると、優雅に微笑み、横たわる魔王の身体へ、そっと手を触れた。

途端、魔王は自身の身体が空へ浮き上がるのを感じた。


 ふわり。その魔物も魔王に引き続き空に舞い上がり。

魔王を抱きかかえるように、城の上空へと昇っていった。

 眼下で、衛兵たちが何やら騒いでいるのが見えたが、それすらも一瞬。

気がつけば遥か空の高みにいて、魔王は自分の隣にいるこの女性を見つめた。

 魔王の産んだ卵から、魔王以外が生まれるなんて、今まである筈がなかった。

この魔物は何者なのだろうか。何故、自分はまだ生きている?


 魔物は大陸の北にある、魔の森へと降り立ち。そこに魔王の身体を寝かせると、ようやく口を利いた。


「私は貴方の娘です。貴方のために働きます。どうか、傍にいさせてください。」

輝きを放つ白い肌、優しく、美しい微笑み。

魔王は薄っすらと瞼を開け、不思議な気持ちでこの魔物を見つめた。

 自分のような脆弱な生き物から、何故こんなにも上等な魔物が生まれたのか、理解できない。

ただ、彼女は魔王のことを心から慕ってくれているようであった。

魔王の命がもう持たないことに気づいてか、彼女の黄金色の瞳には悲しみが揺れていた。


「魔王、どうか早く私にご命令を。貴方のために、私は何でもいたします。」

 まるで、命令さえしてくれれば、自分が魔王の命を助けるとでも言わんばかりだ。

この魔物の持つ魔の力を考えれば、確かにそれも不可能ではないのだろう。

しかし、魔王はこれ以上生きることを望まなかった。


――私を・・殺して・・

 自分はこれ以上生きていてはいけない。命を絶たねば、この王国の国民は永遠に苦しむことになる。

魔王がその意思を告げると、女は悲しそうに顔を曇らせた。


「魔王・・貴方を殺すことは、私にはできません。

 貴方を殺すことが出来るのはこの世でただ一つ。王族の人間だけなのです。」


――・・ならばせめて・・

 魔王は言った。自身の持つ最期の願いを。


『せめて、エリオットに・・・』

 

 ・・・時は夜だった。

ようやく長い夢から目を覚ましたアユミは、自身が泣いていたことに気づいた。

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