嫌忌者③
7
最近、娘の様子がおかしい。
あれこれ話しかけてみても上の空だ。好物を渡してみても口をつけることなく放置されている。ずっと何かを思い悩んでいるようで、頻りに溜め息をついているのも気がかりだ。
もし、ここに妻がいたならば、女同士ということもあり、彼女の気持ちを察してやることもできただろうに……。
いや、過去を振り返っても仕方がない。やめておこう。それに、たとえ父親でも、親は親だ。何か彼女の力になれることがあるかも知れない。
意を決し、私は娘に尋ねてみることにした。
「なぁ、お前。最近、悩んでいることはないか?」
「いいえ、別にないけど……」
娘は、愛想も素っ気もなくそう答えた。
だが、直後、私の問いで何かを思い出したのか、そっと小さく項垂れる。
やはり、思い悩むことがあるのは確かなようだ。
私は、質問を変えることにした。
「じゃあ、俺に頼みたいことはないか?」
「頼み?」
娘が、ちらりと私の顔を見る。
どうやら、この問いかけ方は当たりだったらしい。
私は、さらに踏みこんだ。
「そう。頼み、だ。まぁ、俺にできることなどそう多くはないだろうが、これでも父親だからな。お前の頼みだったら、何でも聞くぞ」
「……何でも? 本当に?」
娘は、値踏みするかのように私を見つめた。
「あぁ」
私が頷いて見せると娘は、少し考える素振りを見せながらも、やがて、思い切ったように告げた。
「それじゃあ、私、お父さんに見てもらいたい男性がいるの。ついてきて」
8
住処を出ると、私は、先を行く娘のあとに従った。
それにしても、娘が恋をするような年になるとは……。
実に感慨深い気持ちの中で、私は、いつの間にか妻そっくりになっている娘の背中を見つめた。
「着いたわ。ここよ」
娘が急に立ちどまり、振り返る。
「お、おっと」
意識が遠い過去の記憶へと向いていた私は、彼女にぶつかりそうになるのを何とか踏みとどまった。
「もう。しっかりしてよね、お父さん」
「あ、あぁ。すまん」
そう言ってから、周囲の様子を確かめる。
その途端、私は驚愕した。
そこは、妻が殺されたあの現場だったのである。
「お、お前、まさか、……覚えていたのか?」
恐るおそる問う私に、娘は、
「え? 何のこと?」
と、首をかしげた。
「そ、そうか」
私は、ほっと胸を撫で下ろした。
実は、あの日妻が殺されたことについて、私は娘に話をしていなかった。
「お前のお母さんは、『嫌忌者』だという理由だけで殺されたのだ」そのようなこと、あまりにも娘が不憫で、伝えられなかったのである。
そのため、当時まだ幼く、事情をよく理解していなかった娘が“真実”として記憶しているのは、「家族で遠出をしたあの日、お母さんは急病で死んだ」という、私がついた嘘であった。
「変なお父さん」
「ふふっ」と、娘が妻に似た笑みを見せる。
「そうだな。今日の俺、何か変だな」
私は、下手くそな作り笑いを浮かべた。
「あ、そうだ。そんなことより、ちょっとこっちにきて」
私が変なことはもうどうでもよいのか、娘は私を物陰へと誘った。妻が殺された時と『嫌忌者』の男と話をした時、そして、これで3度目となるあの物陰である。
私がそこに着くと、娘は、少し勿体振りながら口を開いた。
「ねぇ、お父さん。見てもらいたい男性のことなんだけど、いつもこのくらいの時間にここへくるの。だから、お父さんは、この場所から彼を確かめてね」
「あぁ、分かった」
私は、まるで探偵にでもなったかのような気持ちで頷いた。
娘のハートを射とめたのは、いったいどんな男なのだろうか?
大きな物悲しさの中に、少しばかり存在する期待。そんな複雑な思いを胸に秘め、私は、その時を待った。
9
「き、きたわ! 彼よ!」
やたらと興奮している様子で、そう娘が告げる。
「俺が住処に帰ってきた時も、こんな調子で出迎えてくれたらいいのに……」そう思いながらも口には出さず、私は、黙って妻の殺害現場付近へと目を向けた。
しかし、そこには誰もいなかった。
「いないぞ」
「違う。もっと左のほうよ。よく見て!」
そう教えられ、そちらへと視線を移す。
すると、……いた。
大きな体をした男の姿が、そこにあったのである。
「あ、あいつは……」
男の顔を目にした途端、私の声は自然と震え始めた。
それもそのはず、忘れようとも決して忘れることなどできないその男は、妻を殺したあの犯人だったのである。
「ねぇ、どうかな? 彼、素敵だと思うんだけど……」
たわけたことを口にする娘に、私は声を荒げた。
「駄目だ!」
「え? どうして?」
「どうして、って……」
そこまでを言って、私ははたと気がついた。
妻が殺されたことは、娘には内緒にしている。ゆえに、彼女が何も知らないのは、当然のことだったのである。
娘の心に傷をつけたくはない。だが、事ここに至っては、最早どうしようもなかった。
私は、正直に伝えることにした。
「いいか、落ち着いて聞くんだ。あの男は、お前のお母さんを殺した犯人だ。だから、好きになることはもちろん、奴には、近づいてさえいけないんだ」
「え? お母さんが殺されたって、どういうこと? お母さん、病気だったんじゃなかったの?」
「それは俺がついた嘘だ。本当は、殺されていたんだ。……あの男に!」
私は、今もこちらに気づくことなくそこにいる男を示した。
「そ、そんな……」
娘の大きな瞳が一度男に向き、それから、徐に私へと戻ってくる。
にこりと笑って、彼女は口を開いた。
「分かった! お父さん、彼が気に入らないから、そんなことを言ってるんでしょう。でもね、騙そうとしても無駄よ。私、知ってるんだから。彼が、私たちに“住処を与えてくれている”こと。“食べ物を与えてくれている”ことも。そんな優しい人が、お母さんを殺すはずがないじゃない」
「い、いや、それは違……」
「まぁまぁ、お父さんはそこで見ていて。私、彼に告白してくるから!」
そう言うと娘は、私の必死の制止を振り切り、駆け出して行った。
10
男の前へと、いきなり娘が躍り出る。
「う、うわっ!」
よほど驚いたのか、男は大きな声を出した。
だが、
「突然、現れてしまってごめんなさい。でも、私、どうしても貴方に伝えたいことがあって……」
そう娘が話している間に冷静さを取り戻したのか、男は、やおらあの武器を取り出した。
そして、
「私、貴方のことが、好き。……大好き!」
そう告げる娘目がけて、それを発射した。
直後、娘は動かなくなった。
「うわああああああぁ!」
私は、声の限りに叫んだ。
やはり、土台無理な話だったのだ。普通の人間と『嫌忌者』との恋など、成就するわけがなかったのである。
私は、娘の許へと駆け寄ろうとした。
しかし、先ほど男が放った“ピレスロイド系殺虫剤”の効果が残っていて、簡単には近づけない。
そうしているうちに、男が私に気づいた。
「もう一匹いやがった!」
そう言って、こちらへと“殺虫剤”を噴射する。
私は、それを避けた。私たち『嫌忌者』が本気になれば、その移動速度は、時速300キロメートルを超えるのである。
「くそっ! ちょこまかと動きやがって、逃げるな!」
男が怒鳴る。
……逃げるな、だと?
妻を殺され、娘まで殺されたのだ。逃げる気など、もう私にはない。
一定の距離を置いて立ちどまると、私は、男へと体を向けた。
「終わりだ」
そう宣言し、男が再び“殺虫剤”を構える。
確かに、私はここで終わるのかも知れない。死ぬのかも知れない。
しかし、私たち『嫌忌者』は、世界中で約1兆5千億匹いる。恐竜が絶滅した時でさえ、私たちは生き残った。2億5千万年前から存在する私たち『嫌忌者』の歴史は、伊達ではないのだ。
たとえ私が倒れようとも、これからも『嫌忌者』は、忌み嫌われし者として生き続ける。人間と『嫌忌者』との戦いは続くのである。
……妻よ。……娘よ。待っていてくれ。私も、すぐにそちらへと行こう。
私は、その背にある漆黒の羽を広げ、男へと飛びかかった。
同時に、
「この、『ゴキブリ』め!」
男が“殺虫剤”を噴射する。
そう。私は、『嫌忌者』、……『ゴキブリ』である!
まっすぐ男へと突撃する私の両眼に、今、細かい霧状のものが映った。