煩悩男の終わりとはじまり
俺の名前は水谷一太。
現在、俺の脳内を支配しているのは、ただ一つの強烈な煩悩だった。
「頼む、最終レースで差し切れぇぇぇ! そこで内を突け! ああぁ!」
右手に握りしめたスマホの画面では、生中継の競馬レースが佳境を迎えていた。
全財産の大部分――いや、消費者金融からの借金をかき集めた全財産をブッ込んでいる。
勝てば一発逆転、借金返済だ!
脳内は欲望のネオンサインでギラギラに輝いていた。
その時だった。
前方を歩いていた女性のスカートが、突如吹き荒れた突風によって、見事に真上に捲り上がった。
「――っ!?」
競馬の画面から、本能の反射で視線が0.1秒で奪われる。
足が完全に止まり、スマホの画面と目の前の光景のどちらを凝視すべきか、頭の中で究極の煩悩バトルが爆発した。
――その瞬間、視界の隅に飛び込んできた鮮烈なビジュアル。
「……水玉か……。」
感動のあまり、脳内で思わずそんなセリフが響き渡った。
だが、そのコンマ数秒の油断が命取りだった。
「あ、赤信号……?」
気づいたときにはすでに遅かった。
視界の端で、巨大なヘッドライトの光が猛烈な勢いで迫ってくる。
最後に脳裏をよぎったのは、G1のゴール板でも、走馬灯でもなく――
『くそっ……借金も全財産も消えた上に、最後の最後であの女の子のパンツが水玉だって確認できたのは……まあ、不幸中の幸いか……っ!』
という、死んでも死にきれない下世話な未練だった。
――そして。
「…………で、お前は死んだ」
パッと目を開けると、そこは地平線まですべてが真っ白な、異様な空間だった。
まるで有名な名作漫画に出てくる「真っ白な精神の部屋」のような、時間の流れさえ歪んでいるかのような場所だ。
そのだだっ広い空間の真ん中に置かれた豪華な長椅子に腰掛け、やれやれと頭を抱えている一人の男(自称・神様)がいた。
「いやぁ、見事なまでの犬死にだったな、一太。おい。しかも最後の最後まで煩悩まみれのくだらない感想を抱きながら死ぬとはね」
「は? ここどこだよ……ってか、俺、トラックに……」
慌てて自分の体をペタペタと触るが、痛みはない。
神様風の男は、冷ややかな目を俺に向け、フッと鼻で笑った。
「お前の走馬灯を特等席で見せてもらったがね。スマホでギャンブル、借金まみれの生活、突風でのパンツ確認、そして不注意でトラック。
……お前、人生の最後まで煩悩の塊みたいな死に方をしたな。
人間として、救いようがないほどダメなクズだ」
「なっ、初対面のくせに人のことクズ呼ばわりするな! こちとらもっとこう、美女に囲まれるハーレム転生とかを期待してたんだよ!」
「はぁ? どの面下げてそんなセリフが吐ける。
おまけに、お前ほどのクズになると、天国はもちろん、地獄ですら『あまりの面倒臭さにうちの枠じゃ手に負えない』って受け入れを拒否されちまってね。
この死後の世界に、お前の居場所なんて一箇所もないんだよ」
「なっ、地獄にすら断られるってどういうことだ!」
「文字通りさ。
お前が犯した罪といえば、せいぜい身の丈に合わないギャンブルと借金、あとは日々の怠惰くらいで、大した大罪人ってわけじゃない。
本来なら『軽い地獄の責め苦』を数百年のんびり受けてもらう予定だったんだがね……」
神様はやれやれと盛大な溜息をついた。
「地獄の鬼どもがこう言ってきたのさ。
『あんな大の労働嫌いで、地獄の釜茹でや針の山すらサボる口実ばかり考えるクズを入れられたら、こっちの管理の手間が増えて迷惑だ。別の場所へ連れていけ』ってな。
つまり、閻魔様にも見放された厄介者ってわけだ」
「なんだと!? サボるも何も、死人なんだから働かなくていいだろ!」
「甘いな。
お前のその『楽して生きたい』という強烈な煩悩のオーラは、死んでなお健在だ。
そんな奴を地獄に置いたら、間違いなく地獄の治安と労働意欲が崩壊する。
だから、お前はこの死後の世界に一歩も居場所がないのさ」
「そういうわけで、お前はこの世界から強制退去だ。
とある異世界に『転移』してもらう。
その際、人間の煩悩の数にちなんで『108個の最強スキル』をくれてやる。
さらに、お前への特別サービスとして、ちょっと面白いユニークスキルを2つほどオマケしてセットにしておいてやったぞ」
「ユニークスキル? へえ、なんだそれ。
お、も、し、ろ、いってことは、俺が圧倒的に無双できるやつか?」
「あぁ、お前が悶絶するくらいには最高に面白い代物だ。
現地にいけば勝手にわかるさ。
せいぜい有意義に使わせてもらうといい」
神様がニヤリと意味深に笑う。
「ちょっと待て、どういう――」
俺の問いかけなどお構いなしに、神様の足元から足場がパカッと割れ、まばゆい光が下から突き上げてきた。
「それでは健闘を祈る!
居場所のない素晴らしい異世界ライフをな!」
「待て! 話を聞け――っ!!」
俺の意思とは完全に無関係に、水谷一太の体は真っ白な空間の底へと真っ逆さまに落ちていったのだった。




