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神の温床  作者: 寿 利真
13/13

海賊の贈り物

 王宮が寝静まってから数時間後、シンは黒髪の姿で部屋を抜け出した。リスクはあるが、今日の目的はヴァイシャの姿では果たせない。


 隙の無い身のこなしで警備の網をかいくぐり、王宮の裏庭を風のようにすり抜けた。暗闇の中、迷わずスウェネト夫妻の客間へと向かって。


 見張りのキーアは、ヴァイシャの寝室と扉でつながった書斎のソファーで眠りに落ちている。睡眠時間の圧倒的に少ないシンを、一人で絶え間なく監視し続けることは、実際には不可能に近い。今まで大人しくしていたこともあって、キーアは油断した。シンはその隙を待っていた。戴冠の儀まで後三日しかない。それまでに確認しなければならないことがあった。


 賓客用の客室エリアに難なく侵入し、アタリを付けた棟で立ち止まる。会話の中で大体の位置は聞いていたが、正確には知らない。それでも、目的の部屋はすぐに見つかった。暗闇の中で、窓から微かな明かりが漏れる窓がある。人目を避ける必要のある彼らなら、やはり動くのは夜なのだろう。


 その部屋のテラスに素早く上がり込み、大窓からそっと覗き込んだ。


 薄明りの中、椅子にかけている寥庵の姿が見えた。机の上で何かの作業をしているようだ。注意深く観察するが、イーライは見当たらない。


 暗がりの中で寥庵の横顔を見ていると、形にならない不安が、心の底で蠢くのを感じる。ヴァイシャを演じながら、人目のある場所で接するのはとは違う。 

 全然強そうには見えない。それでも、一度捕まった時の恐怖はまだ心の奥にこびりついている。いや、恐怖とは違う気がした。ヴァイシャとして会う度ごとに、言い知れない苛立ちが、心の中に波風を立てるのだ。


 シンは短剣を手に取り、強く握りしめた。今度は失敗しない。弱気な部分を吹き飛ばして、窓に手をかけた。


 窓の開く音が室内に響く。留守番をしながらメカ類の点検をしていた寥庵は、定期連絡に出たイーライが戻ってきたのだと思って振り返った。そしてそこにいた人物に、目を見張った。


 立ち上がる間もなく、侵入者に左腕を捻り上げられ、あっという間に背後を取られた。喉元に短剣のヒヤリとした感触と圧力を感じる。


「動かないどくれ。聞きたいことがある。聞いたらすぐに帰る」


 シンは一方的に要求する。もっともその程度で、寥庵のマイペースを崩すことはできなかった。


「真夜中に訪問してきてくれた美女の頼みなら、喜んで応じたいところだな。シン」


 喉に食い込む刃に動じもせず答えた。脅し付けた相手からの嬉しそうな口説き文句に、シンは思わず赤面しかかる。


「――まったくあんたはっ……気が抜ける男だね……」

「イーライにもよくそう言われるな」


 どこまでも悠長な寥庵に、シンは苦い顔で室内を見回す。


「それで、そのイーライは?」

「見ての通り、ここにはいないとだけ言っておこう」

「――まあいいさ。一人いれば」

「何を聞きたいのかな? 答えられることならいいのだが」


 寥庵はにっこりと答えながら、背中のシンの気配を探る。前回は随分怯えさせてしまったようだが、気を取り直せたようで何よりだ。まだ多少の緊張感は漂うが、それも悪くないと思いながら、密着した背中の感触をのんきに楽しんだ。


「ああ、何か聞きたいなら、喉元への攻撃は合理的ではないな。別に脅さずとも、答えられることなら教えてもいいし、駄目なことなら答えない」

「……」


 他人事のような忠告に、シンは無言の後、短剣を収めた。結局、ヌアクとは別の意味で脅しのきかない相手なのだ。油断だけはせず、聞くだけ聞いたら、さっさと撤収するべきだ。


「あんた達が何者だろうと余計な詮索はしないし、誰にもしゃべらない。だから、正直に答えとくれ。あたし達が会ったあの樹海で、あたし以外の誰かを見なかったかい?」


 『誰を』と限定する必要はない。誰かでもいれば、そこから一縷の望みは繋がる。


「誰でもいい。あんたの仲間以外で、誰かいなかったかい? あんたが見てなくても、他の誰かが見たとか、そういう話は聞いてないかい?」

「私達があの樹海で見かけた他人は、シンだけだよ」


 考えるまでもない問いに、寥庵は正直に答える。


「本当に……本当にあたしだけなのかい? 他の人間は、誰も見なかったのかい?」


 シンは顔色を変えて、縋るように問い質した。ヴァイシャさえ戻れば、ノイエともども晴れて自由の身に戻れるのだから、ダメ元でも必死になるのは仕方ない。


「ああ、そういえば……」


 重ねて問われ、寥庵はふとあすらからの報告を思い出した。


「死体ならあったらしい」

「死体!?」


 血の気が一気に引いた。


「……ど、どんな……特徴は……?」

「若い女性の射殺体と聞いているが」


 絶望的な回答に、背筋が凍り付く。寥庵を抑えつける手から、力が抜けていた。

 ヴァイシャの首飾りが落ちていた樹海に、若い女の死体。現実として受け入れるしかない。現状から、穏便に脱出する可能性は消えたと。


 その上で気持ちを立て直す。状況を把握できた以上、行動の指針は次善策に切り替わる。つまりは自力でノイエの監禁場所を探り当て、力尽くで国からの逃避行を強行するか、いっそヌアクを暗殺するかという、いきなり極端な手段になるわけだが。

 先行きは厳しいが、いずれにしても諦める選択肢はない。とにかく、少しでも可能性の高い次の対策を考えなくては。


「乱暴な真似をして悪かったね……もう、用は済んだから……」


 寥庵から離れて、気落ちした声で謝った。


「シン」


 振り返った寥庵が、シンを観察して能天気な感想を述べた。


「何だか知らないが、大変そうだなあ」


 こんな時なのに、思わず脱力した。


「そりゃ大変だけど、あんたには関係ないよ。もう関わらない」

「そうでもないさ。そんな状態で無事に帰れるのか? 衛兵にでも捕まったら、今、私が見逃す意味がなくなってしまう」

「……え?」


 安全策を優先する寥庵にしてみれば、本来ここはシンを確保するべき状況だ。シンが曲者として捕縛された場合、寥庵にまで類が及ぶ可能性がある。

 しかし実行しないことにしたのは、今回の訪問で、シンが現時点でヴァイシャと入れ替わっていることを確信したからだ。

 もしここでシンを確保した場合、世間的にヴァイシャが行方不明という大事件に発展するかもしれない。どんな事情で表舞台から消えたのかも不明の本物のヴァイシャが、素知らぬ顔で出戻ってきてくれる保証もない。危ない橋を渡るべきではなかった。


 それが主な合理的理由だが、目の前の必死なシンの姿を見ていたら、なんだか捕まえる気がなくなってしまったという自覚もあった。

 女で失敗しないなどと、イーライに豪語できないな、と内心で笑いながら、机の上に並ぶ幾つかの備品の中から、緑の石がはまった指輪を手に取った。


「私の予備の転送機だ。この国流に言うなら、瞬間移動ができる魔法の道具といったところかな」


 シンの手を掴んで掌に載せる。


「この石を押して、『寥庵』と言えば、樹海のあの場所に移動できる。片道だが、緊急の脱出装置として持っているといい。すぐにとは言わないが、その場で待機していればいずれ、私達の往復に便乗して、王宮のこの部屋に帰還できるだろう。それと平面移動しかできないから、地下では安全装置が作動して使用不可だ。二階以上の高さから使えば、同じ高さの空中に放り出されるから気を付けろ」


 最低限の説明をする寥庵を、シンは目を丸くして見つめる。驚いているその反応で、寥庵は見当違いの可能性に気が付いた。


「あの樹海で『魔法』が使えるほどの相手に、余計なおせっかいだったかな?」

「いや、すごく、ありがたい」


 寥庵の疑問を、すぐに否定する。

 あの日以来、折に触れ念じてみたり、考察や試行錯誤を繰り返してみたが、結局魔法が使えたことはなかった。

 少なくとも自分にも魔法を使えるらしいことは判明したものの、自在に使いこなせないものを頼っても仕方ない。結局今まで通りということ。


「あの時は、何で魔法が使えたのか、あたしにも分からないんだ。普段は小石一つ浮かせられないのに」

「だったら、いざという時に使うといい」

「……」


 シンは指輪を握り締めて戸惑った。必要なら対決してやるくらいの覚悟で対峙した相手から、思わぬプレゼントを受け取った。そんな便利な魔道具があるなら喉から手が出るほど欲しい代物だ。理解の及ばない力を使う彼らなら、不思議とも思わない。

 躊躇いがちに問いかけた。


「――どうして、こんなものをあたしに……?」


 寥庵がにっこりと微笑む。


「仕事が終わったら、まじめに口説いてみようかと思ってね」

「――!!?」


 シンの顔から一瞬にして火が噴いた。


「――も、もう、帰る……」


 逃げ出すように背を向ける。テラスに出ようとしたところで、立ち止まった。振り返って、しばらく寥庵と見つめ合う。言いたいことはたくさんあるのに、うまく言葉にならない。

 結局、一番言いたい一言だけを呟いた。


「ありがとう、リョーアン」

「どういたしまして」


 笑顔で頷いた寥庵は、そこで一つの質問を投げかける。


「あなたの目的は、私達と同じなのかな?」


 抽象的な問いかけの意味を、シンは即座に把握した。滅多に見せない柔らかい表情を微かに浮かべる。


「違うよ。あたしの『宝物』は、あんた達には興味のないものだから」


 寥庵の懸念を払い、今度こそ部屋を後にした。


 その後ろ姿を見送った寥庵は、机に向き直って早速明日の定時報告を入力し始める。

 予備の転送機の追加と、シンの探索指令の中止。

 樹海で回収した遺体の身元確認。

 王女の入れ替えなどキナ臭い策謀が王宮内で密かに進行していることへの注意喚起。

 

 一通り終えて、手を休める。


 シンのことを思い返した。無事、戻るべき場所へと帰れただろうか。ヴァイシャの私室なら、何事もなければもう戻れているはずだが。


 前回逃げ出した時の怯えを気丈に拭い去り、戦うことも辞さない覚悟で自分の元へ乗り込んできたあの必死さ。

 元来、他人のことには関わらない主義だが、つい手を貸してやりたくなってしまった。

 明日もヴァイシャとして、何事もなかったかのように微笑む姿が待ち遠しい。おそらく、もうどんな姿であっても、ヴァイシャと間違えることはないだろう。


 冷静に自分の精神状態と行動パターンを鑑みるに、想定外に深みにはまっている。

 現状ではまずい気もするが、悪い気分ではないから余計に質が悪い。


「――『宝物』、か……」


 シンの去り際の一言の意図を正確に読み取り、机の上に視線を落として笑う。


「どうやら、私達の正体は完全にバレているようだな」


 机上には、細々としたメカ類の他、隠し損ねた王宮見取り図が広げられていた。













 シンは暗闇の中、来た道を危なげなく進んでいた。


 ヴァイシャの手掛かりを捜しに行って、得たのは最悪の結論。しかし、思ったほどの落胆はなかった。

 行きと同じペースなのに、鼓動が早い。

 極力自分を抑え、努めて冷静なつもりで対峙したが、やっぱり調子を狂わされた。


 本当にやりにくい。近付くほどに、危機感が高まっていく気がする。初めて会った時から胸の中で蠢く焦燥感のようなもので、会う度に精神を掻きむしられていくようだ。鍵をかけ堅く閉ざすことで守られる平穏な世界に、招かれざる嵐が吹き抜ける。


 できるだけ、もう関わりたくはない。それでも……。


 左手の中指で光る指輪に視線を落とした。サイズは緩かったはずなのに、指に通した途端ピタリとはまった。寥庵に関わるものは、指輪の金属まで規格外だ。


 これは……この気持ちは、正直に嬉しい。

 脱出装置という機能のためではなく。

 仕事で舞台に立ってきて、高価なプレゼントもそこそこもらったものだが、どうとも思ったことはない。それなのに、今のこの感情は何なのか。

 困難な展望に気持ちが落ち込まなかったのは、間違いなくこのおかげなのだろう。


 明日になればまた、ヴァイシャの微笑をまとい、お互いに茶番を演じ合うことになる。もちろんやり通す自信はある。

 けれど、心の中はきっと強風が吹き荒れるのだろう。


「かまわない。あたしは、やるべきことをやるだけだ」


 暗示をかけるように自分に強く言い聞かせ、ヴァイシャの自室までトラブルもなく戻った。


 扉をそっと開け、隣の寝室に忍び込む。シンは灯った燭台の先に鋭い視線を向けた。

 誰もいないはずのその場所には、キーアが厳しい表情で立っていた。


 シンに動揺はない。寝入った隙をついて抜け出した以上、十分起こり得た事態だ。


「お早いお目覚めだね」


 悪びれもせずに声をかける。


「どちらへいらっしゃっていたのですか?」

「夜中の散歩さ」


 キーアが硬質の声を投げかけるが、まともに答えるつもりもない。


「勝手な外出は禁じられているはずです」

「おやおや。身も心もすっかりヌアクの配下になり切ってるようだね」


 シンはわざと逆なでするように指摘する。キーアが好きでやっているわけではないことを承知の上で。

 平静さを保とうと必死なキーアの顔色が、図星を刺されてわずかに変わった。

 反応を見定めながら、容赦なく追究する。


「あんた、目的がすり替わってるよ。ヌアクの命令に盲従している間は、とりあえず安心するのかい? 思考放棄だね。その忠実さは誰のためなんだい?」

「……私の望みは、ヴァイシャ様の無事のご帰還だけですっ」

「信用もしてないヌアクに、全ての判断を委ねた上でかい?」

「だからと言って、あなたを信用する理由にはなりません」


 堪り兼ねて反論するキーアを、シンは更に追い込みにかかる。


「だから、そこを自分の頭で判断しろと言ってるのさ。あんた、ヌアクがヴァイシャのために動いてると、本気で思ってるのかい?」

「――っ!?」

「あいつが他人のためになんて、指一本だって動かすもんか。大切なのは自分だけ。自分がトップにさえ立てりゃ、隣に立つ人間があたしかヴァイシャかなんて、どうでもいいのさ」


 それはキーアの一番の懸念。痛いところを突かれて反論の言葉を失った隙に、更に畳みかける。


「あたしはヴァイシャの居場所に心当たりがある。それはヌアクにも伝えているよ。あんた、何も聞かされてないだろう?」

「――どういうことですかっ!? 何故あなたが!?」


 不信感を煽る暴露に、キーアはついに冷静さを失った。


「まあ偶然だけどね。ある場所で、王家の紋章の首飾りを見つけたのさ。あんた達に拉致される、ほんの半刻程前にね」


 シンの言葉で、すぐに思い当たる。あの事件の日の朝、自分が用意したヴァイシャの装飾品の一つだ。するとシンが見つけたというのは、事件の翌日の深夜ということ。


「まあ、ヌアクの思惑なんか知らないけど、ヴァイシャを捜させてはいるだろうし、無理に波風立てることはないんじゃないかと思うわけだ」


 シンは口調を軽めに変えて、動揺するキーアを丸め込みに入る。


「どの道、何日もあんた一人で張り付いて見張ってるなんて不可能だよ。あんたは何も見なかったってことで、いいんじゃないのかい? 寝てる隙に、あたしが勝手にこっそりで歩いてたってだけのことさ。目くじら立てるようなことじゃないだろう?」


 世間話でもするかのような調子で、目の前まで近づいて、その瞳を覗き込んだ。そしてまた調子を一転させ、低い声で耳元に囁く。


「もしあんたの行動で、母さんの身に何かあった場合、あんたとヌアクの最も望まないことを報復とする。つまり、もしヴァイシャが無事だったとしても、あたしが無事なままでは帰さない」


 その脅しに、キーアの背筋が凍り付く。


「あたしは、やると決めたことは、必ずやるよ」


 とどめの一言。

 シンの中ではすでに、ヴァイシャの死はほぼ確定している。だがそんなことは誰も知らない。

 自分への恐怖を嫌というほど心に刻み付けているキーアには、これは効くだろう。この狂人は、本当にやりかねない――いや、間違いなくやる、と。

 加えて、舞台仕込みの演技力と演出も、実に効果的だ。我ながら性格が悪い。


 息遣いさえ見逃さないように観察し続け、キーアの心が、言葉もなく折れた瞬間を確信する。


 シンはまるで心でも読んでいるかのような絶妙なタイミングで、にっこりと微笑んだ。


「ほら、沈黙で全てが解決だ」


 友達にでもするように、ポンと肩を叩かれ、キーアは完全に敗北を受け入れた。まるでお手玉のように宙で自在に振り回されていることを自覚しながら、この少女相手にはどうすることもできない。あえて立ち向かってまで現状を動かす覚悟など、とても持てない。


 シンの言う通り、沈黙で返すしかできなかった。強い想いだけあっても、現実には何もできない自分の無力さが恨めしい。


 唇を噛み締めてうつむくキーアを見ながら、シンは内心で胸を撫で下ろした。

 一方で、主人の無事を一心に願うキーアに、後味の悪さも覚える。

 自分は今後、ヴァイシャは死んでいるという前提で動く。そのことを告げるつもりもない。


 唯一の目標は、ノイエの居場所を探り当て、力尽くでも奪い返して、この王宮から永遠に去ること。そこには、ヌアクやキーアの望む穏便な結末などはない。

 口先で脅しながら匂わせたヴァイシャの生還など、ほぼ絶望的だと知りながら、キーアをコントロールしている。この居心地の悪さは、罪悪感か。


 大事な人を失う――これには、明日は我が身の恐怖を覚える。行動を改める気は微塵もないが、気持ちだけは、痛いほどわかるのだ。


「……あんたに、恨みがあるわけじゃないんだよ。あたしには、これ以外やりようがないんだ」


 この期に及んで詫びようとも思わない。ただ、微かな苦笑いで、キーアに呟いた。

 ああ、駄目だな。母さんに叱られたのに、またいっぱいいっぱいになってる……内心で自嘲する。


 そんな、どこか人間らしい表情に、キーアは思わず目を見開く。

 シンのことを、完璧だが冷たい鉄で出来た人形のように思い込んでいた自分に気付く。そんなことがあるはずがないのに。

 そのあまりの超人ぶりに忘れがちだが、自分より一回りも年下の少女なのだ。母親を取り返すために、死に物狂いで戦ってあがいているだけの――。


 キーアは静かに長い嘆息をした。


「自分の弱さが情けないです。……あなたのように、強くなりたい」


 思わず呟いた。


「それは、あんたに守るべきものが多いってことさ」


 シンは一言で答える。

 たった一つだけのものを全力で守る姿勢と比べる方がおかしいのだ。ノイエさえいれば、自分の足場すらいらない。立場も仕事も生活も仲間も、全部どうでもいい。

 そんなアンバランスさの上でこその攻撃力なのだから。


「まだ夜は長い。もう一眠りしときなよ。心配しなくても、今夜はもう大人しくしとくよ」


 話を切り上げて、寝る準備をしようとした動きが、そこで止まった。正確には、寥庵からもらった指輪を外そうとしたところで。

 指輪を使用する上で受けた注意事項がふと脳裏に蘇った。寥庵の説明の中にあった『あの一言』……。


 しばらく時間をおいて落ち着いた今、寥庵の机の上にあった王宮見取り図が、不意に頭の中をかすめる。

 王宮の財宝を狙う盗賊ならおかしくもないとスルーしたが、あの図は少しおかしかった。


 心臓がどくどくと早まる。この推測が正しいなら、今、最も必要としているものが手に入る。


 それは、王宮外への脱出経路。寥庵からもらった指輪は確かにありがたいが、それはあくまで緊急用。ノイエの探索が一度で済むとは思っていない。ノイエがヌアク邸から移動させられていた場合、まず重点的に調べるのは、主に城下内になるはずだ。密かな脱出の度に、王都の外れの更に樹海の奥まで跳ぶわけにはいかない。

 もっと手軽でこまめに往復できる手段が欲しかった。


「もしかしてあれは……」


 頭に叩き込んである王宮見取り図と、寥庵のものを比較しながら、シンは部屋のドアを開け隣の自室に戻った。


「シン様?」


 突然の行動に、キーアが戸惑いながら付いてくる。


 シンは構わず、調度品の並ぶ壁の方へ歩み寄り、四つ這いになって下を調べ始めた。


 寥庵の持っていたあの不自然な見取り図。一番目を引いたのは、城壁の外まで伸びた長い通路。本来あるはずのない複数の部屋。


「キーア。あんた、王宮のどこかに異世界への扉があることは知ってるかい?」


 確信を持ちながら、キーアにカマをかけてみた。


「――存じません……」


 その型通りの反応で、大体の正答を理解する。


 かつて修道院長からうんざりするほど聞かされたものだ。罪の子を産み落とし、異世界の恋人の元へと逃げたという母。


 では、どこから逃げたのか?


 記録では、母アルファーシュ皇太子は、王宮内で病死したことになっている。魔法無効の結界が張られている王宮から、ひ弱な魔法使いがそうそう単身で脱出などできるものだろうか?

 その疑問から、シンは異世界への出入り口は王宮内のどこかにあるものと、薄々思ってはいた。


 では、絶対的な国家機密であろうそれは、人の出入りの多い王宮のどこにあるのか?


「まったく、あたしもとんだマヌケだったよ。何で見取り図を学習した時に気付かなかったのかね。ちょっと考えりゃ、分かることなのに」


 ゴトリ。


 立て付けの書棚を調べ始めた矢先、重い手ごたえがシンの手に返ってきた。書棚はまるで扉のように、右後ろの角を軸に弧を描いてスライドする。

 その足元には、深い闇へと続く階段が、下の方へと延びていた。


「――ほら、地下通路だ」


 振り返ってキーアに示す。キーアは息を呑んで凝視した。


「こ、この部屋に、このようなものがあったなんて……」


 その表情から、本当に驚いていることが伺えた。


「もしかしたらヴァイシャも知らなかったのかもね」

「……おそらくは……」


 地下通路の存在は知っていたが、まさかこんな身近な場所に出入り口があるなどとは、キーアも思いもしなかった。


 「悪いね、前言撤回だ。もう一仕事してくるよ」


 シンが当然のように告げる。キーアはとっさに口を開きかけたが、やめた。潜る準備をするシンを少しの間見守って、やがてため息をついた。


「朝までには、お戻りください」


 淡々と注文を付けた。


「おや、もう止めないのかい?」

「私にあなたは止められません」


 諦めの表情で答える。恐ろしいと思う反面、憎み切ることもできない自分への諦めでもある。


「お気を付けて」


 小さなランプを手に階下へ踏み出すシンを、吹っ切れた表情で送り出した。


「ああ、ありがとう」


 シンは本心で礼を言って、未知の空間に乗り出していった。


 


 






 

 


 



 

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