第一話:出会い
寂れた公園のベンチに座るたった一人の青年に風は囁きかけるようにいたずらする。さらさらとなびく黒髪、整った鼻梁と薄っすらと桜色に染まる唇、透きとおるような肌の美しさはどれも、通行人たちの目を引いていた。人間だけではなく、風もまた、公園を散歩する一人だったというわけだ。
風は青年のそばでクルクルと旋回を続けていた。誘うように、呼んでいるかのように。
間もなくして風の願いは叶えられた。
青年が起きた。
それまで眠っていたのである。こんな昼間から、俗世間から離れたこの場所で、気持ちよさそうに彼は夢を見ていた。よほど心地よい夢だったのか、青年は欠伸しながら、せっかくの夢を妨げた風を――空を睨みつける。
「現実か。仕事に戻れって言うのかな」
憂鬱そうに持ち上げた瞳の色も黒、布団代わりに被っていた上着も黒だった。全身黒ずくめでできた男は、のんびりと立ち上がり、とぼとぼと公園を横断する。春うららかな雰囲気でありながら、どこか淋しげなのは、きっとはしゃぐ子供たちや、それを見守る両親たちの姿が見えないからだろう。
彼は一人、公園を出た。
家路へと歩み出した足は、しかし、すぐに止まる。
右方より聞こえた怒声が三つ、どれも殺意が込められており、どれも矛先は同じだった。前を走る少女が、彼らの標的。自分の体と同じほどの大きな熊のぬいぐるみを抱えながら走っているのが特徴で、幼いながらに彼女は必死になって逃げているようだ。
後ろから追いかけてくる三人のごついおっさん達は、いかにも悪者で、遠めに見ている通行人たちは、彼らをひどく不潔なものとして視界に入れている。血走った目が、通行人をにらみつけると、そそくさと他人に戻っていく。警察を呼ぼうとするモノがいたが、実際に呼べたものはいなかった。
「おい、ガキ。まちやがれっ」
野太い声が少女の足を速める。少女は命がけで走る。
公園の入口で立ち止まったままの青年にぶつかったのは、青年が動かずに成り行きを見ていたからに他ならないが、視線を上げて青年の顔を見たのは少女の意思だ。
ぽっと頬をピンクに染めた少女は、しばしボウッとしていたが、背後から追いかけてくる怒声に意識を取り戻す。夢から覚めるために頭を左右にふり、夢のような美貌をそなえた青年がそこにいると知ると、手に抱え持っていたぬいぐるみをグイっと押し出す。
「これをあの人たちに見つからない場所に、隠して」
「面倒ごとは好きじゃないな」
「お願い」
無理矢理、ぬいぐるみを青年に押し付けると、少女は後ろをチラリと確認してから、またも全力で走り出した。角を曲がり、姿を隠す。青年が声をかけたが、少女はもう見えない。
「弱ったなあ」
これからどうしたらいいのか、と迷っているような言葉であるが、実際に彼の声音はどうでもいい、というようにのんびりとしたものであった。
「おい、そこのあんた」
肩をつかまれた。三人が息を切らしながら、青年に尋問しようと目をぎらつかせている。尻ポケットが膨らんでいるのに、青年は気づいていた。だから、あえて彼らを刺激しないようにしようと青年は愛想よく微笑を浮かべる。
美しいと思った。
男でありながら、これほどの容姿端麗さは美女を超える。有名なモデルでさえ、この微笑を見れば腰砕けて喘ぎだすであろう笑みを、チンピラのような三人組は夢のごとく眺めている。
青年の笑みに、蕩けたような目つきと半開きの口をどうにも戻すことが出来ず、彼らはそのまま話しだした。
「い、いま、ガキが来ただろう?預かったものを渡せ。いや、渡してくれ」
「預かったもの?」
大きく広げて見せた青年の腕の中に、あの大きな熊のぬいぐるみはなかった。
見間違いだろうか。
彼らは舌打ちすると、青年のことも忘れて、また走り出した。青年にぬいぐるみを渡したように見せて、実はまだ自分でもって走り逃げているのだろう。
「あのガキ、捕まえたら、ただじゃおかねえぞ」
尻のポケットを上から叩き、その重さを確認する彼らを見送り、青年はまたも欠伸してから歩き出した。あのぬいぐるみは、どこにも持っていなかった。




