第六十七話 残り香
軟禁命令が出たのは、その日の夕方だった。
命令と同時に、黒衛の兵が二名つけられた。
王は配置を改めよと命じただけだった。
だが、その曖昧な命令は現場へ下るたびに形を変え、やがて誰も責任を負わない厳格さへと姿を変えていく。
新しくついたのは、ゼルンとリクト。
名前だけ告げられ、それ以上は何も知らない。
ただ、姿を見た瞬間にわかった。
白衛や訓練兵とは違う。
――空気が沈む。
足音を殺した動き。
温度の落ちた視線。
重く沈む気配。
そこに立たれるだけで、いつもの部屋が――見えない扉で塞がれたように感じた。
その日を境に、バルクとレオンの姿は消えた。
夜の食事を最後に、メルダとニーナも来なくなった。
扉の外から聞こえていた笑い声も、足音も、ぱたりと途絶えた。
——それは、ほんの数日のうちのことだった。
(……急すぎる。)
ここ数日の変化だけが、妙にきれいすぎて落ち着かなかった。
まるで誰かが、順番にエリシアの居場所を片づけているようだった。
それでも、祈祷の時間だけは許された。
聖堂への往復だけは、黒衛の護衛付きで続けられた。
聖堂に行きたいわけではなかった。
ただ、外の空気を吸える唯一の時間だった。
けれど、その道すがら見える厨房や中庭のどこにも、
リュミエの姿はなかった。
(……いない)
窓から覗いても、彼女らしい小柄な影は見えない。
以前なら、パンの籠を抱えて走っていたはずなのに。
——いつからだろう。
リュミエの姿を見なくなった。
いつも厨房で笑っていた声が、ぱたりと途絶えた。
聞こうとしても、誰も答えない。
「あの子、来たばかりなのに、また戻されたらしいわ」
「この前来た子、黒衛に口答えしたから、しばらく謹慎になってるって聞いたわ」
そんな噂を耳にしたが、それがリュミエのことなのかは確かめようもない。
バルクとレオンも、城の中で見かけなくなった。
守衛の立ち位置が変わっただけかもしれない。
それでも胸の奥がざわついた。
ひとりずつ、姿が消えていく。
まるで誰かの手で、少しずつ世界の輪郭を削られていくみたいだった。
そんなふうに思うと、胸がどきどきして、眠れなくなった。
——そして、その夜。
またヴァルデンの尋問の記憶が蘇った。
あのとき、聖堂の火の中で自分を助けてくれた女性。
煙の向こうで、名前も聞けずに別れた。
きっと無事だった——そう思いたかった。
けれど、あの日以降、聖堂の人々は多く処分されたと噂で聞いた。あの時、メルダが処分はなかったと言ったのは、エリシアのためについた嘘だったのかもしれない。
秩序の回復という名のもとで、貴族の神官たちは一掃されたという。
それが真実かどうか、確かめる術はない。
母のこともそうだった。
助けてくれた人たちも、バルクも、レオンも——みんな。
どうなったのか、誰も教えてくれない。
はっきり告げられるよりも、こうして“分からないまま”人が消えていく方が、よほど怖かった。
それが何より、エリシアの心を削った。
* * *
それから数日、部屋には入れ替わりで侍女が出入りした。
顔も覚えられないほど無言で、誰も目を合わせようとしなかった。
食事を運び、掃除をして、またすぐに出ていく。
言葉を交わすことのない日々が、余計に孤独を濃くしていった。
そんな日がいくつか過ぎた頃、聖女指導係として、ようやく専任の侍女が配属された。
名をルディアといった。
無表情で、声に揺れがない女性だった。
その背後には、寡黙な若い侍女が一人、いつも控えていた。
朝、鏡の前に座らされる。
髪を梳く音だけが、部屋に響いた。
メルダやニーナのときは、くすぐったいと言えば笑ってくれた。
嫌なことを伝えれば、次からやめてくれた。
けれど今は——もう、拒めなかった。
「少し、頭を下げてください」
ルディアの声は静かで、冷たいほど整っていた。
櫛が髪を通り、指が形を整えていく。
それは痛くも、優しくもなかった。
ただ、何も感じない。
服を着せられ、襟元を整えられる。
ルディアの指先はまるで機械のように正確で、そこに“人”の気配はなかった。
——私は、人形みたい。
鏡の中には、きれいに整えられた少女がいた。
誰なのか、一瞬分からなかった。
昼は作法の指導、夜は祈祷文の暗唱。
間もなく王の生誕祭を迎えるため、過密な日程が組まれた。
膝を折る角度、指先の置き方、声の抑揚。
間違えば、その都度、静かな注意が入る。
食事の時間も削られ、皿のスープはいつも冷めていた。
(息が、苦しい)
窓の外に見えるのは、小さな箱庭のような中庭だけ。
そこでパンを分け合い、兵士たちと笑い合った時間が、遠い夢のように思えた。
ある昼下がり、一人で窓の近くに腰かけ、何の気なしに庭を見下ろしていると、中庭を横切る、小柄な下働きの影がふと目に映った。
背格好も、髪の色も——リュミエに似ていた。
胸の奥で、何かが弾けた。
気づけば、扉の取っ手を握っていた。
——出てはいけない。
それを思い出したのは、扉を開けたあとだった。
廊下に出た瞬間、二人の黒衛が立ちはだかった。
ゼルンが無表情のまま腕を広げた。
額に落ちる茶色の髪の奥で、暗緑の瞳がわずかに揺れた。
視線は冷たいのに、どこか探る色がある。
“今は通すな”と言外に告げる、静かな圧。
その横で、リクトが少し困ったように笑った。
藍色の瞳が、エリシアを見下ろしている。
「どうされました、聖女様」
「……外に、少し。あの――」
言葉が喉に詰まった。
視線の先に見えた影は、もう消えていた。
「外出の許可は、取っておられますか?」
声は軽い。
けれど、目だけが笑っていない。
「リュミエに……似た人を見た気がして……」
「そうでしたか」
リクトが一歩近づいた。亜麻色の髪が、陽の影を受けて深く見えた。
「でも、残念ながら。許可のない外出はお控えください」
もう一歩。
距離が、近すぎる。
エリシアは、反射的に後ずさった。
「……怖がらなくても大丈夫ですよ」
にこりと笑いながら、手が伸びる。
口調だけが柔らかい。
足音だけが静かすぎる。
「お部屋へ戻りましょう、フィルナ様」
肩に落ちた指先が、薄い皮膚を押し分ける。
その圧だけで、息がひとつ乱れた。
かすかな痛みに肩が震えた瞬間――
ゼルンが、けだるそうに頭を掻きながら言った。
「……やめておけ、リクト」
空気が、ひとつ沈んだ。
リクトは肩をすくめ、手を離した。
「失礼。――足元が危ないので」
「陛下のご命令です。お体をお守りするために」
ゼルンの声は低く、無機質だった。
(守られているんじゃない。閉じ込められているだけ――)
部屋に戻ると、机の隅に手を伸ばした。
寂しさに耐えきれず、棚の奥からあの包みを取り出す。
リュミエが残してくれた、小さな包みだ。
厨房に頼んで作ってくれた、西の伝統菓子。
開けることはできなかった。
けれど、紙越しに指を添えるだけで、かすかに甘い香りが広がった。
その香りで、リュミエの屈託のない笑顔が蘇る。
エリシアは包みを胸に抱きしめた。
あの子は、どこで眠っているのだろう。
温かい布団があるだろうか。
考えるだけで、胸がきゅっと縮んだ。
——そのとき、扉が開いた。
ルディアが入ってきた。
「あの!……リュミエという女の子がいましたよね? 知りませんか?」
抑えきれず声が漏れた。
尋ねる相手が違うと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「最近、姿が見えないんです。会うことは、できないんですか?」
ルディアの声は、冷たく整っていた。
「——あの田舎者でしたら、もうおりません。
使い物にならぬどころか、フィルナ様を厨房や兵舎など、不浄の場所に連れ回したそうですね。そのような者、この城には不要です。追い出されました」
その声は低く、静かで、よく通った。
怒鳴るでもなく、押し殺すでもない。
それなのに、部屋の空気を震わせる迫力があった。
エリシアは何も言えず、机の上に視線を落とした。
ルディアの視線が、包み紙をとらえる。
「まあ、まだそんなものが。……聖女様が口にされるわけにはまいりませんね」
言うが早いか、ルディアは包みを手から奪い、無言のままポケットに押し込んだ。
グシャリと、紙がつぶれる音。
「返して……!」
エリシアは手を伸ばしたが、ルディアはその手を払いのけた。
「――今後は、毒味を通したものだけを口になさってください」
ルディアの目には感情がなかった。
そこにあるのは、“規則”だけだった。
リュミエが残してくれた、たったひとつのものまでが、握りつぶされた。
窓辺を見ると、いつかリュミエが摘んでくれた花がうなだれている。
色を失った花弁が、光の中で揺れた。
ルディアが去ったあと、部屋には沈黙が落ちた。
硬い靴音だけが、しばらく耳に残っていた。
しばらくして運ばれてきた食膳は、整いすぎていた。
銀の皿、冷めたスープ。
どれも完璧で、どれも温かくなかった。
スプーンを持ち上げかけて、手が止まる。
リセルが焚き火のそばで作ってくれたスープの匂いがよみがえった。
味見しては首をかしげ、少し塩を足して笑っていたあの顔。
湯気の向こうで、雪が静かに舞っていた。
その記憶の中だけが、まだ温かかった。
エリシアは息をひとつ吐き、スプーンをそっと置いた。
もう、食べる気にはなれなかった。
窓の外では、夜がゆっくりと降りていた。
冷たい空気が流れこみ、花が小さく揺れた。
食事が下げられると、窓の外では夜が深くなり、気配がひとつ、またひとつ消えていく。
静まりすぎた気配の向こう側で、胸の奥だけがわずかにざわついた。
何かあったわけじゃない。
でも、暗くなると、扉の向こうの沈黙がやけに長く感じた。
閉じ込められているという事実より、その沈黙のほうが落ち着かなかった。
数日経っても、夜になると胸の奥がひやりとする。
理由はうまく言えない。ただ、手のひらの中に残った“何か”が、どうしても消えない。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
その“何もない”ことが、いちばん怖かった。
胸の奥のざわめきだけが、夜の中でゆっくりと広がっていった。
——外に出たい。
空気を変えたい。息をしたい。
それだけの衝動が、いつも彼女の胸の中で燻り続けていた。




