第三十七話 春祭りの鈴
林を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
抜ける、淡い空。
すっかり雪解けた高原が、春の陽を浴びて、ゆるやかに波打っている。
草の匂いを含んだ風が頬をなで、リセルは目を細めた。
――この景色は、知っている。
フィンと暮らしたヴァレン村の、高原の匂いだ。
ふと、群れが視界の端を横切った。十数頭のトナカイが、若草をはみながら移動している。
そのうちの一頭が近づき、鼻先を差し出した。
毛の奥にこもった温もりと、かすかな草の匂いが指先に伝わる。
――あの村の朝も、こうだった。
隣でエリシアが口元に手をあて、おかしそうに笑った。
「やっぱり、リセルってトナカイに好かれるみたい」
「……昔、世話をしてたからじゃないか?」
「きっとわかるんだよ。トナカイだって、自分を好きな人は」
「別に……好きだなんて言った覚えはないけど」
リセルの言葉を最後まで聞いたのかどうかもわからないまま、エリシアは広い草原へ駆けだした。
「あっちに村があるみたい!」
遠く、草原の向こうに小さな村が見える。
軒先から吊るされた赤、黄、青、緑の布が、春風にあおられて大きく膨らみ、陽を反射してきらめいていた。
屋台の軒には、花輪と一緒に小さな鈴が下がり、風に揺れるたび軽やかな音を響かせる。
通りには香ばしい肉の匂いと蜜を煮詰めた甘い香りが漂い、太鼓と笛の音が混ざり合う。
人々のざわめき、子どもたちの笑い声、鈴の音――春の光が、そのすべてをやわらかく包んでいた。
「お祭り、やってるんだね」
エリシアが目を輝かせて立ち止まった。
頬をなでる風はまだ冷たい。それでも、空気の匂いには冬とは違うやわらかさがある。
「この時期は、どこも春祭りだからな」
リセルは肩をすくめる。
「ヴェルナの連中は、ほんとになんでも祝いたがる。雪灯祭に春祭り、夏祭り、収穫祭……一年中、騒いでる」
「楽しそう!」
「……お前はな」
通りを歩く人々の腰には、細い紐飾りが巻かれていた。
鈴と小さなガラス玉がついていて、人々が歩くたびにころんと鳴る。
陽を受けたガラスが光をはじいた。
――春祭りの象徴のような飾りだ。
エリシアは屋台の前で足を止めた。
細い革紐に、小さな鈴とガラス玉が並んでいる。
そのガラスの中には、青や緑、琥珀の色が溶け込んでいた。
陽を透かすと、淡い光がにじみ、色が揺れる。
すぐに溶けてしまいそうな、やさしい色だった。
何も言わず、エリシアは指先でそっと触れた。
鈴が小さく鳴る。
「……欲しいのか」
リセルの声に、エリシアは目を瞬かせる。
「ううん」
そう言いながらも、視線は外さない。
リセルは小さくため息をつき、銅貨を置いた。
「……ほら」
「え、でも……」
エリシアの瞳が、戸惑いと喜びのあいだで揺れる。
店の男が鈴を手渡しながら不愛想にいった。
「せっかくの祭りなんだ、兄ちゃんもつけなくていいのか?」
リセルは答えず、買った鈴をエリシアに差し出した。
エリシアは小さく「ありがとう……」と呟き、腰布に結わえつける。
細い紐が揺れ、鈴がやさしく鳴った。
陽の光をはじくガラス玉が、きらりと光る。
「リセルは、いいの?」
「俺は、いい」
「……そっか」
エリシアは何も言わずに笑った。
その笑顔に、なぜか胸の奥が落ち着かなくなる。
輪投げ、投げ矢、腕相撲――広場のあちこちで歓声があがる。
エリシアはまた足を止め、指差した。
「ねえ、あれやろう!」
投げ矢の的が並んでいる。
「別に、いいけど……」
しぶしぶついていくリセルをよそに、エリシアは目を輝かせて矢を握った。
一投目は外れ、二投目も外れる。
三投目――矢が、筒にすとんと入った。
「やった!」
エリシアが飛び上がる。思わずリセルの両手をつかみ、そのまま跳ねた。
わっ、と戸惑ってよろける。
でも、子どもみたいに笑う顔を見ていたら――知らず、口元がゆるんだ。
(なんだよ、それ、あいつみたいだな……)
フィンもそうだった。
大人のくせに、勝負事にすぐ熱くなって、気の乗らないリセルを引っぱって祭りを歩いた。
輪投げも、投げ矢も。
決まって一番楽しんで、肩に腕を回して笑った。
最初は嫌だったのに――気づけばいつも、一緒に笑ってた。
ああやって、明るいほうへ引っぱっていくんだ。
……不思議だ。
思い出しても、痛くない。
いつもは違った。
フィンのことは考えないようにしてきた。
思い出したら、息が詰まる。
歩けなくなる。
……そう思ってた。
でも――今は、自然に浮かぶ。
笑って、思い出している。
あの光景ごと。
あの声ごと。
「ほら、見て! 景品!」
エリシアが振り返り、画帳を掲げて笑った。
手の中の紙束が、軽く揺れる。
「……絵なんて描くのか」
「描く!」
即答に、リセルは肩をすくめるしかなかった。
祭りのざわめきの外側で、足を止める。
酒場の戸口に身を寄せ、耳を澄ました。
隊商の連中は、酒が入るとよく喋る。噂は待つものじゃない。拾いに行くものだ。
「なあ、聞いたか? また沿岸の町に来てるらしいぞ、あの船」
「どの船だよ」
「アルバトロスだよ。知らねぇのか? 神出鬼没の”由賊”ってやつ」
「バカ言え。ラファスの検問も抜けて、どうやってんだ」
「知らねえよ。でも、珍しいもんを取引してるって話だ。香辛料とか、高い酒とか」
「いや、俺が聞いたのは人攫いだってよ。腕の立つやつや、子どもまで」
「逆だろ。助けてんだよ。戦火から逃げてきたやつを、安全な場所に運んだってな」
「東の大陸まで行ったって? 夢みたいな話だ」
「はっ、信じるかよ。海路は金がかかるし、ルシトには通行証がいる」
「普通の船じゃ、まず無理だ」
リセルの鼓動が早まった。
二年間、がむしゃらに働いて、金を貯めてきた。
どんな形でもいい。とにかく船に乗り込んで、東の大陸――自由の国ルシトへ渡るつもりでいた。その先のことも考えていた。
……通行証は、もちろん持っていない。用意するあてもない。
追われている身で、そんなものを取るのは不可能だ。
だから、雑用でも何でも申し出て、船員として身元を得る。
そうやって入国を強行するつもりだった。
無茶で、穴だらけの計画だということは、分かっていた。
それでも、そこにしか出口がなかった。
なのに――。
アルバトロスの船。
検問をすり抜けて航路を抜ける“由賊”。
(……そんな話、あるかよ)
――それでも。
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
〈由賊〉――国に属さない連中。
海を好き勝手に渡り、どこにも縛られない。
兵でも商人でもない。
奪うこともあれば、雇われて護衛や運び屋もやる。
法より、自分たちの掟で動いている。
人は、そんな連中を〈自由民〉とも呼んだ。
戦から逃げた者を、東の大陸まで運ぶ由賊がいたって、おかしくはない。
助けているって噂が本当なら。
奪うだけの連中じゃないのなら。
どこにも居場所のない者を運ぶ船なら――確かめてみる価値はある。
そのとき、背後でそっと袖を引かれた。
「リセル?」
振り向くと、エリシアが首をかしげていた。
「……由賊って、なに?」
囁くような声だった。
「あとで話す」
そう言って、視線を酒場に戻した。




