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灯火の誓い〜炎を宿す少年と、癒しの力をもつ少女。それでも、選んでしまう旅。その炎は、守りか――灯火の竜の記憶か。   作者: 水瀬 理音
第五章 淡雪の鈴

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第三十六話 縫い目の地

 ヴェルナ北縁、緩衝地帯。

 山肌を削って築かれた駐在所は、砦と呼ぶには小さく、宿場と呼ぶには堅牢すぎた。基礎と外壁はラファス式の石積み。上階にはヴェルナ産の木材が組まれ、太い梁がむき出しのまま走り、屋根は急勾配に張り出している。


 石と木が、無理に縫い合わされたような造りだった。縫い目は、隠されていない。二国の友好を示す象徴として建てられたという。

 実際は友好の象徴というより、互いの警戒が形になった建物だった。

 石は冷たく熱を吸う。木は軋んで歪むだけ。調和というより、妥協を体現していた。

 ここは、どちらの国でもない。


(何が友好の象徴だ。どちらにも属しきらない歪な境界の姿そのものだ)


 駐在所の石壁の一室で、男が低く息を吐いた。

 黒い軍服。肩に、銀の炎。

 獅子の爪のようにも見える、三筋の炎。

 それを囲う弧。中央の一筋だけが、わずかに長い。

 目立つ意匠ではない。だが視線を外させない、静かな印だった。


 王命でのみ動く直属特務隊〈アシュガルド〉――通称黒衛(こくえい)。その〈将〉に与えられる印。

 黒衛は、国政軍とも近衛兵とも違う。ただ、王の意思を体現するものだった。

 ヴァルデンは銀鎧を外し、簡素な軍服姿で書簡に目を通していた。

 背は高い。だが巨躯ではない。鎧を脱いでも輪郭の崩れない体躯。重心は低い。隙がない。

 叩き上げの兵。それでいて、前王エリウス・ルヴェルクにより黒衛の将へ抜擢された。

 本来、ありえぬ人事だった。


 王政に最後まで抗った北西氏族の出。その身は王都に置かれている。

 生まれで座に就いたのではない。

 三十半ば。若いとも老練とも言い切れぬ年齢。

 その鋼のような深灰の瞳を、王都では今も快く思わぬ者がいる。


 怒鳴ることはない。声も荒げない。

 命令は短く、それ以上を求めない。

 繰り返させることもない。動きは揃う。

 目元は涼しい。鋭いというより、冷えている。視線を向けられた者は、理由もなく背筋を伸ばす。

 その場にいるだけで、空気の温度が一段落ちる。

 それで、足りていた。


 国境の狭間に目標が消えてから四日。

 ヴァルデン率いる黒衛部隊は、森へは入らず、ヴェルナ側緩衝地帯の駐在所に一次滞在を申し出ていた。


『国の外へ出すな』


 それが王命だった。

 だがこうなれば、ヴェルナ領への派兵要請をせねばならない。名目は、自国要人の“保護”。

 二国間の関係は常に火種になりうる。

 ラファスが力を持っているとはいえ、ヴェルナを軍事的に支配しているわけではない。

 それでも、従属関係は否定できない。


 資源国家ヴェルナの鉱石は北へ流れる。加工された鋼は南へ戻る。

 武器はラファス製。軍装の規格も、測量技術も、製鉄法も、静かに浸透している。

 交易路は北が握る。金の流れも同じだ。

 ヴェルナは資源を持ちながら、利を持たない。


 ――だが。


 ヴェルナは服従していない。

 王を持たぬ氏族連合国家。ラファスは手を回し、突出した氏族を出さないように調整してきた。


 鉱山を握る氏族――鉱山は掘るだけだ。鋼にする術は北にある。

 港を押さえる氏族――港は流すだけだ。帳簿は北が握る。

 森を守る氏族――聖域は不可侵。ただそれだけだ。

 山岳路を支配する騎兵氏族――道は握るが、武具は北に頼る。


 それでも、彼らは領域を持ち、〈円卓〉と呼ばれる会議で決を採る。

 決定は遅い。だが、それだけ合意は重い。

 その遅さこそが、彼らの主権だった。


 そして、軍は簡単には入れない。

 王直属の黒衛であっても例外ではない。

 滞在は五日。延長には氏族代表の署名が要った。


 十名を超える武装移動は事前通達が必要だ。重装は禁止。戦闘行為は外交問題。

 秩序を守る部隊が、他国では剣を抜けない。


(城では恐れられる黒衛も、ここでは自由にならん。皮肉なものだ)

 ラファスは表立って争いを起こすことを嫌う国だった。

 侵略より、管理。

 剣より、帳簿。


「……滞在許可は明朝まで。延長には代表二名の署名が必要です」


 隣で書類を整えていた士官――ルシェが告げる。

 銀に近い白金の髪を短く刈った青年。薄琥珀に紫を帯びた目が精悍な印象を残す。褐色の肌。まだ年若く、ヴァルデンより小柄ではあるが、無駄のない動きと引き締まった筋肉質の体躯。

 報告は削ぎ落とされており、語尾に揺れはない。


 ヴァルデンは窓辺に立ち、山脈を見ていた。

 王からの書簡は届いている。

 封を切らずとも分かる。


『急げ。生死確認を急げ。事故処理で済ませるな。聖女候補の失踪は信仰の揺らぎだ』


 分かっている。

 だが、ここでは急げない。


 森への正式立ち入りには氏族会議の承認がいる。

 鉱山氏族の同意、森氏族の承認、港湾氏族への通達、議題提出、それから採決。

 書類は机に積まれたまま動かない。

 紙は重い。石壁の中ではなおさらだ。

 その間に、逃亡者は消える。


 ヴェルナは従属しているが、服従していない。

 宗教上はオルデス神を受け入れている。聖堂は建っている。

 だが森では精霊が囁き、禁忌の森は今も聖域だ。

 軍が踏み込めば氏族は結束する。外交が揺らぐ。


 ラファスは侵略を選ばない。

 経済で縛る。技術で縛る。信仰で縛る。

 港を取り仕切るイースガルド連盟も、その一端だった。


 名目は治安維持の合意組織。実態は、ラファスの息がかかった傭兵と崩れ軍人。

 武器は旧型のラファス製。帳簿は二重。

 港の関税の一部は“寄進”の名で聖堂へ流れる。荷が一つ消えても、誰も騒がない。

 公式には無関係。

 だが、知らぬはずがない。

 腐臭は港から立ちのぼる。

 正式な軍は置けない。

 均衡は清廉ではない。

 腐敗は知っている。解体も試みた。だが利権は絡み、網は深い。

 腐りながら、均衡は保たれている。

 連盟幹部が指示系統を握るこの土地では、黒衛であっても王の意志を振るいきれない。


「……追尾の状況は」

 ヴァルデンは振り向かない。

「斥候五。主要経路三、交易路二に配置済み。祭りの集落には別働を潜らせています。軍装は解いております」

 黒衛の若い士官たちは、商人に紛れ、旅人の姿で酒場に座り、祭りの群衆に溶けている。

 軍が歩けば主権侵害。だが数名なら"視察"で済む。


「目撃情報が二件」

 ルシェが続ける。

「白金に近い髪の少女。少年と同行。確度は八割。誤認の余地は二割。港へ向かう可能性が高いと判断します」

 室内が静まり返る。

 森は不可侵。だが港なら動ける。

 逃げる者は、出口へ向かう。


 ――ファロス港。


 東に位置するヴェルナの出口。連盟が関税を管理する灰色の場所。武器と金と密約が交差する。

 森への申請は煩雑だ。だが、港への移動は許可範囲内。

 十名に満たない。通達で足りる。


「森への申請は保留だ」

 ヴァルデンの声は低い。

 ルシェが顔を上げる。表情を隠せないのは若さゆえの素直さだった。

「では、森への立ち入り申請は……」

「不要になった」

 ルシェは一瞬だけ背筋を正した。

 無意識の癖だ。

 長く組んでいる部下だ。こちらの言わんとすることは伝わっているらしい。


「ファロス港へ向かう。随行は最小限でよい。軽装だ」

 ルシェは頷いた。

「では、三名のみ。残りは待機とします」

「通達は形式のみでよい。町での“保護”は避ける」


 聖女候補が“逃げた”と広まれば、信仰が揺らぐ。

 祭りの町で拘束すれば、それは“保護”ではない。

 追跡になる。

 出口で止める。

 港なら、動ける。

 ラファスの息のかかった連盟盟主ガルヴァンは港にいる。

 奴は金で動く男だ。口も封じやすい。


「ガルヴァンには形式のみ伝えろ。直接会う必要はない」


 わずかに眉が動く。

 あの濁った目と酷薄な愛想笑いを思い出し、鼻を鳴らした。


「あいつは港で腐らせておけばいい」


 中央の目が届かぬ土地。濁った均衡。

 氏族と連盟と聖堂が絡む。

 その中で、黒衛は待機している。

 動ける力を持ちながら、動かない。

 その抑制こそが、秩序だった。


「行くぞ」

 短い命令だった。

 ヴァルデンとルシェは外套を羽織る。

 待機していた一名が、無言でそれに続いた。

 三つの影が石段を降りる。

 馬の蹄が石を打つ。


 遠くで祭りの太鼓が鳴り始める。

 祭り好きのヴェルナ人。氏族のいがみ合いは絶えない。


 だが祭りの熱だけはラファスにはない。

 山の神に酒を捧げ、森に火を焚く。

 精霊を笑い、精霊を恐れる。


 ラファスは違う。

 祈りを制度に変える国だ。

 奇跡は管理する。

 迷信は、放置しない。

 ラファスは祈りを恐れる国だ。信じないのではない。制御できぬものを、嫌う。

 禁忌の森に踏み込めば、兵は理屈より先にざわつく。それは士気を削る。


 ただ、ヴァルデンは迷信を信じたことはない。

 森が祟るとは思わない。

 祟るのは常に人だ。火種を作るのも、秩序を乱すのも。全部人の所業なのだ。

 そう教えた者は、もういない。あの王も、そうだった。


 後ろでは、若い士官たちの声が、わずかに高くなる。

 蹄が石を強く打った。

 ヴェルナの決定の遅さは、この春祭りの時期のせいでもある。


 なんとも間の悪いことだった。


 駐在所には似つかわしくない、浮ついた春の気配。

 ヴェルナの春は、すでに始まっていた。

 ふたつの国の均衡は、依然として冷えたままだった。


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― 新着の感想 ―
かっこいい「黒衛」の隊長、ヴァルデンが登場! 石と木が無理やりつなぎ合わされた駐在所の描写が、二つの国のギスギスした関係をそのまま表しているみたいで良かったです。 ヴァルデンの「仕事人」な雰囲気にシビ…
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