第三十六話 縫い目の地
ヴェルナ北縁、緩衝地帯。
山肌を削って築かれた駐在所は、砦と呼ぶには小さく、宿場と呼ぶには堅牢すぎた。基礎と外壁はラファス式の石積み。上階にはヴェルナ産の木材が組まれ、太い梁がむき出しのまま走り、屋根は急勾配に張り出している。
石と木が、無理に縫い合わされたような造りだった。縫い目は、隠されていない。二国の友好を示す象徴として建てられたという。
実際は友好の象徴というより、互いの警戒が形になった建物だった。
石は冷たく熱を吸う。木は軋んで歪むだけ。調和というより、妥協を体現していた。
ここは、どちらの国でもない。
(何が友好の象徴だ。どちらにも属しきらない歪な境界の姿そのものだ)
駐在所の石壁の一室で、男が低く息を吐いた。
黒い軍服。肩に、銀の炎。
獅子の爪のようにも見える、三筋の炎。
それを囲う弧。中央の一筋だけが、わずかに長い。
目立つ意匠ではない。だが視線を外させない、静かな印だった。
王命でのみ動く直属特務隊〈アシュガルド〉――通称黒衛。その〈将〉に与えられる印。
黒衛は、国政軍とも近衛兵とも違う。ただ、王の意思を体現するものだった。
ヴァルデンは銀鎧を外し、簡素な軍服姿で書簡に目を通していた。
背は高い。だが巨躯ではない。鎧を脱いでも輪郭の崩れない体躯。重心は低い。隙がない。
叩き上げの兵。それでいて、前王エリウス・ルヴェルクにより黒衛の将へ抜擢された。
本来、ありえぬ人事だった。
王政に最後まで抗った北西氏族の出。その身は王都に置かれている。
生まれで座に就いたのではない。
三十半ば。若いとも老練とも言い切れぬ年齢。
その鋼のような深灰の瞳を、王都では今も快く思わぬ者がいる。
怒鳴ることはない。声も荒げない。
命令は短く、それ以上を求めない。
繰り返させることもない。動きは揃う。
目元は涼しい。鋭いというより、冷えている。視線を向けられた者は、理由もなく背筋を伸ばす。
その場にいるだけで、空気の温度が一段落ちる。
それで、足りていた。
国境の狭間に目標が消えてから四日。
ヴァルデン率いる黒衛部隊は、森へは入らず、ヴェルナ側緩衝地帯の駐在所に一次滞在を申し出ていた。
『国の外へ出すな』
それが王命だった。
だがこうなれば、ヴェルナ領への派兵要請をせねばならない。名目は、自国要人の“保護”。
二国間の関係は常に火種になりうる。
ラファスが力を持っているとはいえ、ヴェルナを軍事的に支配しているわけではない。
それでも、従属関係は否定できない。
資源国家ヴェルナの鉱石は北へ流れる。加工された鋼は南へ戻る。
武器はラファス製。軍装の規格も、測量技術も、製鉄法も、静かに浸透している。
交易路は北が握る。金の流れも同じだ。
ヴェルナは資源を持ちながら、利を持たない。
――だが。
ヴェルナは服従していない。
王を持たぬ氏族連合国家。ラファスは手を回し、突出した氏族を出さないように調整してきた。
鉱山を握る氏族――鉱山は掘るだけだ。鋼にする術は北にある。
港を押さえる氏族――港は流すだけだ。帳簿は北が握る。
森を守る氏族――聖域は不可侵。ただそれだけだ。
山岳路を支配する騎兵氏族――道は握るが、武具は北に頼る。
それでも、彼らは領域を持ち、〈円卓〉と呼ばれる会議で決を採る。
決定は遅い。だが、それだけ合意は重い。
その遅さこそが、彼らの主権だった。
そして、軍は簡単には入れない。
王直属の黒衛であっても例外ではない。
滞在は五日。延長には氏族代表の署名が要った。
十名を超える武装移動は事前通達が必要だ。重装は禁止。戦闘行為は外交問題。
秩序を守る部隊が、他国では剣を抜けない。
(城では恐れられる黒衛も、ここでは自由にならん。皮肉なものだ)
ラファスは表立って争いを起こすことを嫌う国だった。
侵略より、管理。
剣より、帳簿。
「……滞在許可は明朝まで。延長には代表二名の署名が必要です」
隣で書類を整えていた士官――ルシェが告げる。
銀に近い白金の髪を短く刈った青年。薄琥珀に紫を帯びた目が精悍な印象を残す。褐色の肌。まだ年若く、ヴァルデンより小柄ではあるが、無駄のない動きと引き締まった筋肉質の体躯。
報告は削ぎ落とされており、語尾に揺れはない。
ヴァルデンは窓辺に立ち、山脈を見ていた。
王からの書簡は届いている。
封を切らずとも分かる。
『急げ。生死確認を急げ。事故処理で済ませるな。聖女候補の失踪は信仰の揺らぎだ』
分かっている。
だが、ここでは急げない。
森への正式立ち入りには氏族会議の承認がいる。
鉱山氏族の同意、森氏族の承認、港湾氏族への通達、議題提出、それから採決。
書類は机に積まれたまま動かない。
紙は重い。石壁の中ではなおさらだ。
その間に、逃亡者は消える。
ヴェルナは従属しているが、服従していない。
宗教上はオルデス神を受け入れている。聖堂は建っている。
だが森では精霊が囁き、禁忌の森は今も聖域だ。
軍が踏み込めば氏族は結束する。外交が揺らぐ。
ラファスは侵略を選ばない。
経済で縛る。技術で縛る。信仰で縛る。
港を取り仕切るイースガルド連盟も、その一端だった。
名目は治安維持の合意組織。実態は、ラファスの息がかかった傭兵と崩れ軍人。
武器は旧型のラファス製。帳簿は二重。
港の関税の一部は“寄進”の名で聖堂へ流れる。荷が一つ消えても、誰も騒がない。
公式には無関係。
だが、知らぬはずがない。
腐臭は港から立ちのぼる。
正式な軍は置けない。
均衡は清廉ではない。
腐敗は知っている。解体も試みた。だが利権は絡み、網は深い。
腐りながら、均衡は保たれている。
連盟幹部が指示系統を握るこの土地では、黒衛であっても王の意志を振るいきれない。
「……追尾の状況は」
ヴァルデンは振り向かない。
「斥候五。主要経路三、交易路二に配置済み。祭りの集落には別働を潜らせています。軍装は解いております」
黒衛の若い士官たちは、商人に紛れ、旅人の姿で酒場に座り、祭りの群衆に溶けている。
軍が歩けば主権侵害。だが数名なら"視察"で済む。
「目撃情報が二件」
ルシェが続ける。
「白金に近い髪の少女。少年と同行。確度は八割。誤認の余地は二割。港へ向かう可能性が高いと判断します」
室内が静まり返る。
森は不可侵。だが港なら動ける。
逃げる者は、出口へ向かう。
――ファロス港。
東に位置するヴェルナの出口。連盟が関税を管理する灰色の場所。武器と金と密約が交差する。
森への申請は煩雑だ。だが、港への移動は許可範囲内。
十名に満たない。通達で足りる。
「森への申請は保留だ」
ヴァルデンの声は低い。
ルシェが顔を上げる。表情を隠せないのは若さゆえの素直さだった。
「では、森への立ち入り申請は……」
「不要になった」
ルシェは一瞬だけ背筋を正した。
無意識の癖だ。
長く組んでいる部下だ。こちらの言わんとすることは伝わっているらしい。
「ファロス港へ向かう。随行は最小限でよい。軽装だ」
ルシェは頷いた。
「では、三名のみ。残りは待機とします」
「通達は形式のみでよい。町での“保護”は避ける」
聖女候補が“逃げた”と広まれば、信仰が揺らぐ。
祭りの町で拘束すれば、それは“保護”ではない。
追跡になる。
出口で止める。
港なら、動ける。
ラファスの息のかかった連盟盟主ガルヴァンは港にいる。
奴は金で動く男だ。口も封じやすい。
「ガルヴァンには形式のみ伝えろ。直接会う必要はない」
わずかに眉が動く。
あの濁った目と酷薄な愛想笑いを思い出し、鼻を鳴らした。
「あいつは港で腐らせておけばいい」
中央の目が届かぬ土地。濁った均衡。
氏族と連盟と聖堂が絡む。
その中で、黒衛は待機している。
動ける力を持ちながら、動かない。
その抑制こそが、秩序だった。
「行くぞ」
短い命令だった。
ヴァルデンとルシェは外套を羽織る。
待機していた一名が、無言でそれに続いた。
三つの影が石段を降りる。
馬の蹄が石を打つ。
遠くで祭りの太鼓が鳴り始める。
祭り好きのヴェルナ人。氏族のいがみ合いは絶えない。
だが祭りの熱だけはラファスにはない。
山の神に酒を捧げ、森に火を焚く。
精霊を笑い、精霊を恐れる。
ラファスは違う。
祈りを制度に変える国だ。
奇跡は管理する。
迷信は、放置しない。
ラファスは祈りを恐れる国だ。信じないのではない。制御できぬものを、嫌う。
禁忌の森に踏み込めば、兵は理屈より先にざわつく。それは士気を削る。
ただ、ヴァルデンは迷信を信じたことはない。
森が祟るとは思わない。
祟るのは常に人だ。火種を作るのも、秩序を乱すのも。全部人の所業なのだ。
そう教えた者は、もういない。あの王も、そうだった。
後ろでは、若い士官たちの声が、わずかに高くなる。
蹄が石を強く打った。
ヴェルナの決定の遅さは、この春祭りの時期のせいでもある。
なんとも間の悪いことだった。
駐在所には似つかわしくない、浮ついた春の気配。
ヴェルナの春は、すでに始まっていた。
ふたつの国の均衡は、依然として冷えたままだった。




