独白録:冷泉 親芭【怪物】
Side 冷泉 親芭
俺には姉がいる。
いや、正確に言うならば、いた。
優秀な姉だった。
憧れる姉だった。
あの人が自分の姉で、嬉しかった。
でも、両親からしたらそうではなかった。
俺の父親は浮名を流し続ける人で、ついでに結構なクズだった。
若い女性を次から次へと囲い込み、時には意に添わぬまま、自分のものにした。
その被害者の一人が、姉の母だった。
姉の母はひっそりと暮らしていたらしい。
でも、子供が出来なかった父は、無理矢理引き離し、そして姉を連れて来た。
僕が生まれる前の話だ。
僕が物心ついたころ、僕には姉がいることを知った。
五歳になったばかりの時だった。
姉は十三歳。
士官学校で優秀だと、親戚から聞かされた。
今思えば、アレは僕の両親を嘲る為の言葉だったのだろうけれども、僕はそんなことも知らずに、ほとんど会ったことのない姉に興味が湧いた。
そして、出会いはすぐに来た。
書類のサインが必要だとかで、姉が屋敷に足を運んだ。
銀色の髪に、真っ赤な目は、僕と同じ。
応接室で紅茶を飲む姉は、優雅だった。
ドアからこっそり覗いていれば、姉の真っ赤な目と視線が合った。
姉がフッと笑うので、僕も笑った。
次の瞬間、バシンッと想像しない音が響いた。
『この売女の娘が、何故本邸にいる!!』
甲高い女の声が響いた。
鬼の形相で、母がバシッ、バシッと何回も、何回も頬を叩く音を立て続ける。
余りの恐怖に、悲鳴を手で抑え込んだ。
『奥様、申し訳』
『黙りなさい!あの女に似て忌まわしい顔!なのに旦那様の色を持つなんて!』
バシッ、バシッ、と続く音が続く。
抵抗せずに、されるがままの姉の視線が僕に向いた。
“見たら、ダメ”
声が出たわけでないのに、そう言っているのが分かった。
『お前が優秀と言われる度に!私の気持ちが分かるか!このっ!このっ!』
僕はどうしていいか分からずに、執事の元へ走った。
『大変なんだ!母様が、姉様を!』
僕の拙い言葉に、はー、と長いため息を吐いた執事は、速足で応接間に向かった。
『奥様、茶会の時間が近づいております。ご準備をせねば、間に合いません』
ぜー、ぜー、と息を整えようとする母は何も言わずに去っていった。
この時、母親が怪物のように見えた。
『百合子様』
『ありがとう、助かりましたわ』
そう言った姉は立ち上がり、僕を見た。
『ねえさま』
『貴方に姉はおりませんわ。私は士官学校を卒業しましたらこの家とは関りを持ちませんので、ご安心を』
そう言った姉はさっさと屋敷から出ていった。
執事に視線を向ければ、執事は悲しそうに話してくれた。
姉への理不尽。
姉の母親への理不尽。
姉の優秀さ、聡明さ、気高さ。
僕の中で、両親が怪物になった瞬間だった。
8歳の春。
姉は16歳になっていた。
その日は姉の士官学校卒業の日。
僕はこっそりと花束を作った。
姉の名と同じ百合の花をメインに、白と赤のめでたい色で作った花束。
せめて、そのぐらいはお祝いしてあげたかった。
花束を持って、いざ踏み出そうとした瞬間だった。
『百合子、卒業したのなら、河成家の当主に嫁げ』
父親の馬鹿な話を、遠くで聞いた。
河成家の当主と言えば、もう五十を超える男だ。
息子が生まれず、次から次へと若い女を手籠めにする父と同類。
『はっ!私の側近をそんなところに飛ばすとは……冷泉の当主は耄碌したか?』
ぴしゃりと言い切ったのは姉の友人……天翔宮 朱子様だった。
姉と、朱子様、そして下級貴族の川上 瑠璃子。
この三人は明らかに、ずば抜けて優秀だった。
父は悔しそうにその場を後にしたが、僕の脚は棒のように動かなくなった。
『お前の家族はトンデモないのばっかりだな』
『ふふっ、私の家族は死んだ母だけですわ。アレは生物学上は父親ですが、関わりのないものです』
そうやって楽しそうに笑う姉を見て、僕は動けなかった。
ただ、持っていた花束はそのまま持ち帰って、自分の部屋に飾った。
『ねえさま、ご卒業おめでとうございます』
誰にも届かない祝福の言葉は、静かに部屋に消えていった。
翌年だった。
姉が死に掛けた。
忌々しそうに父が吐き捨てる。
『そのまま死んでくれればよかったものを』
母が楽しそうに笑う。
『でもこれで、親芭以外が冷泉を継ぐことはないわ!』
怪物。
本当にそう思ってしまった。
15歳になり、僕は一学生として王都の学校に通っていた。
姉とは違う、文官を目指す人間が行く王立学園だ。
そこでも姉の優秀さは遠くから聞こえてきた。
第一王女殿下の親衛隊・『真紅隊』の隊長。
冷泉 百合子の名を知らない騎士は居なくなった。
誇らしい反面、姉が父や母に邪魔されているのに気が付いた。
同時に後継者教育が始まった僕は、両親の異常さを更に見ることになった。
『なんだ、この帳簿……これ、脱税じゃないか!?』
『……旦那様のご指示です』
僕の叫び声と、執事の暗い顔は夜の執務室に消えていった。
『本音はすぐにでもこの証拠を持て、国王陛下に嘆願に行きたい』
『それは……』
執事が言葉を詰まらせるのも分かる。
今、未成年の僕が嘆願に居たとして、冷泉家は伯父のものになってしまう。
だが、伯父は、父以上にクズで、あの人が領地経営なんてやってしまえば、あっという間に我が領は没落するだろう。
『とにかく、両親にはバレないように、領地経営を健全化させよう……』
『親芭様……』
『……あと三年、僕の成人までに両親の不正の証拠を集めよう。それを持って、国王陛下に嘆願しよう。届かなかったら、恨まれているかもしれないけど、姉様に土下座してでも頼もう』
そう決意した翌年、僕は文官になった。
16歳。仕事に慣れ始めたところで、ある書類が手渡された。
『お前の姉だろう?抑え込んでおけ』
そう言って渡されたのは嘆願書と、企画書だった。
騎士の処遇を変えようと、姉が必死で考えたのが伝わってくる素晴らしい企画書だった。
そして嘆願書には、喪った親友、川上 瑠璃子のことが書かれていた。
姉が必死に抗おうとしているのが伝わった。
だけど、周りはこの魂の企画書を嘲笑った。
そして、今これを出せば、姉の命を狙われかねないほど、出来の良い企画書でもあった。
僕は、この企画書を、握りつぶすことにした。
あと二年……僕が成人して、姉様を助けられる日まで、これは僕が預かることにした。
でも、姉は諦めなかった。
何回も、何回も、文官たちに嘆願書、企画書を送り続ける。
時には直接抗議しに来る。
諦めない姉に、周りが『暗殺』という言葉が出始めた時だった。
僕は姉を一旦、諦めさせようとした。
僕が、彼らの仲間と思うように――。
そして、姉上に意識が向かないように――。
『おや、『姉上』。生きておられたのですね。
こんな嘆願書まで送って……滑稽ですね」
僕の言葉に姉上は絶望した顔になった。
ごめんなさい、姉様。
ですが、これ以上は貴女が危険です。
『せっかく、王女殿下のご慈悲で生き延びたのです。
静かに、息をひそめて、今は大人しくしていてください『姉上』」
姉の目の前で、白紙の嘆願書を破って燃やす。
燃やすことで、本物が燃やされたと勘違いする馬鹿どもがたくさんいるはずだ。
原本は僕が持っている。
あと二年です。
姉上、あと二年は息をひそめてください。
そうすれば、あとは成人した僕が何とかしますから……。
ただ、この時に気づけなかった。
姉上の握りしめる手に、どれほどの憎しみが食い込んでいたか。
姉上がどんな気持ちで、心の内に怪物を作っていたか。
いや、僕が作ってしまったのだ。
姉上の内なる怪物を生まれさせたのは、僕の失態だ。
あと一年で成人となるはずだった17歳の冬。
第三次全面戦争の停戦交渉中。
衝撃的な情報が入ってきた。
朱子殿下の反乱。
姉が朱子殿下に着き従っているのは分かり切った事だった。
胃袋が鷲掴みにされたように気持ち悪かった。
我が家に捜査の手が来るのは分かった。
でも、執務室に行けば、父が、僕が集め続けた証拠を暖炉に入れ込もうとしていた。
火傷なんて気にする暇もなく、僕はその書類を必死で炎からすくい上げた。
執事が慌てるように馬を用意する。
僕は乗馬が苦手だ。
でもそんなこと言っていられない。
焦げた書類を持って、僕は馬を走らせた。
この情報を、生かしてくれる人は、一人しか思いつかなかった。
『秋里団長!第一騎士団団長、秋里 綾人殿にお知らせしたいことがございます!』
僕は力いっぱい叫んで、ボロボロになりながら書類を手渡した。
両親……いや一族の不正の証拠。
この書類から見出される不正の清算は、多分、相当な額になるだろう。
この証拠で、姉の助命嘆願を願い出た。
でも、ことが大きすぎた。
僕が連れられたのは王城の大広間。
縛られた父と母がぎゃんぎゃん叫び、助かろうと一族の人間たちが喚き散らす。
今回の反乱に関わった家は我が家だけでなく、非常に多かったと思い知った。
両親を含めた多くの家が、家名没収の後、鉱山等で強制労働を言い渡された。
一族ほとんどの人間たちに同じ内容が言い渡されたが、僕は平民落ちだけ伝えられた。
その中で姉の処刑が言い渡される。
絶望とは、こういう感情のことを言うのだと、分かってしまった。
姉が公開処刑……王都で引き回しのあと、広場で絞首刑。
あの気高く、美しく、敏い姉が、見世物のように殺される。
その判決を聞いた瞬間、僕はなりふり構わず国王陛下に土下座した。
『姉上が助からないのも重々承知でございます。
わたくしの功績は一切りません。
姉に、慈悲を、下さい』
何とか言いきった言葉に、静まり返った。
『わたくしに鉱山での強制労働を命じても構いません。
ですがっ、姉に、姉に、毒杯を、賜る権利をっ!」
思いつく言葉はこれだけだった。
お願いだ、姉に、せめても安らかな死を。
これしか頭に無かった。
『主、名は?』
国王陛下の低い声が僕に問いかける。
『れ、冷泉 親芭と、申します』
『今の言葉に、相違はないか?』
『相違、で、ございます、か?』
『姉……冷泉 百合子に毒杯を与えるならば、自分が強制労働もいとわないか?』
国王陛下の言葉に迷いなんて無かった。
『はい、相違ございません!』
その言葉に、国王陛下はフッと笑われた。
『よろしい。ならば冷泉……否、家名を捨てるのだから『親芭』』
国王陛下から名を呼ばれるので、そのまま平伏する。
姉を安らかに逝かせるためなら、何でもしてやるという気だった。
『はっ!』
『お主、我が息子……昆明の下につけ。我が息子ながら中々にイカレテおるが、お主のような青年には良き場所だろう』
その意味を理解できるのは数年先だが、何も言わずに僕は頭を下げた。
姉は……毒杯を賜ることができた。
それが姉の幸せだったかは分からない。
それが、僕が姉に出来た……唯一の事だった。
その二日後、いったん王都に戻ってきた僕直属の上司となる人、
慈光宮 昆明殿下と会ったのはその日が初めてだった。
『え、百合子さんの……』
『あ、はい……弟の親芭と申します』
『ああ……似ているな』
『初めて、言われました』
そう言った昆明殿下は複雑そうな顔をしていた。
『……姉上は』
苦しまずに、逝けるのでしょか?
毒杯を与える本人に聞くのはおかしいな、と口を慌てて閉じた。
姉の処刑が『まだ』とは、聞いていた。
『早速で悪いんだけど仕事を頼みたい』
『何なりと』
『北塔って、分かる?』
そう言われて記憶を引き出す。
北塔と呼ばれる離宮。
王都の郊外に位置し、王都の鬼門に立てられた離宮。
離宮であるのに『塔』と呼ばれるのは長い歴史に紐づく。
嘗ては本当に塔があり、そしてそこで『王族の血統魔法』……つまりは結界魔法を持つ王族が、幽閉されていた。
『はい』
そう答えつつ、その離宮に、かつて、目の前の王子が幽閉されていたのも知っている。
『そこに、姉上が幽閉されることが決まった』
『朱子、殿下が?』
『その『殿下』の称号も剥奪される』
『では、朱子様、とお呼びします』
『うん、それなら問題ないよ』
『分かりました』
『で、親芭には姉上が快適に過ごせるように整えて欲しい』
『いつごろまでに?』
『それが……四日後なんだよね』
四日後……そう言われて何とも言えない気分になった。
困った顔の昆明殿下に、最善を尽くすしかないのか、と笑った。
『最善は尽くします』
『姉上はとやかく言う人じゃない。だから逆に気を回して欲しい。我慢強いから』
そう昆明殿下が言った瞬間、姉上も、我慢強い人なのだと、思った。
姉上に、言いたいことがたくさんあった。
でも、言ったところで、死ぬ寸前に心を惑わす必要はない、と口を閉じる。
『最低限の準備をしに行きます』
そう言って転移魔法で訪れた離宮は、寂しいところだった。
埃の匂いが鼻につくことで、ここがしばらく使われていなかったのを理解した。
太陽の光がどことなく暗く、寒さを妙に感じる。
朱子様を世話する人間も雇うべきだな、と思うほどの大きさの離宮。
もしかすると差し押さえられた王都の我が家よりも広いかもしれない。
僕は点検しつつ、洗浄魔法である程度の埃払いを済ませる。
大規模魔法はあまり得意でないが、転移魔法とこういった生活魔法関係は得意な方だった。
ただ、この離宮は寂しさが色濃く感じられる場所だった。
一番過ごしやすそうな部屋に暖炉が合った。
せめてこれは使えるようにするか、と魔法で掃除をし、火を灯した。
あとは使用人関係の選定をしなければならない。
真っ先に浮かんだのは、僕と証拠を集め続けてくれた執事と、その妻だった。
僕は転移魔法で差し押さえられた邸宅に向かった。
門の前で茫然とするメイド二人と、コック。
その三人を励ます執事とその妻のメイド長。
両親の不正を知ってから少しずつ使用人を減らしていたから、残りは執事夫婦を含めて五人ほどになっていた。
『親芭様?』
執事が戸惑ったように僕を見た。
僕は今起きていることを包み隠さず伝えて、その上でそこにいる五人にお願いをした。
『という訳で、離宮で朱子様のお世話をお願いできないだろうか?』
無理な話かもしれない、そう思ったところで、五人はフッと笑った。
『あのご両親から生まれたと思えないほど聡明でございますな』
執事が穏やかに笑う。もう初老の執事は、引退してもおかしくはない歳だ。
『親芭様が努力されたのを知っております』
『親芭様はまだ子供でございます』
『それでもあなた樣が必死で抗ったのも分かっております』
『こんな時でも我らを気にして来てくださったのも、あなた様らしい』
『『『『『喜んで、お仕えいたします』』』』』
この瞬間、僕の目から涙が落ちた。
五人の使用人たちは、僕を子供のように頭を撫でた。
僕は頭を撫でられたのが、初めてだと気が付いた。
元冷泉家の使用人を雇うことに伺いを立て、承認されたところで次の問題が浮き彫りになる。
執事たちが通うには遠い離宮に行かせるのをどうするかと悩んだ。
昆明殿下に相談したところ、『住み込みで良いんじゃない?』と軽く言われる。
一応、離宮には離れがありそこを使用人のスペースにしていいかと尋ねれば、昆明殿下から意外なことを言われた。
『細かいことは任せるよ。明かに常識外れじゃなければ問題ないし、父上から聞いている君の評価ならそう言うことはないだろうしね』
ケロッとしたように言われ、びっくりしていると、昆明殿下は笑った。
『後でこうしたよって教えてくれればいいよ。これからは君が俺の秘書みたいな存在になるわけだし、俺実務は苦手だから聞くこと多いだろうし』
そう言われて、僕はやったことを簡潔にまとめるメモを作ることにした。
多分、昆明殿下はそう言う方が頭に入るタイプだと思ったからだ。
執事たちの引っ越しは時間が無いので僕が転移魔法で物も人間も運ぶことにした。
執事たちは申し訳なさそうだったけれども、僕はもう平民だし、一緒の立場だと言って、無理矢理納得させた。
姉上は何十人と一気に転移魔法で連れて行けるけれども、僕は精々十人。
でも、回数は何回でもできるので、ある意味で執事たちは驚いていた。
『親芭様、少し休まれたらどうですか?』
『もう明日には朱子様が来るからな』
『では、せめて我々と食事をしませぬか?』
執事の言葉に、五人から心配そうな目を向けられていることに気が付いた。
僕は素直にみんなと食事をした。
その日の温かくも質素なご飯は、今までで一番美味しかった。
翌日、転移魔法の気配を感じた。
一番綺麗にしておいた暖炉の部屋に、人の気配を感じた。
静かにドアを開ければ、そこには二人の騎士の背中を見た。
二人の視線が僕に向いた。
彩眼――そう呼ばれる虹色の瞳が僕を一瞬見て、そして頭を下げてから消えていった。
見事な転移魔法で、流石第二騎士団の団長と副団長を務める朝比奈兄弟だと感心していた。
そして、茫然とする赤い髪の女性を見た。
ひらひらと揺れる右袖を見て、彼女の腕が無くなったのを、理解した。
「朱子様、お待ちしておりました」
そう言いながら下げてから、元に戻す。
私の顔を見た彼女は驚くようにその業火の瞳を丸くした。
姉と同じ赤と言われる瞳だが、朱子様の瞳は炎のような赤で、姉とは違う赤に不思議な気持ちになった。
「冷泉……」
「その名は捨てました」
朱子様の言葉を遮るようにそう言ってしまった。
冷泉家はもう完全になくなる。
「家名は捨てました、昆明殿下の恩情により第三王子付きの事務官となりました親芭と申します」
そう言いながらもう一度頭を下げた。
持ち上げた顔で、見た朱子様は悲しそうな表情を浮かべた。
「百合の……」
「ええ、弟でございます」
この時、僕は姉の形が執行されたことに気が付いた。
朱子様の目に宿る悲しみが、この人は姉を悼んでくれる人だと瞬間的に悟った。
「姉上は……苦しまずに逝けたでしょうか」
思わず、聞いてしまったことに、朱子様は息を詰まらせた。
「……分からない」
僕は、初めて姉の死の悲しみを共有してくれる人に出会えたことにホッとした。
彼女に向かって笑い掛けながら、礼をする。
「足りないものがありましたら手配いたしますのでお申し付けください。まだ使用人等の手配が追い付いておりませんので、二日ほどご辛抱ください」
そう言って部屋を後にした。
その後に届いた、隠すような泣き声は聞かなかったことにした。
もう一つ、僕の目標が出来た。
僕は冷泉家の元使用人たちと一緒の北塔の離れに住むことにした。
住む場所がすぐに見つからなかったことと、朱子様の様子を見られるということもあっての判断と……。
執事たちと食事をするのがやめられなくなったからだ。
朝と夕。
五人と僕の六名で食べる食事は、温かかった。
慣れてきたころ、昆明殿下にあるものを差し出した。
『企画書?』
昆明殿下は訝し気にその企画書を読み、息を呑んだ。
『なに、これ』
『姉上が嘆願し続けた企画書です。文官に握りつぶされ……最後は僕が握りつぶしました』
僕の言葉に昆明殿下はハッとしながら内容を読む。
『待ってよ……これ、騎士団で問題視視されている所が全部綺麗になっちゃうじゃん……文官にしてみれば面白くないだろうけど』
不正が出来なくなってね、と昆明殿下は呆れたように言う。
『これを……昆明殿下の名で世に出せませんか!?』
そう言った瞬間、昆明殿下は何とも言えない表情になる。
『残念ながら俺の生じゃ無理だ』
『な、何故です!?』
『僕が王族軍の最高司令官だからね。騎士団の方に口出しは出来ない』
その言葉にハッとしてしまった。
昆明殿下は今回の内乱で、王族軍の最高司令官となった。
つまりは騎士団に口出しは出来なくなったのだ。
『そんな……』
絶望しそうだった所で昆明殿下がその企画書を僕に差し出す。
『冷泉 百合子の名でも出せない。でも、親芭の名ならできる』
突然言われた言葉に、驚いた。
ハッと、息を呑むしかできなかった。
『で、そろそろ親芭の名前を俺の家人登録したいんだけど?』
ニヤッと笑う昆明殿下に、目を真ん丸にして驚いてしまった。
家人、というのは代々その家に仕える人間のことを言う。
ましてや言ってきた相手は第三王子。
王族の家人になるということは、貴族位が与えられる。
『俺の家人だと大したことないけど、親芭がこれからこの書類を出すならこの後ろ盾は必要になる』
王族からの庇護……これほど強い後ろ盾はないと、心が温かくなる。
『ま、その前に親芭、新しい苗字をどうする?』
『新しい、苗字?』
『そうそう、冷泉はもう使わない方がいいし、そうなると新しい苗字にした方がいい。あと、離宮の『君の家族』も一緒に登録するか、本人たちの意思も確認して欲しい』
『え?』
『いや、あの人たち、わざわざ親芭連れて来たぐらいだし、家族みたいなものなんでしょ?登録するなら一緒にやった方が早いよ』
『考えつかないなら俺が適当に付けるけど』と言い残した昆明殿下は、さっさと次の仕事に行ってしまった。
どうしていいか分からずに、僕は北塔に帰ってきた。
そこで偶然か、必然か、朱子様とばったりと会ってしまった。
『ご無沙汰しております、朱子様』
臣下の礼でそう挨拶すると苦笑いを浮かべた朱子様。
『私にそんな礼は必要ない……と言ってもやるんだろうな』
なんていう朱子様は何となく、少し余裕が出来たように見えた。
ここに来てから三か月。
ある意味怒涛で、ある意味穏やかだった。
『この離宮の使用人は君が手配したと聞いた。感謝する』
『いいえ、命令でしたので……昆明殿下の』
『ところで、その……どうした?そんな死にそうな顔をして』
急に言われた言葉に驚いた。
そして朱子様が向けてくる視線が、執事たちが僕にご飯を食べる様にと言った時の目と似ていた。
思わず、口から言葉が出た。
『新しい、苗字が、思いつかなくて……』
『あ……ああ、そうか。冷泉家は無くなったのだからそうなるな』
そう言いながら、朱子様が見たのは廊下に飾られた花。
偶然なのか、その花瓶に大輪の百合が一本だけ刺さっていた。
『僕は……姉を忘れたくないのです』
つい、言葉が出てしまい、そこで僕が新しい苗字が思い浮かばないのは『冷泉 百合子』と完全に縁が切れてしまうように感じたからだと気が付く。
『百合は……望んでいないと思うぞ』
『僕の勝手です。姉上が勝手したように、僕も勝手します』
『ふふっ!』
急に笑った朱子様に、驚いていれば、彼女がここにきて、初めてちゃんと笑うのを見た。
嘗て、姉と、亡くなった川上 瑠璃子と三人が揃っていた時のような、そんな笑顔。
『そう言う拗ねた顔が百合そっくりだ……』
『そう、なのですね。』
また、初めて言われた姉との似ている所。
知らない共通点が、僕は死ぬほど嬉しかった。
『ツキシロ』
朱子様が唐突にそう言った。
『お月様の『月』に、白黒の『白』。それで『月白』』
『月白?』
『私が百合に、上げるつもりでいた新しい苗字だ』
『え?』
『百合……私の家人になるつもりでいたんだ。正確に言うなら吉川家の家人だけど……。その時に新しい姓をくれと言われていた』
知らなかったこととは言え、姉は冷泉から逃げるつもりでいたのだと知った。
『ああ、百合だけじゃなくて、瑠璃子も家人になると言って……瑠璃子は自分の苗字が好きだから婿とるだとか言っていたな』
懐かしむようにそう笑った。
月夜の下で白く輝く姉の姿が脳裏に浮かんだ。
なんとも姉の的を射ているような苗字だと思った。
『その姓、僕が頂いても構いませんか?』
『……私が考えた名前でいいのか?』
『気に入りました。出来ればいただきたく』
『好きにしてくれ』
朱子様はそう言って、部屋に戻って行った。
その夜、使用人が集まる離れ。
食事時に、昆明殿下からの申し出を伝えた。
恐れ多いとも言われたが、僕の家族になってほしい旨を伝えた。
『新しい姓は……月白としたい』
そう言いながら紙に、月白と漢字を書き上げる。
その瞬間、全員が息を呑んだのが分かった。
『百合子様……』
そう言ったのはメイド長だった。
みんな、即座に姉を思い浮かべたのだ。
『僕は、これから姉上がやり残した騎士団の改革を何としても推し進める。昆明殿下の力を借りて、姉上の意志を継ぐ。この名はその決意を表した名前だ』
『こんな名前出されて、断れる奴、いねぇだろ』
コックの男は目元を覆いながらそう言った。
彼の妻のメイドもコクリと頷いた。
執事夫妻もゆっくりと頷き、二人の孫娘になるもう一人のメイドも頷いた。
そして執事を見た。
『あと、お前の息子と妻も家人登録しておきたいのだが』
『確認しますが、喜ぶと思います。』
執事夫妻の息子夫婦は、領地の方の邸宅で諸々の手続きを受け持ってくれていた。
もう間もなく、引継ぎを終えればこちらに来ることになっている。
『なら『月白家』として昆明殿下の家人に名を連ねようと思う』
僕の新たなスタートはその日からだった。
おおよそ、今なんて忘れられた未来の話をしよう。
春の国には『清廉なる天秤』と呼ばれる文官を輩出する家がある。
その家は宰相も輩出するようなとにかく文官に特出する家だ。
ただ、その家が有名になったのは、驚くことに騎士団の不正改革だった。
その指揮をとったのが初代当主の月白 親芭。
当時、なんと十八歳で、成人したばかりの青年だったらしい。
詳しいことは資料に残っていないが、月白家の家紋、天秤に乗せられる百合の花は、平等な判断を下すシンボルとしても有名だ。
ただ、彼の願いはただ一つだったらしい。
『理不尽な死をゼロへ』
この意味はさまざまに解釈されるが、本当の意味は、月白 親芭しか知ることはない。
少しでも面白い!続きが読みたい!
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