十節 父の目測誤り
朝比奈邸へ呼ばれたのは、それから数日後のことだった。
千歳と共に馬車へ揺られながら、私はずっと嫌な予感しかしなかった。
日葵さんと青澄先輩が、ああも揃って楽しそうな顔をしていたのだ。
まともなわけがない。
「そんなに警戒しなくてもいいと思うけど」
隣で千歳が苦笑する。
「お前はもう少し警戒しろ」
「ええー」
ええー、ではない。
だが、そんなやり取りをしている間にも馬車は進み、ほどなくして朝比奈邸へ到着した。
相変わらず、目がちかちかしそうになるほど立派な屋敷である。
慣れたが、慣れない。
応接間へ通されて間もなく、部屋へ入ってきたのは日葵さんと青澄先輩だった。
二人とも、妙に楽しそうだった。
嫌な予感しかしない。
「来たね、千歳ちゃん」
「はい」
「ちょっとこっちへおいで」
そう言って、日葵さんは戸惑う千歳の背中をぽんと押した。
千歳は一度こちらを見たが、私は小さく頷いた。
「行ってこい」
「……うん」
昌澄くんも自然にその後ろへ続く。
私も当然のようについて行った。
案内された部屋の扉が開いた瞬間、千歳が息を呑んだ。
そこにあったのは、見覚えのあるドレスだった。
ただし、私の記憶の中にあるそれとは、少しだけ違う。
刺繍はそのままだった。
繊細なレースも、生地の柔らかな色合いも変わらない。
だが、首元や肩まわりの形が今の意匠に合わせて整えられ、全体の線も千歳に似合うように洗練されていた。
ああ、と一目で分かった。
これは確かに、あのドレスだ。
だが今、千歳のための一着として新しく息を吹き込まれている。
それを見た瞬間、千歳が小さく呟いた。
「母上の……」
声が震えていた。
近づいていく足取りはおそるおそるなのに、目だけはどうしようもなく惹きつけられている。
その横顔を見て、胸の奥がじんと熱くなった。
頼んでよかった。
そう、素直に思った。
「綺麗でしょう?」
日葵さんが、どこか誇らしげに笑う。
「はい……っ」
千歳は頷いたまま、まだ目を離せずにいた。
そんな娘の様子を見てから、日葵さんはさらりと言った。
「実はこのドレス、千歳ちゃんのお母さんの婚礼衣装ではあるんだけど、それだけじゃないんだ」
千歳がきょとんとする。
「え?」
「もともとは、私のウェディングドレスだったの」
そこで千歳の目が丸くなった。
まあ、そうなるだろう。
「私の結婚式で汚れないように、防汚魔法もかかっていたからね」
日葵さんは、あくまで穏やかに、あくまでやんわりと告げた。
……ええ。
血で汚れるようなウェディングドレスに出来ませんからね。
「まあ、騎士団の人間たちが警護していたので、私の出番はなかったけれどもね?」
青澄先輩が『君たち、日葵に剣を抜かせるようなことした……分かっているよね?』と、天使のような悪魔の笑顔で脅していましたからね。
千歳はぱちぱちと目を瞬かせた。
「結婚式で騎士団の警護……? 防汚魔法……?」
意味が分からない、という顔をしている。
そりゃそうだ。
だが、それでも娘は嬉しそうだった。
母が着たドレスであり、しかもその前には日葵さんも着た、大事に受け継がれてきたものだと知って、ますます愛おしそうに見つめている。
その顔を見た瞬間、胸の奥がまた熱くなった。
よかった。
本当によかった。
……そう思ったところで、いつものように空気を壊したのは、やはり朝比奈家だった。
「ん?」
昌澄くんが、少し首を傾げた。
「父上。このドレス、対物魔法ですか? あと防汚魔法……守りが防具並では?」
私は嫌な予感に背筋が寒くなった。
青澄先輩は、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、分かっちゃう?」
嫌な予感しかしない。
「あとね、脱がせやすくもしといたよ!」
「どんな機能ですか……」
昌澄くんが真顔になった。
私も真顔になった。
さらに昌澄くんは、ドレスへ目を凝らして眉を寄せた。
「ん? 位置把握魔法?」
「ほら、万が一花嫁を攫われたら困るじゃん?」
青澄先輩は、実に当然のように言った。
私はその場で頭を抱えたくなった。
その前に待て。
位置把握魔法?
だが、そこで千歳がきょとんとした顔のまま首を傾げる。
「私、攫われるかな?」
「千歳さんは強いですから、その心配はないかと」
昌澄くんが冷静に返す。
「どっちかっていうと、攫われるのは昌澄くんのほうかも?」
千歳が何気なくそう言うと、日葵さんが声を上げて笑った。
「ははっ! 違いない! 昌澄は昔、昆明殿下と攫われてな!」
「ええ、八歳の時ですね。懐かしいです」
昌澄くんが、まるで昨日の遠足の話でもするように頷く。
待て。
その前に待て。
位置把握魔法とは何だ。
その前に、昆明殿下と一緒に攫われたとは何だ。
しかも何故、お前はそんなに落ち着いている。
私が呆然としている間にも、三人は妙に納得した空気になっていた。
「昆明くんも昔から巻き込まれ体質だったよね」
「巻き込まれというか、自分から巻き込まれに行っていた気もしますが」
「否定はできないねぇ」
何の話だ。
何故そんな平和な雑談のように流している。
胃が痛い。
とても痛い。
だが、その一方で千歳はまだドレスを見つめていた。
そっとヴェールへ触れ、その感触を確かめるように指先を滑らせていた。
その姿を見れば、こちらの胸はまたじんと熱くなる。
娘の花嫁支度が、本当に始まったのだ。
母から受け継いだものを纏い、そしてそこへ新しい時間が重なっていく。
それはとても喜ばしいことのはずなのに。
「時壱くん?」
青澄先輩に呼ばれて、私ははっとした。
「どうしたの?」
「……いえ」
どうしたもこうしたもない。
感動と不安が、同時に押し寄せているのである。
頼もしい。
本当に頼もしい。
だが、余計な機能はいらない。
攫われた過去もいらない。
その上、花嫁衣装に位置把握魔法を仕込む発想はもっといらない。
「……ほどほどにしてくださいよ」
ようやく絞り出した私の声に、青澄先輩はにっこり笑った。
「大丈夫だよ」
「その言葉が一番信用ならないのですが?」
即座に返すと、日葵さんが吹き出した。
「安心しろ。今回は私が見張る」
「見張っていて止められた例がどれだけありましたっけ?」
「そこはまあ……気合いで」
「不安しかない!」
思わず叫ぶと、千歳がとうとう堪えきれず笑った。
昌澄くんも、口元にわずかな笑みを浮かべている。
……その顔を見ると、少しだけ救われる。
だが、胃は救われない。
やはり、朝比奈家は胃に悪い。




