八節 父の花嫁支度
瞬木邸へ戻ってからも、婚礼の話は途切れなかった。
招待する範囲。
婚姻後はどこに住むか。
二人があっさりと「この屋敷でいいのではないか」と言ってきた瞬間、私は新婚でそれでいいのかと多少の疑問を抱いた。
居間に腰を落ち着けた千歳の隣には、まるでずっと前からそこにいたかのような顔で昌澄くんが座っている。
それが妙に自然で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
まだ婚姻前だ。
正式に家族になったわけでもない。
なのに、こうして我が家の空気の中にいる姿を見ていると、もうこの男は少しずつ、この家に馴染み始めているのだと嫌でも分かる。
……悪くない。
悪くないのだが。
父としては、やはり少しだけ複雑である。
「あとは、婚礼衣装か」
私のその一言で、空気が少し変わった。
私は正直、その辺りのことはよく分からない。
騎士として生き、官吏として働いてきた男である。
式次第だの席次だのならまだしも、花嫁衣装となると完全に門外漢だ。
だから、千歳が何と答えるのか、黙って見守るしかなかった。
「父上」
呼ばれて顔を上げると、千歳が少し言いにくそうにこちらを見ていた。
「……母上の婚礼のドレス、着られないかな?」
その一言に、胸の奥が強く揺れた。
思わず娘の顔を見る。
千歳はどこか照れたように、それでいて少しだけ不安そうに笑っていた。
「せっかくなら、母上のものを着られたらいいなって」
そう言いながら千歳が見たのは、この居間に飾った私と妻の婚礼の写真だった。
そこには、ウェディングドレス姿の妻と、少し気恥ずかしそうに笑う若い頃の私がいる。
私はしばらく返事ができなかった。
妻の婚礼のドレス。
あれは、妻にとって大切な一着だった。
もっとも、最初から妻のために誂えられたものではない。
もともとは、春野団長――日葵さんの婚礼衣装だった。
あの頃の妻は、本気で「軍服でいいや」と言っていた。
実に妻らしい。
そんな妻に向かって、日葵さんが半ば呆れたように「お古だが着ろ」と押しつけるように渡したのが、あのドレスだった。
飾らないくせに、妙なところで面倒見がいい。
それもまた、あの人らしい。
妻も最初は困ったようにしていたが、実際に袖を通した時の顔は今でも覚えている。
少し気恥ずかしそうで、それでもまんざらでもなさそうで――綺麗だった。
だからあのドレスは、妻にとっても特別なものになった。
ただの借り物ではなく、祝われて嫁いだ証になったのだ。
「ああ……着られるものなら、着せてやりたい」
そう言ってから、私は続けた。
「ただ、一度見てみないと分からないな」
千歳の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、見たい」
そうして久しぶりに、妻のドレスがしまわれた箱を出した。
布に包まれ、丁寧に保管されていたそれは、時を経てもなお美しかった。
淡い色合いの生地。細やかな刺繍。繊細なレース。
千歳は息を呑んだ。
「綺麗……」
そう言って、そっと指先で生地に触れる。
「母上、これを着ていたんだ」
その声は嬉しそうで、けれど少しだけ寂しそうでもあった。
だが、しばらく見つめたあと、千歳は困ったように眉を下げた。
「……でも、ちょっと今の形とは違うね」
ああ、と思った。
その通りだった。
美しい。
だが、やはり少し古い。
当時の妻にはよく似合っていたが、今の婚礼衣装としてそのまま着るには難しい。
背丈も違う。
体つきも違う。
意匠もまた、今とは少し異なる。
ただ、形だけの問題ではなかった。
「そうだな……」
私がそう答えると、千歳は少しだけ笑った。
笑ったが、その目はほんの少しだけ名残惜しそうだった。
その時、隣で昌澄くんが穏やかに口を開いた。
「どんなドレスも似合うでしょうね」
その声音は軽くなく、ただ本当にそう思っているのが分かる言い方だった。
千歳が少しだけ照れたように笑う。
「……ありがとう。でも、母上のドレスは難しそうだね」
そして少し考えるように視線を落としてから、小さく続けた。
「せめて、ヴェールだけでも使えたらいいな」
その一言に、胸の奥が静かに痛んだ。
全部でなくていい。
けれど、母のものを何か一つでも身につけたい。
その願いが、あまりにも千歳らしかった。
「父上?」
呼ばれて、私ははっとする。
「ああ、いや……そうだな」
いいと思う、では足りない。
何かしら形にしてやりたい。
そう思った。
だが、その場で軽々しく口にはできなかった。
下手に希望を持たせて、結局駄目だった時に落胆させたくない。
こういう時に頼る相手は、もう決まっていた。
――頼るなら、日葵さんだ。
だが、それはまだ胸の内に留めておくことにした。
「……少し考えよう」
そう言うと、千歳は素直に頷いた。
「うん」
娘に余計な期待を持たせないまま、私はその場でだけ平静を装った。
そして二人が目を離した隙に、私はそっと伝令魔法を空へ飛ばした。
朝比奈家。
胃に悪い。
極めて悪い。
だが、こういう時に頼るべき相手まで、もう頭の中に浮かんでいるのだから困る。




