52 エミリー先生の評判
フードの彼が豆粒の様になっていき、今度こそ見えなくなったその先を見送って数秒。
緊張の糸が一気に解けた。ボクは深く溜息を付き、腰を落としてへたり込む。
「ぶはっ!……あ~ヤバかった」
「いやアンタ、圧倒だったじゃないっすか。無傷っすよ?凄いじゃないすか」
結構怖がられるかもと思っていたが、そうでもないらしい。
やるかやられるかの此処ではパワー・イズ・ジャスティスなのかも知れないね。自分に矛先が向いていなければ良い的な。
「いやいや、とんでもない。
身体能力はあっちが上だったから、一回でも読み違えていたらボクがボロキレにされていたよ」
「はあ。そうっすか」
まあ、その為にフードの彼が待機していたんだろうけど。途中で止めたのはやりすぎない為だろうなあ。
店番の女の子はよく分かってなさそうに頭を搔く。
思いつつボクは財布を取り出して中銅貨一枚を彼女に渡した。
「取り敢えず動いたら喉乾いちゃったし、それで買えるだけの水頂戴な。蒸留水、商品にあるでしょ?」
「よく分かったっすね」
彼女は壺を取り出し、そのままボクへ渡す。
小さな鍋程度のそれをボクはじっくりと、しかし浴びる様に飲んだ。
水分が補給された事によってジワリと汗が出てきて、中身が空になった壺を地面に置く。
雑に手の甲で唇を拭って、袖で汗を拭いた。
「君はこの闇市でも特別人当たりが良かったからね。そして此処は錬金術士街だ。
だったら実験に使わざるを得ないけど、古くなってしまった蒸留水の処理に困った錬金術士か、雑用や手伝いやらのなんらかの手段で貰っている筈だね」
店番の彼女は感心してする。
「へえ。アンタは錬金術にも詳しいんすか?」
「ああ。ボクはこんなだけどエミリー先生の弟子でもあるからね」
自身の胸をドンと叩いて言葉を返した。
尤も、先程の話もエミリー先生との講義中の雑談で普通に給料で働かせるよりずっと安上がりだというのを少し聞いただけという、受け売り程度の知識だったり。
ところでエミリー先生の名前は予想以上に効いたようだ。
さっきからボクが偉い人だと分っていながら普通に接していた彼女が、口をあんぐり開けて驚いている。
「エ、エミリー先生って……あの、おっぱいの大きい大錬金術士のエミリー様っすよね?マジすか?」
「マジマジ。あの、袖に羽根飾りが付いてるあのエミリー先生。
此処に来たのも迷ったからエミリー先生の店を知ってる人が何処かにいないかなーって気持ちだったし。やっぱ有名人?」
すると彼女は少し虚空を見上げて考える素振り。
一通り考え終わったのか頷くと、また此方へ向き合った。
「まあ、見た目も目立ちますし爺さん錬金術士達にも尊敬されてますし。
なにより子供に優しくて、私も養ってるチビ達をいっぱい預かって貰う時があるっすからねえ。
でも、あの人ってキギョーヒミツとかいう偉い人からの契約で、弟子を取れないって言ってたと思うんすけど違ったんすか?」
「正確には弟子を取るには偉い人の許可が必要って契約だね。どの程度まで教えて良いかっていうのも決まっている」
「へえ~。アンタ、随分偉い人なんすね」
「そうだね。と、いうわけでエミリー先生の店へ案内するのだ」
「んっ。いいっすよ。ただ、今日はもう店じまいっすから、片付ける時間を下さいな」
そうして彼女は丸いお尻を此方に向けた。周りに散らばってしまった商品を拾うためだ。
折角だしボクも拾おうか。
中腰になると目の前にヌッと、今日一日で見慣れた可愛い妹の顔が迫っていた。
彼女は張り切った様子で言う。
「妾も手伝うのじゃ!」
「そうかい。じゃあ、一緒にやろうか。と、いうわけでボク達も手伝わせて貰いたいんだけど、良いかな」
「はあ。別に良いっすけどそこまでやる意味はないんじゃないすか?」
「そうかな……そうかも……」
案内されるまでの時間が速くなるだとか理屈にすれば幾らでもあるのだが、ピンとくる強い理由がない。
そして義理というか想いもない。可哀想だなんて逆に失礼だしなあ。
無理に助ける理由を考えて、眉の間に皺を作っているとシャルが声をあげる。
「んあ、そんなん別に良いじゃろ。
やりたいからやる。やった後に考える。妾は今日これで乗り切ってきたからの!」
雑多な商品を分別もなく一つの籠に入れる。
現在進行中で賑やになっているそれを見て、表情筋から力が抜ける。ああなんだ、そんなものでいいのかと。
ボクは両手で己の頬を叩いて、店番の彼女に向き合った。
「んっ!まあ、そういう事さ」
「んあ~、なんというか逃げっすねえ」
「逃げるが勝ちだから良いの。ああ、リアルに商品を持って逃げるとかしないとかはしないからご安心を」
「分かってるっすよ、こんなチンケな店、万引きしなくてもその財布のコイン一枚で店ごと買えていまうっすから」
それに対して最近の富裕層はスリルの為に万引きする事もあると言ったら、馬鹿なんじゃねえのと返ってきた。うん、その通りだ。
もう少し裕福層は有意義な事に時間を使うべきなんじゃないだろうか。
そんな事を考えていると、これまた聞き慣れた声がした。
「アダマス君じゃないか。なんか楽しそうな事をしているね」
仕事帰りのエミリー先生がそこに立っていた。
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