37 歌ってみよう、駅のホームで
シャルが何か言いたそうに此方を見ていた。
はて、何か他にやる事でもあったかな。ボクは自分の脳内を適当にまさぐり、頭を捻って考える。
同時、エミリー先生が思い出したように抱き付きを解除してボクらを見た。
「そういえば待合室で私をやっつけるって話がチョロっと聞こえたんだけど、あれってなんだったの?」
ああ~、あれね。
「エミリー先生をギャフンといわせたくて、二人で歌を練習してたんです」
すると彼女は訳が分からないとばかりにポカンとした表情になった。
「ふ~ん、そうかそうか……って、え?
私をギャフンといわせたいのは何となく分かるとして……なんで私をやっつけるのに歌の練習?」
きっとエミリー先生にとって予想外の事だったのだと思う。
大体の事に想像が付く天才故にだろう。
エミリー先生は普段の飄々としたキャラに反して、面食らった様子になっていた。
具体的には、その時の彼女は常識人的で、とても素っぽかったのだ。
9歳も年上のお姉さんに抱く感情としてはどうかと思うが、初々しくて可愛らしいと思った。揶揄いたくなる。
ボクは両手を頭の後ろで組んで、生意気な子供の様な仕草で応えた。
「だってエミリー先生って歌上手いじゃないですか」
「あ、そう?ありがと……って!いやいや、そこまでは上手くないからね!」
「いやいや、上手いですって!こないだ聞いた時プロまっしぐらだって思いましたよ!」
これは冗談。
「それはないって!寧ろ音痴だから~」
そして隣のシャルが仕組んだかのように悲しそうな反応をした。
こっちは天然だ。やっと思い出したようでお兄ちゃん嬉しいよ。
「えっ、音痴なのですかや?折角張り合う為に練習したのに……」
「いや、ええと、ゴメン。勢いで言った。
そりゃ素人さんよりは良いんじゃないかなって思うけど……というか、そんな悲しまないでくれよう。私も悲しくなっちゃうから」
握る動作を繰り返し、オロオロするエミリー先生。
これ以上の日和見は酷いなと、ボクは助け舟を渡す方へ切り替える。
「まあ、実際に聞いてみないと分らないものだしね。
よっしエミリー先生、ちょっと一曲歌ってみせてくれませんかな」
「……ここで、かい?」
エミリー先生の瞳には理性の色が戻っていた。
流石天才、トラブルからの復帰も早い。
母性のスイッチが入ったあれは置いておくとして。
「う~む、一応ここ駅のホームなんだけどなあ」
これが先ほどまでオッパイの谷間から缶コーヒーを出していたのと同一人物だとは。
彼女はまるで困ったふりをして、ボクに話を振った。
ああ、これはもう完全にパニックから立ち直って、意味もなく揶揄おうと内心ニヤニヤしてますわ。完璧に揶揄われたお返しの、カウンターの構えですわ。
そして理屈じゃ絶対に負けない事を、ボクは知っている。
だからボクは手を合わせ、勢いよく首を垂れた。シャルの為に。
「どうしてもエミリー先生の歌が聞きたいんです。お願いします!」
「ええ~、どうしてもぉ~?」
顎を逸らせて足を組んで、彼女は偉そうに見下ろす形で問う。
ボクはそれでも、今度は更に背中が見えるくらいに頭を下げて、誠意だけが伝わる真っすぐな声色で頼み込む。
「どうしてもっ!」
因みに、侯爵家の嫡男が高が一技術者に頭をここまで下げたのなら、普通の貴族社会では処刑ものの大騒ぎである。
しかしエミリー先生は、仮にそうなろうとすると父上やボク本人など周りの環境がラッキーダスト家全権力を用いて止めるのを知っている。
何故なら彼女の目の前に居るのは侯爵家の嫡男として権力を用いる貴族の『アダマス・フォン・ラッキーダスト』ではなく、あくまで親しい付き合いの『アダマス君』なのだから。
彼女は家庭教師になって暫く。
ボクを「若様」でなくて「アダマス君」と呼び始めた時に言った事がある。
『もし無礼で私の首を刎ねざるを得ないのなら、自分は時流を読めない盆暗だったまでの事。遠慮なく刎ねて宜しいでしょう』
それが彼女が家庭教師の立場で、父上に言った事だった。
講義中にボクが「堅っ苦しいのは嫌だから違和感なく呼んで」と言ったら、その流れになったのだ。
尚、ボクが彼女を先生と呼ぶのは「『先生』との禁断の愛って良くないですか?」と言ったら納得してくれた。
だからエミリー先生は気安そうに。
しかし責任感ある感情を込めて、手の平をボクの肩へ置いた。
「そこまで頼まれちゃ仕方ないな。面を上げい」
顔を上げると柔らかい笑みがある。
その顔は明らかに揶揄っている笑いを象ったものだけど、悪意は全然感じられない朗らかなものだ。
お互いに見つめ合っていると、エミリー先生は片眉上げて皮肉気にシャルにも目を向けた。
「まあ、そういう訳で、だ。
ちょっと恥ずかしくて嫌だと感じたら、普通にこんだけ言って断って大丈夫だから」
「お、おう……。頑張りますのじゃ」
どうしていいか分からない様子のシャルに対し、あくまでエミリーは微笑むのみ。
エミリー先生はベンチから立ち上がると一歩半ほど前に出て、全身がボクらに見える様にいた。
まるで、これから自分がお手本を見せるとでも言わんばかりに。
どこまでいっても先生なんだなあ。
「じゃあいくよ」
駅のホームに綺麗な歌が紡がれるのであった。
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