薔薇の国の新しい女王
その年、春が来るのが遅かった
薔薇園の蕾は固く閉じ、夜の冷えは長く続いた
王城の廊下のは香が満ち、祈りの声が薄い壁越しに流れた。誰もが口を閉ざし、視線を伏せる。女王が弱っていることを、皆が知っていた
女王が倒れたのは、まだ薔薇が咲き始める前だった
病だとも、過労だとも、季節の変わり目だとも言われた。けれど噂は噂を呼ぶ。王宮とはそういう場所だ。小さな囁きは廊下の角で増え、急速に広まっていく
ロズリーヌは、母の寝室の扉の前で立ち尽くしていた
入室は許されない。女官たちが、医師たちが、議会の使者がそう言う
それが国のためだ、と
「……お母様に、お会いしたいの」
声は震えていなかった。震えることすら許されないと、19歳の彼女はもう知っていた
彼女の隣には女官長カミーユが控えている。背筋はピシリと伸び、目は冷静に澄んでいる。カミーユはロズリーヌを敬愛している。だからこそ甘やかさない。愛とは時に、冷たく見えるものだ
「ロズリーヌ様、今ここで取り乱してはなりません。影が喜びます」
ーー影。それは政敵であり、噂であり、王権を食いちぎろうとする見えない牙だ
ロズリーヌは息を吸った
薔薇の香りはしない。あるのは強めに焚かれた香と、薬の香りだけ。幸福なものではない
「……わかっているわ。わたくしは、王家の娘だもの」
その言葉は、幼い頃に無邪気に言えたものとは違った
今のそれは、彼女を縛る鎖だった
同じ廊下の少し後ろで、リオネルは拳を握りしめていた
彼もすでに“王女の側に置かれる男”として、周囲に扱われている。幼馴染であることは、もう昔の記憶にしか存在しない
彼は、彼女を“ロズリーヌ”と呼びたかった
しかし、口に出すのは許されない。皆の前で“王女”から“ただのロズリーヌ”に引き戻すことになる。それは慰めではない。危険だ
だから、静かに言った
「……ロズリーヌ殿下」
ロズリーヌは振り返る。青い瞳が一瞬だけ揺れ、すぐに凪いだ
「リオネル。ここにいたのね」
“幼馴染の声”ではない。“王女が臣下にかける声”だった
リオネルは、胸の奥の痛みを必死に隠した
その時、扉が開いた。医師の1人が出てくる。顔色が良くない
医師は息を整え、低く告げた
「……女王陛下が、崩御されました」
ロズリーヌのまつげがほんの少し震えた
それでも泣かなかった。泣けば、影が喜ぶ。カミーユの言葉が胸に刺さった
「わかりました」
彼女の声は、驚くほど静かだった
「すぐに、手続きを」
19歳のロズリーヌは、その瞬間から“女王”になった
ーーーーーーー
戴冠式は、よく晴れた朝だった
王城の大広間に集まった貴族たちは、新たな女王の誕生を喜びつつ、頭の中で計算を進める
王冠は、黄金でできている
けれど、その重みは金属だけではない。王権と血統と責務と、背負わされた未来の総量だ
ロズリーヌは玉座の前に進む
神官が祝詞を唱え、王家の歴史を読み上げる。女王が代々継いで来た血。女王の娘が女王となる定め
“確実に王家の血筋を残すため”という言葉が、式文の中に当然のように織り込まれているのを、彼女は聞き逃さなかった
王冠が頭上に置かれた。彼女は立ち上がり、宣言する
「ロズレ王国の女王として、民を守り、国を導くことを誓います」
拍手は大きく、礼は整っていた
けれど、その音はどこか冷たく聞こえた
ーーーーーーー
戴冠式の翌日、議会が開かれた
冷たく鋭い空気が議場にはある。言葉は丁寧だが、刃が隠れている
議員たちは頭を下げ、同じ口調で同じ言葉を繰り返す
「陛下の御即位、誠に慶賀に存じます」
「国の安寧のため、速やかに体制を整える必要がございます」
「王家の血筋は、国の要でございます」
ロズリーヌは玉座に座り、背筋を伸ばして聞いていた
カミーユは彼女の斜め後ろに控え、視線だけで状況を読み取る
リオネルはさらに後ろ。彼の立ち位置はまだ定まっていない。定められるのを待っているーーいや、定められてしまうのを
「ーー後宮を整えましょう」
議員の1人が核心を口にした
その言葉に、空気の広間がわずかに動いた
誰もが知っている。ロズレ王国の政治は、女王の身体と切り離せない。後宮は外交であり、条約であり、同盟であり、時に金の流れでもある
ロズリーヌの喉がキュッと詰まった。でも、微笑みは崩さない
女王は、心の揺れを示してはいけないから
「具体的には?」
「まず、初夜の相手を議会にて決定しーー」
「その後、諸国との友好・交易を見据え、有力貴族、周辺国の王族などを順次お迎えする事が望ましいかと」
“初夜”。本来なら愛する相手と過ごす時間も、この場では政策として扱われる
カミーユは一歩前に進み、静かに言う
「陛下はご多忙です、議会は陛下の心身への配慮も忘れぬよう」
配慮、と言う言葉の薄さに、ロズリーヌは笑いそうになった
配慮しながら要求するのだ
“国のため”と言えば、どんなことでも正当化できる
彼女は爪を掌に食い込ませた。痛みで自分を保つ
「後宮は必要だと、皆が言うのね」
誰も否と言わない
沈黙が肯定だ
「わかりました」
彼女は笑ったまま頷いた
「ただし、手続きと礼節は守りなさい。女王の寝台を汚すつもりはありません」
議会にわずかなざわめきが走る
女王は若い、けれど棘がある
議員たちの口元がわずかに引き締まる
議長はうやうやしく言った
「では、第一候補としてーーリオネル殿を」
リオネルの名が、公の場で“制度の中の名”として置かれる
幼馴染の名ではない。女王に仕える男の名だ
リオネルは顔色を変えず、ただ一礼した
そして、ロズリーヌは小さく息を吐いた
ーーいつか、こうなる。わかっていたはずなのに
「陛下、今は頷くべき場です」
カミーユが小さく囁く
ロズリーヌは微笑み、頷いた
「わかりました。ロズレ王国の規範に則り、議会の決定に従いましょう」
その瞬間、王城のどこかで風が吹き、薔薇の枝が揺れた
棘は陽の光を受け、静かに光る
まるで、これから始まる痛みを予告するように
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旅人よ
ここで私は同じ問いを口にしたい
ーーこの国の薔薇はなぜこんなに赤いのか
答えはまだ歌わない
今宵はただ、19歳の女王が泣かずに王冠を戴いた日を覚えていて欲しい
そして、幼い思い出が“制度”という名の檻に移されていく音を
薔薇は、まだ咲き始めたばかりなのだから




