18.エルと水瀬
午前の予約患者が終わりそうな頃、病院に到着した。外来を終えた昴が待ち構えていた。そして、水瀬に向かって、
「水瀬、自分の体を軽視し過ぎだ。」
珍しく怒っていた。
「ご、ごめんなさい」
水瀬はしょんぼりしている。
「冬哉がたまたまそっちに行ってたからよかったんだ。冬哉に感謝するんだぞ。」
と、言うと、水瀬は冬哉を見つめた。冬哉は、
「…いいよ、別に。」
見つめられて落ち着かない。
「でも、本当にありがとうございました。」
と水瀬はお礼を言った。そして昴に連れられ検査へ向かった。冬哉はとりあえずホッとして、自分の仕事するか、と検査室とは反対方向へ歩き出す。本当は休みを取っていたのだが、せっかく職場に来たのだから仕事をして帰ろうと医局に行く事にした。
昨日は寝てるような寝ていないような状態だったが、不思議と疲れはない。体調が良すぎるのも、覚醒か?と不安になる。冬哉は脈を取り、しっかりと脈打っているのを確認し、気を落ちつけた。そして事務仕事を始めた。
1時間もすると、検査や処置が終わったのか、昴から電話がかかってきた。水瀬は抗生剤の内服と治療で様子見ていい、喘息もとりあえずは大丈夫だ、このまま帰宅してよいとのことだった。冬哉はそのまま待っててと伝え、医局を出て外来へ向かった。水瀬を家まで送るつもりだった。
午後の外来の予約がはじまる時間。少しずつ患者が待合室に増え始めている。内科外来の近くに着くと、穏やかな話し声が聞こえてくる。水瀬と昴が楽しそうに話している。冬哉は少し心がチクリとした。
「榊原先生?」
と、後ろから声をかけられた。振り返ると検査部の部長だった。
「すみません、今、良いですか?」
と、なにかファイルを持っている。人目を避けるように外来の中へと誘われた。
「すみません、お忙しいのに。」
「いえ、大丈夫ですよ。どうしたんですか?」
「これなんですが‥。」
と、ファイルを見せてきた。なんでもこの1か月、輸血の数が合わないというのだ。それで、輸血を使用した医師へ1人ずつ確認して回ってるというのだ。ファイルを見ると、ほんの数パックだが、血液型に関係なく数が合っていない。冬哉は自分のオペ記録を見ないとはっきりと答えられないと思い、部長と手術室の方へ向かう事にした。手術室へ向かいながら、水瀬を1人で返すのが心配だが、どうすべきかと考えた。頼れる人、そして時間が掛からずここへこられる人、そんな人‥、と思いついたのは、エルだった。冬哉は、はぁーとため息をついたが、今は仕方ない、とエルへ連絡した。
昴は冬哉から連絡を受けた。輸血の件は昴も初めて聞いた。自分も内科で輸血を使用しているから、と冬哉のところに向かう事にした。だが、その際の水瀬の迎えがエルだと聞いて、多少の心配はあったが、昴も仕方ない、とため息をついた。
昴は水瀬に、冬哉が仕事になったので送れない、その代わりエルが迎えに来る、と伝えた。そして待合の側のカフェで待つように伝えた。水瀬は会計を済ますとカフェでコーヒーを注文した。エルのことは、近所でたまに見かけたり噂を聞いている程度だ。自宅にエルが来た際には意識朦朧としていたので、エルのことをしっかりとは覚えていなかった。
「なんか、申し訳ないな‥。」
と呟く。1人でも帰れるのに、と過保護な大人たちをうらめしく思った。
水瀬はカフェから外来の患者さんたちを眺めていた。外来にはさまざまな人たちが通っている。静かに待っている人がほとんどだが、なかには賑やかに近所の噂話で盛り上がるグループもいた。いやでも話が聞こえてくる。
「ねー、最近、あの空き家に幽霊が出るって噂聞いた?」
「えー、あそこ?やだ怖いわー。」
「いつまで空き家にしとくのかしらね、幽霊ならいいけど、犯罪者が隠れてるかもなんて思うと怖いじゃないねー。」
「幽霊ならいいの?幽霊だっていやよー、怖いじゃないのよー。」
空き家に幽霊、ねぇ、と、水瀬は遠巻きにその話を聞いていた。
「空き家というのは、社会問題となっているな。」
と、いきなり後ろから話しかけられた。うわっと驚いて振り向くとエルがいた。銀髪のロングヘアを後ろで綺麗にしばり浅黒い肌に少し皺が刻まれている顔はエキゾチックな顔立ちをしている。背も高くがっしりとした体つき。周囲の人が、誰?とヒソヒソと話している。なるほど、これはうちの集落であまり外にでてこないはずだわ、と水瀬も思わず見惚れた。
「自宅まで送る。歩けるか?」
と、ぶっきらぼうに話す。水瀬は我に返り、
「あ、歩けますよ。大丈夫です。すみません、わざわざ来ていただいて。1人でも大丈夫だって言ったんですけど‥。」
と言うと、
「気にしなくていい。冬哉も昴も、君のお爺さんも、みな、君が大事なだけだ。」
と、少しだけ優しく微笑んだ。水瀬は、この人、絶対うちの田舎でウロウロしない方がいい人だわ。エルの平和な暮らしのためにも、今のまま、集落での外交は控えてもらうべきね、などと考えていた。
「なんだ?」
水瀬の頭の中を読んだかのように、思考を遮ってきた。
「い、いえ。では、帰ります。」
そう言うと立ち上がった。目立つ容姿に視線を集めながらも、お構い無しに堂々と歩くエルの後ろを、水瀬はコソコソとついて歩いた。それにしても、冬哉先生が連絡してからここに来るの、早かったな、と少しの違和感はあったものの、歩幅をちゃんと合わせて歩いてくれるエルの大きな背中に懐かしさを覚える水瀬だった。
歩いていても、電車でもほぼ無口で会話のないまま、自宅の最寄駅についた。
「そういえば、」
と、エルが話し始めた。
「自己紹介が遅れた。エルヴィン・ユール、という。香港にいる冬哉の祖母から頼まれた、あの2人のお目付け役といったところだ。父親代わりみたいなものだ。よろしく。」
と握手を求めてきた。水瀬は律儀なエルにまた好感を覚え、こちらこそ、と挨拶した。
「冬哉がそちらの工房に入り浸っていた、迷惑でなかっただろうか?」
「いいえ、全く。むしろこちらは力仕事などお願いしてしまって、助かってました。」
「そうか、冬哉は体調を崩して仕事を休んでいたんだが、体も精神も鈍ってしまうと心配していた。そちらに通うようになりすっかり元気になってよかった。」
表情は変わらないが声はとても穏やかだ。エルはおばあさんに頼まれてとは言っていたが、エル自身も冬哉親子には心を傾けているんだろうな、と感じていた。
「時に、水瀬さん。冬哉の事だが、惚れてますか?」
唐突な質問に、
「そうですね、」
とつい答えてしまう。そして、ハッとし、
「いえ!え?今、私、何て言いました?」
水瀬は焦る。エルの淡々とした様子につい本音が漏れていた。
「惚れてるかと聞いたら、そうだ、と。」
そして、またもや淡々と状況を説明してくれる。水瀬は顔を赤らめ、
「あの、そんなじゃなくて、とても安心するというか、いてくれると嬉しいというか、」
言い訳をしようとすればするほど、水瀬の気持ちはダダ漏れだ。エルは、ふっと笑い、
「あいつのことをそこまでわかってくれた人は、今までいません。水瀬さんのような人は初めてなんです。」
と話す。だが少しだけ声が神妙になり、
「水瀬さんが本当の意味で、あいつと幸せになれるように、私は見守るつもりです。心配いらない。」
と言った。本当の意味で?ってどういう事だろう、水瀬はエルの言葉が心に残った。そうするうちに自宅に到着した。祖父が心配げに外まで迎えに出てきた。そして、エルに丁寧にお礼を言うと、
「あんたさんも、冬哉先生も、またいつでもうちに寄ってください。ご馳走しますよ。」
と嬉しそうに話す。祖父は工房を1日たりとも空けずに毎日自分の仕事に向き合ってきた。なかなか人が家に来ることなどなかった。祖父は冬哉の訪問もとても嬉しかったのだ。エルは、
「迷惑がかからない程度に、お邪魔します。」
と、真面目な顔で言うので、思わず水瀬は笑ってしまった。
水瀬の自宅を出ると、隣のガラス工房のウィンドーに気がついた。美しいガラス製品が美術館のように並んでいる。エルは、このガラスも、水瀬という人も、どこか懐かしい。その時ふと頭に現れたのはミリアムだった。そうか、あの明るさ、強さ、人と垣根無く接する優しさと温かさ、あの人を思い起こさせるのか、と。そしてこのガラス。ミリアムが愛したガラス。コンスタンが命懸けで作っていたガラス。それにも似ていて胸が熱くなる。
エルは高台にある自宅に帰ると、1人庭へ出た。少しずつ陽が落ちていく坂道を見下ろしながら、遠い遠い昔を懐かしんだ。




