番外編 ばれんたいんのちょこれーと
ケルベロス『久しぶりだな。残念だが、今回は番外編だ。しかも一日遅れのな。まあ、楽しんで行ってくれ』
バレンタイン。
そんなイベントがあるそうな。女がこぞって好きな男にチョコレートとかいうものを渡すイベントらしい。
まあ、俺もアイーダから聞いただけで内容はさっぱりだが。
陽の高い昼頃。俺はいつもの橋の前で丸くなって寝ながら、アイーダが嬉々として話していたことを思い出していた。確か昨日だったか。
しかし、人間の世界のイベントらしいからな。俺ら魔族には関係ないだろう。
と、思っていたのだが……。
……なんか嗅いだことのない匂いがする。
俺は鼻孔を刺激する甘い香りに誘われて、城の方へ顔を向ける。すると、その匂いがアイーダの実験室から漂ってくるのがわかった。
……なんだ、ちょこれーととやらを作ってるのだろうか。まあ、俺には関係ないが……ちょっと興味はある。あとで見に行ってみようかな。
などと考えていると、誰かが俺の方へやってくる。
「よっ、ケル。なんかチョコの匂いがするんだが気のせいか?」
『よう。マトイ。多分そりゃあそこからだな』
俺はそう言って城の方を指す。
『なんか、アイーダが人間のとこのばれんたいんなるイベントをやるそうな』
「ふーん。バレンタインねぇ……懐かしいな。人間の世界の勉強でもしてきたんだな」
遠くを見つめながら、マトイがそうこぼす。こいつも元は人間の世界に住んでいたのだ。思い出すこともあるのだろう。
「あの忌々しい、非リア殺しのイベント。ほんと懐かしいぜ」
なんか一気にニュアンスが変わったんだが。そんなイベントだったのか……。
自然と恐怖を感じながら、俺は地面に顎を付けた。
「ま、貰えたら嬉しいんだけどな」
『どっちなんだ……』
「ま、人それぞれってことだよ」
まったくわからんが、とりあえずそれで納得してやることにした。
『で、なんでおまえは今日も来たんだ』
「んー? いや、朝飯にでも……と思ったが、おまえは忙しくなりそうだな」
苦笑いを浮かべたマトイが、意味深に顎で城をさす。
俺もそちらに視線を動かすと、先ほどから美味しそうな香りのした部屋の窓から、ふわふわと飛んでくる。
アイーダとパリスだ。
「んじゃ、俺はこれで」
『……なんか、さっきの会話での不安が拭えないのだが』
「いんやー、大丈夫だろ。お前はモテモテだし」
なんだその皮肉は。素直に喜べないではないか。
俺はふんと鼻を鳴らす。すると、それを見てかマトイが「じゃあな」と言って去っていく。
……結局、あいつは何をしに来たんだか。
「やあ、ケルベロス」
などと考えていると、パリスが箒に乗りながら俺にそう声をかけてくる。その後ろにはアイーダも一緒だ。
『よう、お二人さん。すごい甘い香りがするが』
「あら、気づいてたのね。……まあ、鼻いいものね」
少し残念そうに、アイーダが口をとがらせて言う。
しかし、気づいていたとしても無視はできない。……ほんとに美味しそうな匂いがするんだ。
『それが、例のちょこれーととやらか?』
「そうよ。頑張って材料から作ってみたわ」
「魔界には存在しない食べ物だから、苦労したけどね。……まあ、一番苦労したのは材料を持ってきたアイーダだろうけど」
「まあね。カカオなんて直接売ってないし」
また聞きなれない単語が出たが、それよりも思ったのはちょこれーとというものへの興味だ。
いったい、どんなものなのだろうか。
「……まったく。そんな急かさないでくれよ」
『……ん?』
「尻尾振りすぎよ、あんた」
おっと、これは失礼。しかし止まらないものは仕方がない。
そう目で訴えかけると、アイーダがため息と共に、ピンクの紙でラッピングされた小さな箱を俺に差し出した。
「はい。ハッピーバレンタイン。……これからもよろしくね」
『お、おう。……ありがとう』
なんだか無性に照れくさくなってくる。アイーダの顔を直視できない。
「じゃ、ボクからも。別に変なものは入ってないからね」
『……なんだ。ちょっと不安が残るな』
「少しぐらい喜んでくれよ……」
呆れたため息とともに、パリスも緑色のオシャレな袋を俺の前に置く。
「それじゃ、感想だけ貰おうか?」
「そうね。開けられ……ないわよね」
その質問に俺は無言で頷く。生憎と、犬の手は不器用なのだ。まあ人化すればいいが、そんな気分ではない。
アイーダが目の前で包装を丁寧に解くとーー中から甘い香りの根源、暗い茶色の、四角く平べったい塊が。
「はい、食べて」
『おう』
俺は言われた通り、アイーダの華奢な指に挟まれるちょこれーとを一つかじった。
瞬間。口の中に広がる濃厚な甘み。それは喉を通って内蔵を、鼻腔を満たしていく。
食べたことの無い味。それは、とてもとてもーー
『ーー美味い』
「そう、ならよかったわ」
アイーダが、嬉しそうに優しく笑った。
その笑顔が眩しくて。
ーーふと、目が合った。
「……ま、僕の場合後で感想を貰おうかな。じゃあね」
「あ、ちょ、ちょっと待って! あたしも行くわ!」
「うん? いいのかい?」
「い、いいわよ! じゃあね、ケルベロス! 味わって食べなさいよ!」
そう言い残すや、怒涛の勢いで去っていってしまった。
取り残された俺は、ただ思う。
『……人化してたら、やばかったな』
不思議な感覚を二度も味わい、その日は昼寝なんてできそうになかった。
ケルベロス『最後まで読んでくれてありがとう。どうだったか? まあ、たまにはこんなのも悪くない』




