【第1篇】第7話 『時の叫び(2)』
午前6時20分――カーテン紀元1889年8月4日
ヴァレンのまぶたがゆっくりと持ち上がった。見慣れた天井の光景が、まだ薄い意識の霧に包まれた視界に出迎える。
「うっ……」
口元から小さな呻き声が漏れた。意識が完全に覚醒すると、ヴァレンは体を起こしてベッドの端に腰掛けた。深呼吸をひとつ突くと、息を静かに吐き出す――つい先ほど自らの魂を奪い去った、死の余韻による浮遊感を追い払うように。
それから、彼はゆっくりと視線を下へと向けた。
「くっ……」
両手は、そこにあった。数分前には切断され、塔の頂から宙へ舞い落ちていったはずの左右の手首が、今は傷一つなく元通りに繋がっていた。しかし、皮膚には傷跡すら残っていないというのに、あの冷たい刃の衝撃と激痛は、虚構の痛みの記憶として脳裏に深く刻み込まれたままだった。
指先を解きほぐそうと動かすと、かすかに震えた。
「両手は元通りに戻っているのに……痛みだけが、まだここに残っている」
ヴァレンは自分の両腕を虚ろな目で見つめ、それから皮膚の表面をゆっくりと掻いた。
「それに……なんだか、両腕の奥が妙に痒いな」
かすかではあるが、肉の裏側から神経を逆撫でするような不気味な痒み。ヴァレンは深く溜息を吐き、全身に残る不快感を追い払おうと身震いした。
「こんな状態じゃ……まずはシャワーでも浴びてきた方が良さそうだ」
胸の中で未だ激しく鳴り響く強烈な動揺を振り払うと、ヴァレンは重い体を無理やりベッドから起こした。浴室へ向かう足取りは、重くふらついていた。
体を洗い流し終えたヴァレンは、部屋の黄色い掛け時計の真下に掛かっている鏡の前へと歩み寄った。己の姿を映し出した瞬間、あのトラウマ的な記憶のフラッシュバックが脳裏を激しく駆け抜けた――左右の手首を一瞬にして切断され、無造作に宙へと放り投げられ、そして頭部が塔の下の硬い地面へ激突して砕け散った、あの瞬間が。
「くそっ……思い出すだけでも、まだ怖気が走るな」
ヴァレンは自分の両手を見つめた。指先と手首は未だ激しく震えている――まるで、床を赤く染め上げたあの灼熱の激痛と滑落の感触が、今もそこに残り続けているかのように。
「落ち着け……落ち着くんだ」
ヴァレンは硬く目を閉じ、荒く脈打つ鼓動を鎮めるために深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
(すべての状況が狂い始めている。今日という一日を使って、この逸脱してしまったすべての変数を整理して、書き出さなきゃダメだ)
心の中でそう呟くと、彼は勉強机へと歩み寄り、一冊の真っ白なノートと一本の鉛筆を手にとった。木製の椅子を引き、先ほどよりも少しだけ落ち着いた佇まいで腰を下ろす。
「一つずつ、最初から整理していこう」
視線を鋭く研ぎ澄ませながら、ヴァレンは紙の上に鉛筆の先を走らせ始めた。
「『英雄の最後の舞踏』――それこそが、俺が今いるこの小説のタイトルだ」
ヴァレンの指に握られた鉛筆は動き続け、記憶の中に眠る情報を一行、また一行と刻み込んでいく。
「この小説の主人公はサイラス・メルヴィアン。彼がやってくるのは新入生歓迎会の三日後、1年A組の生徒として転校してくるはずだ。そこで起きた小さな事件をきっかけに、サイラスとアルヴィナは出会い、友人関係を築くことになる」
ヴァレンはテーブルの上で鉛筆の先をトントンと軽く叩き、それに伴って巻き起こる大きな出来事の連鎖に思いを馳せた。
「その小さな事件の後に、いよいよメインイベントが勃発する――ラインベルク家に対する大規模な襲撃だ」
「その襲撃を裏で糸引いているのは、伝説の英雄ジャンヌ・アルクレールが生きていた星紀元時代からの『古き神々』の信奉者たち。奴らは自らを『古き神々の断片』と名乗る邪教集団だ。構成員は様々で、中には途方もない年月を生き永らえてきた者もいれば、まだ数年しか経っていない者もいる」
主人公の役割についての記憶にたどり着くと、ヴァレンの鉛筆を走らせる手がさらに勢いを増した。
「その事件で、サイラスはラインベルク領内に潜伏していた『フラグメンツ』の構成員を全滅させる。その激闘の中で、彼の力は『マニフェスト・パーティシスト』の段階3へと昇格するんだ。サイラスは特別だからな。主人公として、彼は『マニフェスト』と『ブレイド』という二つのパーティシストの手法を同時に修得できる才能を授かっている。彼が唯一修得に失敗した分野は『アルケミスト』だけだ。根本的に、サイラスは何かの調合や調合技術にはあまり向いていなかったからな」
ヴァレンはノートの上に矢印を引き、サイラスの経歴を詳細に書き加えていった。
「学園に来る前、世界の遥か辺境にある故郷の村で、サイラスは指導者から訓練を受け、『ブレイド・パーティシスト』の手法を段階3まで高めていた。だからこそ、彼は『フラグメンツ』を一人残らず返り討ちにできたんだ」
続いてヴァレンの意識は、記憶の奥底に整然と格納されているこの世界の裏歴史へと向けられた――。
「それから、世間から意図的に隠蔽されている歴史もある。星紀元時代に『黒死病』の災厄が勃発した際、『古き神々』はこの世界へと降臨した。だが、それは彼らの権能のほんの一部が具現化したものに過ぎず、だからこそジャンヌ・アルクレールは奴らを完全に討伐することができたんだ」
ヴァレンは書き終えたばかりの最後の一行を見つめながら、一瞬だけ鉛筆の手を止めた。
「その歴史が意図的に隠蔽されているのは、この世界に生きる人々の恐怖を最小限に抑えるため、そして『フラグメンツ』に加わって『古き神々』を復活させようとする新たな者の出現を防ぐためだ」
「さて、ここからが本題だ。これらすべてを、今の俺の状況と結びつけて考えてみよう」
ヴァレンの指に握られた鉛筆が紙の上を走り、新たな分析の項目を刻み込んでいく。
「俺がこの世界に来てから、すでにいくつかの異変が起きている」
「一つ目。ノワール・ノッホトゥンのように、NPCがシナリオの縛りを受けることなく、この世界のモブやサブキャラクターと自由に交流している点だ。この物語の主人公がサイラス・メルヴィアンである以上、アルヴィナやラオン、カロンたちはサブキャラクターにあたる」
ヴァレンはトントンと紙の上で軽く鉛筆を叩き、その影響について思案するように眉間にシワを寄せた。
「サブキャラクターと他のキャラクターとの交流が、ストーリーの逸脱を引き起こす原因になるのかどうかは、まだ分からない。だからこそ、この件に関しては細心の注意を払う必要がある」
彼は小さく息を吐き出し、その項目の締めくくりとなる一文を書き下ろした。
「なぜなら、俺がこれまで読んできた幾つもの小説の記憶を辿る限り……こういうタイムループ現象は、ストーリーラインの歪みによって引き起こされるケースも多いからだ」
「そして、二つ目」
ヴァレンは紙の上に、次の数字を書き記した。
「2. 本来なら主人公のものであるはずのシステムウィンドウが、今や俺の前に現れていること。これが、今の俺が『主人公』になった証拠なのかどうかはまだ分からない。だが、もしこの推測が正しいのだとすれば、次の三つ目の項目はこれと直接関係してくることになる」
「3. もし俺がこの物語の主人公になってしまったのだとすれば、三日後にサイラスが登場しない可能性が高い。そう考える根拠は、あの塔で俺を襲撃してきた二人の黒づくめの男たちだ――奴らが身につけていた紋章は、『古き神々の断片』のものだった」
ヴァレンは一旦、手を止めた。紙の上に並んだ文字を見つめ、今書き下ろしたばかりの各項目の意味と影響を熟考する。
「つまり、アルヴィナ・ラインベルクの最初のイベントが、本来の時期よりも早く前倒しで始まってしまったということだ。そしてそれは、そのイベントの引き金を引いてしまった張本人こそが俺自身であるという証左でもある。アルヴィナとの会話は、本来ならサイラスとアルヴィナの間で起きるはずだった小さなイベントが、俺の存在によって置き換わってしまったことを意味している」
「そして、次は」
ヴァレンは再び鉛筆を動かし、紙の上に四つ目の項目を書き記していった。
「4. 正確な時間や場所はまだ分からないが、特定の瞬間になると、ヴァレン・エインハイルとして、そして相沢蓮としての俺の記憶が、システムウィンドウの宣言通りに――記憶片として段階的に頭の中で開示されていくこと」
彼は鉛筆の先を止め、著者と名乗る存在の不可解な行動に眉をひそめた。
「『ホワイトスペース』にいた時、著者ならそのすべての記憶を一度に俺の頭へ叩き込むことだってできたはずだ。それなのに、なぜ最後の本を読んだ時の記憶だけを開放し、残りを封印したんだ? なぜわざわざ、こんな風に段階的に与える必要がある?」
ヴァレンは短く息を吐き出し、トントンと机の上に軽く鉛筆を叩いた。
「これについては、まだ手がかりが少なすぎて謎のままだな。それから……次はなんだっけか……?」
部屋の扉の方から、彼の名を呼ぶ女性の優しく柔らかい声が聞こえてきた。
「ヴァレン~、我が子よ~」
ヴァレンは鉛筆を動かす手を止め、少し大きめの声で応じた。「はーい、母さん!」
アンナは息子の部屋の木製扉をコンコンと軽く叩いた。その規則的なノック音が静寂を破り、中からヴァレンの声が返ってくる。
「ドアを開けていいよ、母さん! 鍵はかかってないから!」
アンナがゆっくりとドアを押し開けると、ギシッとかすかな軋み音が鳴った。彼女は数センチほど足を踏み入れ、ドア枠に肩を預けながら、勉強机に向かって座っているヴァレンを見つめた。
「今から学院へ行かないの?」アンナは少し不思議そうに眉をひそめて尋ねた。「今日は新入生歓迎会があるんじゃないの?」
ヴァレンは指の動きを止め、胸の中の動揺を押し隠すように、できる限り落ち着いた笑みを浮かべて母親の方を振り返った。
「今日は行かなくても大丈夫なんだ、母さん。学院の規則で、出席するかどうかは生徒の自由だからね」ヴァレンは説得力のあるトーンで説明した。
「だから、俺は明日から行くつもりなんだ。それに今日はただの開会式と短めの挨拶だけで、終わったらすぐ帰されるからさ。それよりも……今日のうちに家で予習しておきたいことがいくつかあってね」
アンナは息子の顔をしばらくじっと見つめ、その瞳の奥にある真実を読み取ろうとするかのように視線を注いだ。
「そう……」アンナは短く息を吐き出し、茶目っ気のある疑いの眼差しで目を細めた。「母さんに嘘はついてないでしょうね?」
「つ、ついてないよ、母さん! 本当だって」ヴァレンは素早く答えた。
出だしで少し声が上ずり動揺が漏れてしまったが、彼は軽く咳払いをして声のトーンを整えた。
「ふーん……まあ、あなたがそう言うなら」アンナは納得したように何度もうなずき、薄っすらと笑みを浮かべた。「母さんはあなたの学院の細かいことまではよく分からないからね。後でお父さんにも伝えておくわ、余計な小言を言わないようにね」
「うん、母さん。ありがとう」
アンナは引き返そうとし、ドアノブを掴んで扉を閉めようとした。しかし、扉が完全に閉まる寸前で動作を止め、もう一度ヴァレンの方へと振り返った。
「そういえば、ケーキの配達は何時に行くつもりなの?」
ヴァレンはメモ用紙から顔を上げた。「今日の夕方に行くよ、母さん!」
「間に合うの?」アンナは片方の眉を上げ、念を押すように言った。「17箱もあるのよ、ヴァレン」
ヴァレンは力強くうなずき、確信に満ちた眼差しで母親を見つめた。「絶対に間に合うよ、母さん! 心配いらないよ!」
「ならいいけれど。遅れないようにね」
アンナは温もりと愛情に満ちた微笑みを浮かべ、最後にヴァレンの部屋の扉を静かに閉めた。ヴァレンは再び、部屋の静寂の中に残された。
扉が完全に閉まりきると、ヴァレンは深々と息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。胸を圧迫していた緊張の重荷を解放するように。
「はぁ……つまり、あのケーキの注文は俺が学院へ向かった後に届いたってことか?」彼は自分自身に向かって静かに呟いた。
「まあ、それは後で処理すればいいか。ところで、ノートはどこまで書いたっけ?」ヴァレンは額をポンと軽く叩きながら低く呟いた。
彼は再び目の前の紙へと視線を落とした。重要な記憶が脳裏をよぎり、鉛筆の先が空中で止まる。
「あ、そうだ! 確か、あの塔でリセットされる直前、俺の目の前にシステムウィンドウが現れたはずだ」
ヴァレンはこめかみを鉛筆でトントンと叩き、その起動メカニズムを思い出そうと長考した。
「どうやってシステムウィンドウを呼び出すんだ? 言葉に出すだけでいいのか?」
ヴァレンは軽く咳払いをしてから、はっきりと囁いた。「システムウィンドウ」
ヴッ――。
青みがかった半透明のスクリーンが突如として広がり、彼の顔の目の前に浮かび上がった。
ヴァレンは目を少し見開かせ、唇の端をわずかに吊り上げた。「おっ! 出た!」
◆ ◇ ◆
【 ヴァレンの小さな記憶の断片が解放されました! 】
【 記憶の断片:2 / ?? を正常に受領しました! 】
【 この物語の続きを読み進めますか? 】
◆ ◇ ◆
ヴァレンは目を細め、空中に浮かぶテキストの列をじっくりと観察した。
「ふむ……」
彼は顎に手を当て、目の前にある選択肢を熟考する。
「今のところは、このシステムウィンドウの意向に従っておくとしよう。何か重要な情報が得られるかもしれないしな」
確信に満ちた眼差しで、ヴァレンは静かに、しかしはっきりと口にした。「ああ! ヴァレンの物語を読む!」
瞬時に、システムスクリーンのパールのような輝きがより一層強く放たれ、柔らかな光で部屋全体を包み込んだ。そして、目の前に浮かぶ文字がゆっくりと切り替わっていく。
◆ ◇ ◆
【 ヴァレンの物語の幕が上がり始める! 】
【 ――どうか、『???』の加護があらんことを。 】
◆ ◇ ◆
第1篇 第7話 『時の叫び(2)』― 完 ―
次回:第1篇 第8話 『一つの絆』




