鏡合わせ、自分自身
射手矢君の「課外活動」は滞りなく進んだ。僕がかつてそうであったように、日常の連続に飽き飽きしていたという彼は、この危険と未知に満ち満ちた世界をすんなりと受け入れた。今朝には怪異狩りの見学も事故なく終わり、後は彼自身が、その異能の起源を自覚するのみ。
見学途中で突然泣き出した時はどうしたものかと思ったが、いろいろ気持ちの整理をつけただとかなんとかで、帰還後一時間もすると、神話の知識蒐集に意欲的な姿勢を見せはじめたのは、なんとも心強い。
「読み終わりました! もうね、ギリシア神話は完璧ですよ」
彼が最後の一ページをめくり終わり、裏表紙に手を置いて一息つく。だがその間すら勿体ないと言わんばかりに、黒猫が新たな本の山を運んできた。机の上に出現した紙の累積を一目見て、とうとう射手矢君は悲鳴を上げた。
「ま、まだあるの……。もう活字しんどいですよ。せめて漫画とか……」
「弱音吐かないの。まだたったの三冊じゃない。で、何かピンとくる神様見つけた?」
「今のところは、特にです。有名どころは大体目を通したつもりですけど、ビビッと来る感じの神様はいなかったですね」
彼は既に目を通した三冊を黒猫に返却すると、山のてっぺんから次の本を手に取った。「北欧」の二文字がその表紙に見えて、なんとなく複雑な気持ちが心に芽生えていくのを僕は感じ取る。これは不安と形容していいのだろうか……。
「あ、オーディンって名前聞いたことある」
文句を口にしつつも頁をめくっていく彼から、僕はとうとう目を背けた。
異能の自覚、などと大仰な名前であるが、その実は起源にまつわる神話の知識を得るということに尽きる。もちろんそこに至るまでには、その神格こそが自分の一部を形成しているという強い自覚を、自分の手で持つというプロセスが不可欠ではあるが。他人からこれですよと言われるだけでは、自覚として不十分だそうだ。
とはいえ僕達〈守り手〉の場合、新人の起源探しは解答解説付きである。佐口さんの《審火眼》によって答えは事前に判明しているため、大まかな読書の方向性は示唆されるためだ。僕のように未来の自分から教えてもらう、なんて荒業を使わなくても、本来はそこまでの労力はかからない過程となっている。今回はそういう意味でも例外だ。なにせ彼には、指針がない。
振り返る。すると偶然、叡掠さんと目が合った。彼はどうやら僕の動向を気にしているようで、こういうことはここ数日で一度や二度ではないので、本当の偶然ではないと僕は思っている。僕の表情の理由も、彼には見透かされているのだろうと思うと薄気味が悪い。
軽い会釈だけ済ませ、無言で横を通り過ぎる。予想に反して、彼は何も言っては来なかった。とはいえごまかしで歩き始めた以上、何か目的があったふりをしなければならない。歩きながら歩く理由を考えた挙句、僕の足は綿津見の元へ向かった。
「……なに、ハザマに行きたいだって?」
「ええ、まあ」
僕は何気ない動作で後ろに注意を向けつつ、曖昧な返事を返した。良い逃げ場がないかと、考えた結果行きついた先がここだ。ハザマの話を思い出したのは偶然だが、幸運だった。
「あそこなら人もいないじゃないですか。ちょっと独りで考え事をしたくて」
「別にここでしたって問題なかろうに。誰も邪魔しない…………」
そこで僕の肩越しに、彼は何かを見たようだ。見当はつく。
「…………ああ、成程。承知した。誰も通さなかったら良いんだな?」
「はい。助かります」
「そっちから戻ってくる方法は無いから、一時間ほど後に強制的に引き上げる。制限時間付きだが、文句は言ってくれるなよ」
彼の左手に禁書が出現する。
「あと、あまり遠出はしないように」
そのまま右手が僕の肩に置かれたところで、足元の感覚がすっと消えて無くなる。文字通り、僕は落下した。
**
「逃げなくたっていいのに」
叡掠はコツコツと足音を立てながら歩み寄り、綿津見の横の椅子に勝手に腰かけた。
「あんまり新人を虐めてくれるなよ、叡掠」
「虐めてないですよ。ただ、観察してただけ」
「はいはい、観察ね。お前は昔から変わらんな」
彼らの視線は、自然と射手矢に向いていた。彼らだけではない。今この書架にいる全員が、陰ながら彼の読書を見守っている。
「……して、〈壊劫〉の件だが……」
「おや、やはり聞かれてしまいましたか」
「もとよりそのために来たんだろう。どこまで深刻なんだ。といっても月の消失は確か……」
「ええ。阻止すべき月の消失こそが、ラグナロクの第一段階だといっても過言ではない。ここ数年続いている冷夏と厳冬が、かの〈フィンブルの冬〉であるかは現時点では断言できませんが、ともかく、今年の冬は終わりを迎えつつあります。変化があるとするならば今です」
叡掠はポケットから手のひらサイズの鉄塊を取り出すと、綿津見の机の上に置いた。
「そういえば、貴方には届け物があったんです。ポケットに入れっぱなしで忘れてました」
ゴトッと重々しい音を立てて、鉄塊は傾く。
「誰から?」
「我らが主神、オーディンその人から」
その返事を受け、綿津見は指で軽く鉄塊を弾いた。鉄は異能により液体へと変化し、中から一枚の紙片が現れる。彼がそれを取り出すと、鉄はまた塊の姿に戻った。
「『手遅れ』…………どういう意味だ?」
「俺に聞かないでくださいよ。え、手遅れ?」
聞き返した叡掠はずいっと覗きこもうとしたが、その紙片は彼の眼前で気体となって消えた。
「ちょ……なんで隠すんですか」
口を尖らせる彼に構うこと無く、彼は席を立った。
「運び役のお前が覗き見できないように、鉄塊の中に隠しておいたオーディンの意図をちょっとは汲めよ。おーい、射手矢君」
ぺらぺらと頁をめくっていた彼が、弾かれるように顔を上げる。
「次に読む本なんだけど、俺も一緒に選んでいいかな……」
声を上げて近寄りながら、空中でもう一度実体化した紙片を掴む。紙片の文字も、頭の中も、叡掠は読み取れない。
「……ったく、食えん男だ」
鉄塊を上に投げ、キャッチする。もう用済みになった金属をポケットにしまうと、彼はまた射手矢悠里の観察に戻った。
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ハザマに向かうのは二度目だ。落ちて、落ちて、まだ落ちている。
「自分は、ちゃんと、ここに、立っている」
懐かしい言葉を復唱すると、そこでようやく落下は止まった。目が次第に慣れてきて、僕はまだ図書館の中にいることに気付いた。今までの感覚は物理的に落下していたのではなく、現実と非現実の間の乖離を落ちていたに過ぎないことを思い出す。ここより上は日常であり、ここより下は異界となる。二つは互いを否定することなく、共存する。
「そうか、誰も……いないのか」
僕がいる場所は図書館の中、正確には禁書エリアの中であった。でも立っている階層が違うのだから、たとえ地図平面上で同じ座標でも、ここはエクメーネの禁書エリアではない。あの場所にいた仲間たちはハザマにはいないし、エクメーネに僕はいない。
携帯の画面を見てみる。当然のような圏外表示。当たり前だ。機械文明は、人間の常識が通じる場所にしか届かない。
ここには僕しかいないからだろうか、ここは完全な無音であった。そしてここがハザマである限り、視界の全ては灰色に包まれている筈であった。筈であった、というのは実際はそうでなく、ところどころ、たった一色だけ色彩が付いていた。
「……黄色?」
黄色であった。本の背表紙、机の上のクリアフォルダーなど数こそ少ないが、灰色の空間の中で唯一、黄色だけが眩く輝いている。色など存在しないはずの、この世界にだ。
「このハザマに、異常が起きている」
ここに来ようと思ったのは、僕の単なる思い付きのはずだった。だがその行動の結果、一つの重大な異変を目の当たりにした。
途端に、自分の行動の重みを感じずにはいられない。とはいえその重みに耐えかねたところで、縋る先は僕にはある。
「今こそ使うべきでしょう」
誰に何を言っているんだ。いや、誰もいないぶん、かえって独り言が大きくなることはままあるだろう。ポケットから〈アガスティアの葉〉を取り出しながら、また誰が聞くわけでもない言い訳を心の中で唱える。
「…………うわ、大当たり」
久々に、僕の行動が未来に直結するようである。責任はやはり重大だ。選択内容は『学校に向かう/向かわない』の二択。対応する未来は、前回と同じ『怪奇現象の早期発見/未発見』。その時も、異変は学校で起こっていた。深度は前回とは違う。前回は最表層とはいえアネクメーネであったが、今回はハザマだ。
綿津見の説明が正しければ、ここに怪異はいない筈である。であれば、これも前回と同じく、「人体模型」に続く第二の七不思議が居ると見るのが妥当であろう。
「でも早期発見、すべきなんだろうか」
そもそもそれも問題である。早く何かを知ってしまうことは、必ずしも良い結果を招くとは限らないのだから。実際、僕達と黄泉が最初に出会ってから、先日遼たちと対面するまでにかなりの時間が経過していたにもかかわらず、その間に僕らが打つことが出来た対策は皆無である。強いて挙げるなら、装甲神格とやらの配備くらいだ。
そうまごついていた僕も、手帳の白紙に新たな文字が浮かび上がったのを見ると、決心せざるを得なくなった。
『犠牲者の救出機会獲得/救出不可』
「行く…………しかないよな」
僕にも良心というものはある。扉を開け、僕は灰色の街へと向かった。駆け足になる程度には、一応の使命感は消えていないようだった。
**
「僕、ピンときました。間違いないです!」
「あ……いや、本当か? その……思い違いとかじゃ」
「いえ、絶対合ってます。というか、そもそも綿津見さんが勧めてくれた本ですよね、これ」
射手矢が閉じた本は選書であった。蔵書全てに目を通しているという佐口の助けを借り、要点だけにかいつまんで目を通しただけではあるが、彼の言葉にはたっぷりと自信が詰まっていた。
「まあ、俺というか、俺は唆されただけというか……」
綿津見はといえば手の中の紙切れを、遠慮がちに、隠すようにポケットにしまう。
「どう思う、澪」
「……まあ、矛盾はない。この子が花音に見たヴィジョンが、私が見たものと同じだった理由としては説得力がある」
反射的に野上花音は首を押さえる。当然首は一本だが、そうではないと主張する人間が二人もいる以上、意識するのは当然である。
「……それに、そもそもの問題------私の異能で異能起源の診断が出来なかった理由にも、だ。私と彼が同質の存在であるならば、当然私は彼との間に敷かれている筈の境界線を見出せない。私は彼を、他の人間と同じように区別できない。私の起源こそが、境界の、神であるが故に」
佐口は続けて告げる。これは自分の役目であると言わんばかりに。
「断言こそ避けるが、十中八九間違いなかろう。射手矢裕理、君の異能の起源たるはおそらく、この日本に土着したとある神格。その数多ある権能の内、ヒトの罪を裁き、祟る神としての側面」
彼女の眼から、猛々しく焔が宿る。すると爆ぜる火花と共鳴するかの如く、射手矢の眼から涙が零れだした。ただ泣いているのとは、また違うようだ。佐口の目から炎が零れるのとちょうど対になるかのように、彼の目からは水が溢れ出しているといった方が適切か。
「君は私と同じ、ミシャグジ神の異能を持つ者だ」




