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第一話 妹がいない食卓

玄関に、菫(すみれ)のスニーカーがなかった。


土曜の夜7時。週末には必ず帰ってくる妹の、白い靴の定位置が空いている。


出張鞄を上がり框に下ろす。持ち手に巻いた無地の保護布が、1週間の移動ですっかりよれていた。


「ただいま。」


返事はリビングの奥から、父の声で一度だけ。


いつもなら、ここで廊下を走ってくる足音がする。鞄をひったくられ、首に腕が回り、「お姉ちゃんおかえり、おみやげは?」までが一続きの儀式だ。


今日はそれがない。


リビングのソファに、両親が並んで座っていた。


「菫は? 今週は帰ってないの?」


「薫子、ちょっと座りなさい。」


父が手招きした。母は膝の上で指を組んだまま、こちらを見ない。


私は土産の紙袋をテーブルの端に置いた。シンガポールの空港で買ったチョコレートは、菫の分だけ箱が大きい。


鷲尾(わしお)薫子(かおるこ)、25歳。肩書きは鷲尾ホールディングス本社の経営企画担当執行役員で、実態は父の書類仕事の受け皿だ。


明治の商家から続く家で、本家には家系図まである。


うちには継ぐ家督がある、と言えば聞こえはいい。要するに、いずれ私と菫で分ける会社が山ほどあるという話だ。


「なに、二人して。菫が大学で何かされた?」


されたのなら、相手の名前を聞くところから始める。


「違うの。」


母が首を振った。


「……もっと、大変なこと。」


「会社が傾いた? どの事業?」


「それも違う。」


父が眉間を揉んだ。


「薫子。菫が、うちの子じゃないかもしれない。」


……は?


私は母を見た。


「お母さん、若いころ何かやらかした?」


「なに言ってるの、この子は。」


母が真っ赤になってクッションを抱えた。投げる寸前の構えだった。


「そうじゃない。俺の子でも、母さんの子でもないかもしれない、って話だ。」


「ありえない。」


即答すると、母がほんの少し肩を下ろした。


「そうよね。20年育てた子が、うちの子じゃないなんて……。」


「で、誰がそんなことを言ったの。」


    *


話を聞くと、私が日本を離れていた1週間のあいだに、一人の女の子が両親の前に現れたらしい。


20歳の大学生。本社ビルの前で待っていて、車を降りた母の足にすがって泣いたという。


「『お父さん、お母さん、私が本当の娘です』って。」


「名前は?」


「田中芹奈(たなかせりな)さん。」


「菫は、じゃあ誰の子だって?」


「その子のお母さんが、生まれた日に自分の赤ちゃんと菫を取り替えたんだって。」


私はこめかみを押さえた。


「お父さん。スマホに警察の防犯アプリ入れてる? 特殊詐欺の注意喚起が毎日届くやつ。」


「入ってる。」


「読んでる?」


父は黙った。


「でもね、薫子。あの子、菫の生まれた日も時間も知ってたの。産院の名前も、先生の名前も。」


「調べれば分かることよ。20年前の話でも、覚えてる人はいる。」


「それだけじゃないの。」


母が立ち上がり、サイドボードの引き出しから小さな箱を出してきた。紺のビロードの、手のひらに収まる箱。


「あの子が持ってきたの。私が預かっておくって言って……。」


蓋を開けると、プラチナの細い指輪。赤ん坊の指にも入らない飾りのためのベビーリングに、小さな誕生石が一粒。


内側には、鷲尾の家紋と菫の生年月日が彫ってある。


「おばあちゃんがね、あなたと菫に一つずつ誂えてくれたの。菫のは、生まれた日にベビーベッドの枕元の棚に置いておいたのよ。退院の日には、箱ごとなくなってた。」


「菫が今、首から下げてるのは、あとで作り直した二本目だ。お前は小さかったから覚えてないだろうが。」


覚えていない、と答えかけて、口が止まった。


紺の小箱。枕元の棚。


暗い部屋で、誰かがそれを手に取るところを、私は見たことがある。


    *


菫が生まれたのは、2006年の秋。私が五歳の年だ。


幼稚園から帰ると家には家政婦さんしかいなくて、私は両親を呼んで泣いた。赤ちゃんを産みに行ったのよ、と言われても、赤ちゃんがどこから来るのかも知らなかった。


病院に連れて行ってもらえたのは、翌日の夕方。


白杜産院(しらもりさんいん)という、小さな個人の産院。廊下に個室が並び、母の部屋の隣にも誰かが入院していた。


親戚が引き揚げたあと、父の携帯が鳴った。


「会社だ。すぐ戻る。」


父が出ていき、付き添いの家政婦さんも、電話を受けに廊下へ立った。母は疲れていて、私が話しかける前に寝息を立てはじめる。


ベビーベッドを覗くには、つま先で立たなければならなかった。


小さくて、赤くて、しわしわで、両手をぎゅっと握って眠っている。柵には「わしお ベビー」と書かれた名札がぶら下がっていた。


「ねえ、あかちゃん。おねえちゃんだよ。」


返事の代わりに、小さなあくび。


かわいい、と思った。ちょっと私に似ている、とも。


枕元の棚には、あの紺の小箱。おばあちゃんの指輪だから触っちゃだめよ、と言われたばかりだった。


見ているうちに、まぶたが重くなってくる。


薄暗い部屋で、母がハンガーに掛けたベージュのコートがいかにも暖かそうに見えた。


私はそれを引きずり下ろして頭からかぶり、ベッドの足元の隅に丸くなる。


ドアの開く音で目が覚める。


お父さんだ、と思った。違った。


入ってきたのは、薄い色の入院着を着た女の人。家政婦さんでも親戚でもなく、腕に何かを抱えている。


赤ちゃんだった。


「……いい子。今日から、ここの子だよ。」


女の人はベビーベッドに屈み込み、抱えてきた赤ちゃんを寝かせて、代わりに菫を抱き上げた。それから棚の小箱を取り、入院着のポケットに押し込む。


コートの隙間から、私はそれを全部見ていた。


「……これでいいの。これで、あの子は。」


女の人は一度も部屋の隅を見なかった。暗くて、私は小さくて、母のコートの下で身じろぎもしなかったから。


ドアが閉まる。


夢かな、と思いかけて、跳ね起きた。


ベッドを覗く。同じ産着、同じ大きさ、同じ名札。


でも、違う。


さっきまでずっと見ていたのだ。眉の薄いところも、握った手の指の曲がり方も、ぜんぜん違う。


「お母さん。お母さん、起きて。」


いくら揺すっても、母は眠ったままだった。


    *


ドアを細く開ける。


廊下に、入院着の背中が見えた。女の人は、すぐ隣の部屋に入っていく。


ドア脇のプレートの数字を、私は口の中で三回唱えた。


中から、さっきと同じ声が漏れてくる。


「――大丈夫。あんたは、あっちでお嬢様になるんだから。」


意味は分からない。私は廊下の消火器の陰にしゃがんで、待った。


しばらくして男の人がやってきて、その部屋に入る。すぐに声が大きくなった。


「だから、なんで今日なんだよ。予定日はまだ先だったろ。」


「うるさいね。あんたには関係ないでしょ。」


「関係あるだろうが。金、どこにやった。」


言い合いが廊下まで溢れ、男の人が何かを掴んで飛び出していった。


「待ちな!」


女の人がそれを追いかけ、二人の足音が階段のほうへ遠ざかる。


今だ。


隣の部屋のドアは半開き。ベビーベッドの中に、菫がいた。


「……みつけた。」


間違えようがない。あの眉、あの握りこぶし。


柵の名札には、知らない名字が書いてあった。


私は両腕を差し入れて、菫を抱き上げた。


重かった。


落とさないように胸に押しつけて、廊下を戻る。菫は一度だけ「ん」と鼻を鳴らして、泣かなかった。


母の部屋のベッドから、知らない赤ちゃんを抱き上げる。空いたところに菫を寝かせる。


「ちょっとだけ、まっててね。」


もう一度廊下へ出て、隣の部屋の空のベッドに、知らない赤ちゃんを戻す。


名札には、どちらも触らなかった。最初から、誰も触っていなかったのだから。


母の部屋に戻ると、私はもう一度菫を抱き上げた。本当に菫なのか、いちばん近くで確かめたくて。


そこへ、電話を終えた家政婦さんが戻ってきた。


「薫子ちゃん、何してるの。赤ちゃん落としたらどうするの。」


悲鳴みたいな声で母が目を覚まし、ほどなく父も帰ってきた。


「余計なことをするな。」


父は私の腕から菫を取り上げて、ベッドに戻した。


知らない女の人が赤ちゃんを取り替えた、と五歳の語彙で説明するのは難しい。まして、自分がもう一度取り替えた、なんて。


翌朝の母はけろりとしていて、菫は母の腕の中でよく泣いた。小箱がないと家政婦さんが騒いでも、誰も私には聞かない。


それきり、私はあの夜を夢の棚にしまった。大人になるころには、本当に夢だったのだと思っていた。


    *


「薫子?」


母の声で、リビングに戻る。


手の中に、紺の小箱があった。


「……その子は、今どこに?」


「別宅に住んでもらってる。」


父が目を逸らした。


「お前は出張中で、相談もできなくて、な。」


「鑑定は?」


二人とも、答えなかった。


私は小箱の蓋を閉めた。


あの夜、この箱をポケットに入れて出ていった女がいる。菫を抱えて廊下を戻った子どもがいる。


取り替え直したのは、五歳の私だ。

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― 新着の感想 ―
【あらすじ、偽物→偽者】玄関に、菫すみれのスニーカーがなかった。 文頭ですが、あらすじについての誤字報告を1話目でされていて、そのまま反映されてしまっているようです。
産まれたての首の座ってない赤ちゃんを5歳児が抱っこするってまさか首支えて抱っこできるとも思えないし、ましてや抱えて移動するとか出来るのか…? 可哀想に…きっと偽妹はそれが原因で頭に後遺症が残ってるので…
ブラックジャックやな
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