出会い
王都には、今日も多くの人間が行き交っていた。商人の呼び声。荷馬車の車輪が石畳を叩く音。露店から漂う香辛料の匂い。遠くでは、王城へ続く大通りを兵士たちが歩いている。
かつて、この地には城などなかった。そもそも、この街そのものが存在していなかった。
男は人混みの中を歩きながら、遠くに見える王城を眺めていた。
「……変わったな」
ぽつりと呟く。誰に聞かせるでもない言葉だった。
黒い外套。腰には一本の剣。見た目だけなら、どこにでもいる旅人にしか見えない。
男はしばらく王城を眺めたあと、興味を失ったように視線を外した。そして、冒険者ギルドへ向かった。
「ゴブリン討伐、ですか?」
「ああ」
受付嬢が依頼書を差し出す。
「王都から少し離れた森で、ゴブリンの群れが確認されています。数は十数匹程度との報告ですが……」
「分かった」
「え?」
「受ける」
受付嬢は少し驚いた顔をした。
依頼の難易度は低い。新人冒険者でも受けられる程度の依頼だ。
「……お一人で?」
「ああ」
「大丈夫ですか?」
「問題ない」
男は依頼書を受け取り、立ち上がった。
「お気をつけて」
「そうする」
それだけ言って、ギルドを出る。
王都の門を抜け、森へ向かう。
歩きながら、男は森の入口に残された足跡を見つめた。
ゴブリンのもの。一つ。二つ。三つ。……十。
いや。
もっといる。
「……報告より多いな」
男は足跡を追い始めた。
森の奥へ進むほど、木々の間に異様な臭いが漂い始めた。
獣臭。腐った肉。そして、鉄の臭い。
男は足を止める。
前方の地面に、小さな血痕が落ちていた。まだ乾いていない。
「近いな」
その直後だった。
「誰か! 助けて!」
女の声が響いた。
男は顔を上げる。
悲鳴。続いて、ゴブリンたちの甲高い叫び声。
男は迷うことなく走り出した。
木々の向こう。そこには、十匹を超えるゴブリンがいた。その中心に、一人の少女が倒れている。
白いローブ。手には杖。脇腹を押さえ、必死に立ち上がろうとしていた。
「いや……!」
一匹のゴブリンが棍棒を振り上げる。
少女は目を閉じた。
――ヒュッ。
風を切る音。
次の瞬間、ゴブリンの手に握られていた棍棒が宙を舞った。
「ギャッ!?」
男が少女とゴブリンの間に立っていた。
いつ抜いたのか。少女には分からなかった。ただ、男の剣だけが低く構えられている。
「下がっていろ」
「え……」
「怪我をする」
ゴブリンたちが一斉に襲いかかってきた。
「ギャアアアッ!」
左右から二匹。正面から一匹。さらに後ろから、別の二匹が飛びかかる。
男は動かなかった。
一歩。
ほんの半歩だけ身体をずらす。
棍棒が頬の横を通り過ぎた。
そのまま踏み込む。
剣が閃いた。
一匹目の棍棒を持った腕が宙を舞う。返す刃が二匹目の首元を捉える。
男は倒れる身体を蹴って、後ろから迫っていたゴブリンを弾き飛ばした。
「ギッ!」
木の幹に叩きつけられる。
残った二匹が同時に襲ってくる。
男は剣を横薙ぎに振った。
鋭い風圧が走る。
二匹とも地面へ転がった。
少女は息を呑んだ。
速い。
だが、それだけではない。
男は一度も、無駄に動いていない。
ゴブリンが振り下ろす瞬間には、すでにそこから身体を外している。
攻撃を避ける。斬る。次へ移る。
まるで、相手がどう動くのか最初から分かっているようだった。
「な、なんなの……この人……」
少女が呟く。
ゴブリンたちは仲間が倒されても怯まない。むしろ数で押し潰そうと、一斉に飛びかかってくる。
男は剣を握り直した。
「……多いな」
面倒そうな声。
次の瞬間――男の姿が、ゴブリンの群れの中へ消えた。
剣閃が走る。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。
ゴブリンたちが次々と倒れていく。
叫び声が上がるたび、少女の身体が震えた。
だが、男は止まらない。
最後の一匹が背を向けて逃げ出した。
男は剣を振らなかった。
足元に落ちていた小石を拾う。
そして――投げた。
小石は一直線に飛び、逃げるゴブリンの後頭部を正確に捉えた。
「ギャッ!」
ゴブリンが倒れる。
静寂が戻った。
男は剣についた血を振り払い、鞘へ戻した。
「……終わった」
少女はしばらく声が出なかった。
そのときだった。
森の奥から、地響きが聞こえた。
ドン。
ドン。
地面が震える。
木々の葉がざわめいた。
やがて、巨大な影が木々の間から姿を現す。
オーク。
普通のオークよりも一回り大きい。手には巨大な斧。身体中に傷跡があり、周囲のゴブリンたちを統率していたことが一目で分かる。
「グオオオオオオッ!」
オークが咆哮した。
少女は思わず後ずさる。
「……嘘」
オークが斧を構える。
その巨体からは想像できないほどの速度で、一気に踏み込んだ。
「グオッ!」
斧が振り下ろされる。
――ズドンッ!
地面が砕けた。土と石が飛び散る。
「危ない!」
少女が叫ぶ。
だが、男はもうそこにはいなかった。
オークの斧が地面を叩くよりも前に、男は攻撃範囲の外へ出ていた。
オークが顔を上げる。
その目の前に、男がいる。
「遅い」
剣が閃いた。
オークは咄嗟に斧を横に構えた。
金属音が森に響く。
――ギィンッ!
斧が弾かれた。
オークが驚愕する。
男はそのまま懐へ入り込んだ。
オークが拳を振る。
男は身体を傾けて避ける。肘が頭上を通り過ぎる。
男の足が一歩踏み込む。
オークが蹴りを放つ。
男はそれすら読んでいた。
身体を回転させながら蹴りをかわし、その勢いのまま剣を振り抜く。
オークの身体が止まった。
数秒遅れて、巨大な身体が膝から崩れ落ちる。
ズシン、と地面が揺れた。
男は倒れたオークを見下ろす。
その顔には、勝利の喜びも、達成感もなかった。ただ、少しだけ不思議そうな表情。
「……昔より弱いな」
「…………え?」
少女が聞き返す。
男は何も答えなかった。ただ剣を鞘に収める。
その仕草は、まるで今の戦いなど最初から勝負にすらなっていなかったかのようだった。
「助けていただいて、本当にありがとうございました」
「気にするな」
「私は王都の神殿で治癒術を学んでいます。今回、討伐依頼に参加していたんですけど……」
「一人で来たのか?」
「……はい」
「無茶だな」
「返す言葉もありません……」
少女は苦笑した。
男は少しだけ空を見上げた。
まだ日は高い。だが、森の奥から感じる魔物の気配が気になった。
「巣がある」
「巣?」
「ゴブリンの巣だ」
男は森の奥を見る。
「ここにいる数だけじゃない」
「……分かるんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「足跡を見れば分かる」
少女はしばらく男を見つめた。
「……あなたって、何者なんですか?」
「ただの旅人だ」
「旅人……」
少女は納得していない顔をした。
だが、男はそれ以上何も言わなかった。
日が傾き始めた。
「今日は戻らないほうがいい」
「え?」
「暗くなる」
男は適当な場所を選び、薪を集め始めた。
火を起こす。
少女はその手際を眺めていた。
「慣れてますね」
「長く旅をしているからな」
「どのくらい?」
「……忘れた」
「ふふ。変な人」
少女が笑う。
男は火を見つめた。
その笑顔を見ていると、不思議な感覚があった。
こうして誰かと焚き火を囲むのは――いつ以来だろう。
男は持っていた干し肉を火で炙った。
少女は、その様子をじっと見ている。
「……食べるか?」
「いいんですか?」
「一人で食べてもつまらない」
少女は少し驚いた顔をしてから、干し肉を受け取った。
「じゃあ……いただきます」
一口かじる。
「……固い」
「そういうものだ」
「そういうものなんですか?」
「ああ」
「もっと柔らかいものは?」
「ある」
「じゃあ、そっちがよかったです」
「贅沢だな」
「そういえば」
少女が口を開いた。
「まだ名前を聞いてませんでした」
「名前?」
「はい」
男は少し黙った。
そして、何でもないことのように答えた。
「……アレンだ」
「アレン……?」
少女は首を傾げる。
「どこかで聞いたことがあるような……」
「そうか」
「あ」
少女がぽん、と手を叩いた。
「昔の御伽噺です!」
男の手が、ほんの少しだけ止まった。
「五千年くらい前に、魔王を封印した勇者がいたって話」
「…………」
「確か、その勇者の名前も――」
少女は記憶を探るように目を細めた。
「アレン……だったような?」
男は薪を一本、火の中へ放り込んだ。
「そうか」
「同じ名前ですね」
「ああ」
「もしかして、ご先祖様とか?」
「さあな」
少女はくすくす笑った。
「変なの」
男も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
夜が深くなる。
少女が眠ったあとも、男は火の前に座っていた。
炎を見つめながら、遠い昔を思い出す。
誰にも頼らず。
誰にも支えられず。
御伽噺の勇者は常に独りだった。
それから五千年。
国が生まれた。
滅びた。
街が作られた。
消えた。
何度も。
何度も。
そうしているうちに、遠い昔の出来事になっていた。
だが――今、隣には一人の少女がいる。
小さな寝息が聞こえる。
男は炎を見つめたまま、静かに呟いた。
「……五千年ぶりか」
誰にも聞こえない声だった。
翌朝。
二人は再び歩き始めた。
王都へ戻る道とは、少し違う方向へ。
「こっちでいいんですか?」
「ああ」
「でも王都は反対ですよ?」
「ゴブリンの巣を潰す」
少女が目を丸くする。
「一人で?」
「そうだ」
「私も行きます」
「危険だ」
「でも、昨日助けてもらったままじゃ嫌です」
彼は少女を見る。
その目には、昨日までの怯えとは違うものがあった。
小さな決意。
「……分かった」
二人は森の奥へ進んだ。
やがて、岩陰に隠された洞窟が見えてくる。
ゴブリンの巣。
入口には、昨日の群れよりも多くの足跡が残されていた。
彼はそれを一瞥する。
「……いるな」
「ど、どれくらい?」
「全部で三十ほど」
「三十……?」
少女の顔が青ざめる。
彼は洞窟の入口を見る。
「ここで待っていろ」
「え?」
「すぐ終わる」
彼は一人で洞窟へ入っていった。
最初に聞こえたのは、ゴブリンの叫び声だった。
続いて、何かが壁に叩きつけられる音。
一度。
二度。
三度。
そして――静かになった。
少女が恐る恐る洞窟の中を覗こうとした、そのとき。
彼が戻ってきた。
「終わった」
「……本当に?」
「ああ」
彼は洞窟の入口へ火を放った。
炎が洞窟の奥へ走っていく。
しばらくして、奥から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
洞窟の天井が崩れ、入口まで土砂が流れ込んでくる。
巣そのものが潰れる。
もう二度と、ここが使われることはない。
少女は呆然と男を見つめた。
「……アレンさん」
「なんだ」
「あなた……本当に、ただの旅人なんですか?」
男は答えなかった。
ただ、崩れ落ちた洞窟を一度だけ振り返り――王都へ向かって歩き始めた。




