第102話 罪と罰と
悠蘭と楓に榛紀を預けた萩尾は池にかかる橋の付近に座り込む風雅の君のもとへ向かった。
凌霄の子はふたりとも守り抜かなければならない。
その決意は変わらない。
生まれた時から隠されるように宮中の奥で暮らしてきた白椎は姑息な御形の策に嵌められ、居場所すら失った。
妹尾菱盛や御形を説得して備中国に迎え、傍に置いておくことにしたのは近くで見守れる方が安全だと踏んだからである。
萩尾はぼんやりと遠い昔のことを思い返した——。
それは凌霄の妹、蘭子が九条家に嫁いて少し経った頃。
萩尾がまだ朝廷で官吏をしていた頃のことだった。
凌霄の話し相手として清涼殿に呼ばれた夏の深夜のことである。
勝手知ったる我が家のように萩尾は凌霄のもとを訪ねた。
人払いされた部屋に灯された行燈の明かりを頼りに文机に向かう彼に声をかける。
「凌霄、まだ何かしているのか」
「やっと来たか、萩尾」
凌霄は微笑んだ。
だがその顔には疲労が広がっている。
目の下は行燈の明かりでもわかるほどに青黒くなっていた。
とりあえず萩尾は凌霄の文机に向かい合って腰を下ろした。
「やっと来たか、ではない。そもそもこのような時刻に呼び出すものではないぞ。私が暇人ではないことくらいわかっているだろう?」
「だがそなたならまだ帰っていないと思っていた」
確かに萩尾は日付が変わる時分でもまだ仕事に追われていた。
このままでは夜が明けるまで帰宅することはないだろうと思いながら仕事をしていたのは事実だった。
「帝ともあろう立場の者が深夜まで文机に向かっていること自体、あってはならないことではないのか?」
萩尾は自分のことを棚に上げて言った。
萩尾の替えはいくらでもいるが帝の替えはいない。
だから凌霄には可能な限り負担をかけたくなかった。
「だいたいなぜ——」
延々と続く萩尾の説教を、凌霄はいつもどおり笑顔で聞き流していた。
面白くなかった萩尾がさらに声を荒げそうになった時、凌霄はおもむろに立ち上がったかと思うとすたすたと部屋の中を歩き出した。
「どこへ行く、話はまだ終わっていない——」
萩尾が半分腰を浮かせると凌霄は振り向きざまに言った。
「少し外を歩かぬか?」
言われるままに凌霄に連れ出された萩尾は不満を抱えながらも黙って友に従うことにした。
一見するといつもと変わらないように見えるが、今夜の凌霄はどことなく何かを抱えているように感じる。
そもそも普通なら寝込んでいるような時分に話し相手として臣下を呼び出すような身勝手な男ではない。
何か話したいことがあるのだろうことは容易に察しがついた。
ふたり並んで外を歩いていると虫の声が聞こえた。
闇夜には星が輝き、三日月が浮かぶ。
何ごともない平和な夜に思えたが、萩尾は敢えて訊ねることにした。
「——それで? 何か話したいことがあるのだろう?」
「……相変わらず萩尾は鋭い」
ここまでお膳立てされれば誰でも勘付く、と言いたいところをぐっと堪えて凌霄の言葉を待った。
辺りを見回すと数人の護衛が息を殺して立っていた。
よもや萩尾が凌霄に危害を加えるとは思われていないだろうが、六衛府の護衛はどんな時も凌霄のそばを離れることはない。
万が一、帝を見失うようなことがあればそれは大変な騒ぎになることだろう。
内裏の中でさえ常に監視されている凌霄を、萩尾は少し気の毒に思ったのだった。
歩いていると以前、凌霄が倒れたという滝口付近の水路の横を通過した。
後から聞いただけで実際にその現場にいたわけではないが、後に凌霄が妻として迎えた芙蓉がいなければ、彼はここにいなかったかもしれない。
芙蓉はただの女中だったがために身分が釣り合わず正妻として迎えられないのはわかるが、それにしても側室にもせず奥の登華殿に軟禁するように置いているのを萩尾は不思議に思っていた。
あれではまるで隠しているかのようである。
だが夫婦のことに口を挟むのは無粋なことだ。
だから萩尾から理由を訊すことはなかった。
さらに進むと紫宸殿の横を抜けて南庭へ出た。
行き交う者が誰もいない庭は全ての門が閉じられ、まるで籠の中の鳥であるかのような気分になる。
振り返ると重要な儀式などを行う紫宸殿がそびえ立つ。
見慣れた正殿も今は固く扉を閉ざしている。
それがかえって不気味さを醸し出していた。
凌霄は紫宸殿を見上げながら言った。
「私は大きな間違いを起こしてしまった」
「人間なのだから間違いなどいくらでもあることだ。間違ったと思うなら正せばいいのではないか」
「いやもう手遅れだ」
凌霄は紫宸殿を見上げたまま決してこちらを見ようとはしなかった。
何かをひた隠しにしながら、それを打ち明けられずにいる、そんな雰囲気を感じた。
「手遅れなどということはなかろう。何か困っているのなら——」
萩尾が気遣うと凌霄は遮るように言った。
「もう、手遅れなのだ」
「…………」
紫宸殿を見上げる凌霄の横顔を見ながら、萩尾は歯痒さを感じていた。
今の彼が何を考えているか、全くわからない。
他に相談できる相手が周囲にいないのか、相談するのも憚られるようなことなのか……凌霄が見えない何かと戦っていることは薄々感じている。
何とか助けになりたいと思っても、今の萩尾にはどうしていいかわからなかった。
もどかしさを噛み殺していた時、凌霄が重い口を開いた。
「……芙蓉は私に復讐をするために現れた刺客だった」
萩尾は凌霄が何と言ったのか、理解できなかった。
確かに芙蓉が刺客だった、と聞こえたがそんなはずはない。
今や芙蓉は凌霄の寵愛を受ける妻なのだから。
揶揄っているのかと反論しようとすると、振り向いた凌霄と目が合った。
その瞳にはどこまでも深い闇が広がっているように見える。
「な、何を言っている。芙蓉殿が刺客なわけは——」
「いや、あれは確かに私を殺そうとしていた」
「そんなはずはないだろう。彼女は命の恩人ではないのか」
凌霄は萩尾の問いには答えず別の話を始めた。
「萩尾。蘭子が内裏を出て行った後に話したことを覚えているか」
何の話を始めるつもりなのかと萩尾は眉間に皺を寄せたが、凌霄は気にも止めていない。
萩尾は仕方なく記憶の糸を手繰り寄せた。
蘭子が凌霄の部屋を飛び出していったあの夜、彼は『鳳仙呪録』を見た蘭子がその内容に嫌悪を示していたいたことを教えてくれた。
そして凌霄自身が先帝の手足となっていた術者を亡き者にするために彼の暮らしていた里を焼き払ったと言った。
蘭子は凌霄も鳳仙と同じことをしていると非難したという。
確かにやっていることは同じ殺戮かもしれないが、凌霄は御形というかつての陰陽師を生かしていくとこが危険だと判断したからそうしたのであって、鳳仙のように自らの意に沿わない者を排除したわけではない。
「忘れるわけがない。蘭子殿は今、九条家で手厚く迎えられ幸せに暮らしておられると風の噂で聞いたが……?」
「ああ。ありがたいことだ。そなたの言うとおり蘭子を行方不明ということにしたのは正解だった。朝廷内ではしばらく憶測が飛んだが、当の九条家が口を閉ざしてくれたおかげでそのうち、誰も話題にしなくなった。九条時華にはしばらく足を向けられぬな」
凌霄は微笑した。
だが微笑みも束の間、その表情はすぐに固くなった。
「芙蓉は私が焼き払った里に暮らしていた者だった」
「…………!?」
「彼女は不条理に親しい者たちや住むところを奪われたのだ、私の手によって。そして逃れるうちに私への恨みを募らせてやがてこの内裏へ辿り着いた」
凌霄は自らの行いを悔いるように自分の両手を見つめた。
どことなくその手は震えている。
萩尾にとっては、俄には信じがたいことだった。
鳳仙は家格を重んじて扱いやすい者をそばに置き苦言を呈するような者は術者を使って排除するという、政を私物化することを続けていた。
それを改革しようとした凌霄が同じようなことをする者が出てこないように術者を排除するために彼らの里を焼き払ったというが、図らずもその排除しようとした里の者に命を救われたということらしい。
あまつさえ、復讐心に燃える相手を愛してしまったというのか。
「……だから芙蓉殿を登華殿に閉じ込めているのか?」
「それは違うっ」
凌霄の慌てように萩尾は首を傾げた。
確かに考えてみれば芙蓉は全く登華殿から出てこないわけではない。
公式の行事や来客の前に現れないだけで、宮中を歩く姿を全く見ないわけではない。
「閉じ込めているわけではなく、ああすることでしか芙蓉を守れないのだ」
「守る? 一体何から——」
「御形からだ」
「…………?」
「どうやら御形もあの焼き討ちから逃れたらしくてな。おそらく虎視眈々と私の命を狙っていることだろう。芙蓉によれば、御形が里でたいそう大事にしていた女子がいるらしくてな。焼き討ちの際にその女子が命を落とし、御形は怒り狂っていたという」
「まさか芙蓉殿はその御形という男と繋がっているのか!?」
「いや、それはない。ただ、芙蓉は御形が大事にしていたという女子に世話になったから、その者を害した私が許せなかったと言っていた。だが今はもう心のわだかまりは解けている」
「それなら別に問題ないのだろう?」
「いや。御形が今どこで何をしているかはわからぬが、芙蓉が表立って人前に出れば彼女の噂は風に乗って各地へ散らばることだろう。あの男がまだ私を恨んでいるなら、芙蓉が私のそばにいることを知れば裏切ったと感じるかもしれぬ。そうなれば、私だけでなく、芙蓉も狙われることになるのだ。それだけは避けなさればならぬ」
深いため息とともに凌霄の悩みが吐き出される。
萩尾はやっと理解した。
ずっと凌霄が芙蓉を側室にもしないことを不思議に思っていた。
凌霄は確かに芙蓉を溺愛しているのになぜ奥に隠しておくのだろう、と。
御形という男が生きているのなら、同じ里に暮らして同じように被害に遭った芙蓉が、焼き討ちを命じた張本人の1番近くで穏やかに暮らしていることを知れば裏切られたと思っても不思議はない。
しかし萩尾はふと思った。
凌霄の言うとおりだとしたら、これから先も御形が生きている限りふたりはずっと狙われ続けるのではないか。
恨みが深ければ彼らに子ができたとしてもその敵意は関係ない子にまで向けられる可能性もある。
「気の毒なことだが芙蓉はこの内裏から出してやることはできぬ。それは私が犯してしまった過ちによるものだ。なかったことにはできぬ。すでに全て手遅れなのだ」
手遅れ、とはそういう意味か。
萩尾はやっと腑に落ちた。
稀代の陰陽師と言われた男を人知れず始末することは難しい。
対抗できる戦力は相当なものが必要だろうし、凌霄はすでに1度失敗している。
今できることとすれば、御形がどこにいるのかを突き止め、監視を続けるくらいのことかもしれない。
萩尾は夜空を見上げた。
月はすっかり薄れて空は暁へと変わっていた。
それを呆然と眺めていると萩尾は徐々に考えが鮮明になっていった。
明けない夜はない。
凌霄の1度の過ちによって脅威から隠れるように暮らさなければならなくなった彼らのためにできること——それは朝廷の外にあるのだ、萩尾はそう思った。
「くしゅんっ」
凌霄が隣でくしゃみをした時、水路から飛んできたと思しき1匹の蛍が目に入った。
蛍は日没から夜が更ける前までの間に光るというが暁に光る蛍は群からもはぐれ、最期の力を振り絞っているように萩尾には見えた。
それはまるでこれからの自分の姿を投影しているかのようだった。
「案ずるな、凌霄。お前はこれからこの国を正し、良き道へ導いていくはずだ。そのためなら私はいくらでも手を貸す。芙蓉殿はお前とともにいる限り、危うくなることなどない」
私が御形を押さえる楔となってやる。
萩尾は暁の蛍火を見たこの日、友の成す政が大成することを願って、官吏の矜持にかけて残りの人生を捧げることを決めたのだった。
萩尾がふと我に返ると輪廻の華に握らせた刀で風雅の君が自らの首を斬ろうとしているのが目に入った。
一体何をしようというのか。
慌ててふたりのもとに駆け寄った萩尾は、勢いよく彼らの間に割って入った。
「ならぬっ」
友を守り、友の助けになるためにできる限りのことをしてきた。
だが風早橄欖を守ることも、凌霄の最期に立ち会うこともできなかった。
だからせめて凌霄の残した子どもたちは守らなければ、これまでしてきたことが何も浮かばれない。
白椎は凌霄と芙蓉の子であり、橄欖が可愛がった愛弟子だった。
ここで死なせるわけにはいかない。
萩尾は風雅の君を突き飛ばした。
まるで身代わりになるかのように。




