22 私の世界はどこにある?
小女が歩いてる!
歩いてるし、そして・・・
「きっとあちら岸は、あっちの方、なんでしょう」
それまで黙ってじっとしたままだった女が、突然口をきいた。
ふせていた顔をゆっくりと上げ小女の歩く方角を見て、そう言った。これからどうするつもりなんだろう、とも呟いた。
小女は、川の水辺に行き着いて、水の流れを確かめるようにしてじっとそこに立っていた。
ときどき弱々しい月明かりを反射して光る黒い水を前にして、何か考え込むようにして佇んでいた。
その、身長30センチほどの、オカッパ頭に和服姿のシルエットは彼の目に焼きついた。そして身じろぎもせずにこう言った。
まず、行き止まりに行ってみることでしょうね。
行き止まりに辿り着けば、こっち側から脱皮できるか。そうなんだろうか。
気が付くと、いつの間にか女が彼との間の距離をせばめ、擦り寄って来ていた。腕を彼の肩にまわして来たので、二人して肩組み仲良く小女を眺める恰好になった。
女には体温というものが感じられなかった。いや温度どのものがないという感じだった。量感はあったのだけれど、温度がない。不思議な感じ。幽霊の肌触りがあるとしたら、こんなものだろうかと思った。
不意に明日からの生活のことが頭に浮かんだ。
明日も会社に出勤しなければならない。明日もあさっても、その次も。これからずっと。
せっかくこの場の不思議な空気にまどろみ始めていたのに、厚い布でくるんだ大きな鋼鉄の球が、背中に鈍く重い音をたててぶつかってきたと感じた。
感情が軽く浮揚しそうになると、不意に無理矢理引き摺り降ろされてしまうこうした落ち込みを、彼は近頃、何度となく体験していた。
彼はこんな場合にも、何となく翔べない体質になっていた。暑苦しい悪寒に襲われた。会社員になる前も、こんな思いになることがしばしばだった。
小学校の頃、いや、幼稚園の頃から。年少組のチューリップ組にいた頃、自家中毒になって病院へ入院した。あとできくと、一週間くらいの入院だったそうだが、幼児の頃には時簡の感覚が備わっていない。
十年にも百年にも感じられた。あの時に、重くて鈍い落ち込み習性を身につけされたのだろう。ああ、いやんなっちゃう。思わず体温のない女をかき抱いた。
女はさっきからもうそこに居ないのではないかと思われた。でも、もうそれはどうでもよい。彼はこの暑苦しい鋼鉄球の呪縛を取り除きたかった。
「あの方が、僕の相手をしてくれるんじゃなかったんですか?」
女に声をかけて呪縛から開放されようとした。とにかく声を出すことだ。苦しくなったときは声を出すと息が抜けて楽になる。続けて声を出した。
「いくら払えばよいのでしょう」
ねえ、いくら?
返事が無いので、彼は立ち上がり、少しよろけながら、小女のいる水辺へと歩いて行った。
先ほどのカラオケスナックでの嘔吐感が幽かに甦ったような按配で、彼はふらついた。「いくら払えばいいんですか?」
小女の斜めすぐ後ろに立った。
そしたら小女は・・・
「あたしの世界はどこにあるんだろう?」
問いには答えず、逆に、こう尋ねてきた。悲しげなもの言い。彼は心の弦を弾かれた。
「あなたに暫くつきあって貰おう。あたしは捜したい。払いの話は、暫くおくことにしましょう」
と小女は言った。
少し涼しそうな、しかし生温かい風が、ふーっと吹いてきた。
小女が急に巨人になって、その股の間に挟まれてしまったという、そんな錯覚にとらわれた。




