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おねの章

第1章  おね


おねは、かしこまっていた。

こんな城の奥の間に来るのは嫁いでからは、久方ぶりだった。

秀吉殿に娶う前は、お市様付きの侍女として奉公にあがっていた事もあったが、お市様が浅井に嫁してからは登城する事さえなかった。

そんなおねに、突然城からの来訪があったのはつい先ごろの話だった。

聞くと、御台様からの使者だと言う。

おねに心当たりなどあろう筈もなかった。

御台様、美濃御前―――齋藤家にある時には帰蝶と言う名だったが―――とは、城に居た時でさえ数度しか顔を見かけた事はなかった。

人質同然の政略結婚。

講和の証としての輿入れ。

人々は口々に囁いたものだ。

御館様はどうやら、御台様のところにはお通いではないらしい。

それが証拠に、婚礼の儀のときにすらあのような野ざらしの格好で現れたではないか。

平手殿も、全く余計な事をしたものじゃ。あんな嫁御をもろうてくるとは。どうやら、寝所で懐に短刀を忍ばせておったらしい。

やれやれ、道理で御館様は生駒屋敷に入り浸りじゃ。

あれでは、どちらが御正室様か分からんのう。

口さがない人々の声を証明するかのように、美濃御前は次第に人前に姿を現さなくなり、代りに正室然と家臣や領民の前へ現れたのが生駒殿―――吉乃だった。

それと共に、御台所は人々の間から忘れられていき、美濃の攻略も終わり、信長の視線がもっと遠くへ向けられた頃には、美濃御前の消息は城下の者はおろか、家臣やその関係者にすら知られなくなっていた。

おねも秀吉の妻と言う立場から、織田家の家内の事には通じている方だったが、そのおねにさえ、美濃御前の行方は耳に入ってこなかった。

巷では、信長が美濃と手切れとなった時、信長に手打ちになったのだという見方がもっぱらだった。

その噂を裏付けるように、奥で三人の子を儲け、正室の如く振舞っていた生駒殿が御子達の成長を見届けることなく身罷ってからも、御正室様は現れることなく、その代わりに今では御鍋殿が奥向きの差配を一手に引き受けていた。

今では秀吉も城持ちとなり、城下を離れているので一層おねの周りには信長の身辺の話は入ってこなかった。

だから、おねの前に美濃御前からの使者と名乗るものが訪ねてきたとき、おねは最初何かの冗談かとさえ思ったのだった。


「そなたに逢うてみたかったのです。」

わざわざ出向いてもろうて済まぬ、とその人は微笑んだ。

平伏していた視線を上げておねはその意外さに少し吃驚した。

どんなにか、美濃御前は変わられてしまっているだろう。そう、おねは思っていた。それゆえに、美濃御前からの呼び出しは気が重かった。無理もない。夫に実家が滅亡させられ、正室としての座を追われ、城の奥、誰にも目に付かぬようにひっそりと暮らしている。そのうえ、近頃の御館様の常軌を逸したかとも思える奇行のいくつかには、おねでさえ心痛めていたのだ。

それなのに、今眼前にいる美濃御前は、いつの日かはるか昔にお市様のお部屋に上がっていたときに見かけたその時のまま、穏やかで、涼やかな瞳をしていた。

「殿が、そなたに文を送ったと聞きました。」

御台所の言葉に、おねはああ、と思い当たった。

秀吉は、女好きと皆にはやされ、若い頃からたびたび女には甘い顔をしがちだったが、実際のところは身持ちの固い男だった。おねは、秀吉を心から信用していたし、秀吉もこれまで他の女と、遊びであれ過ちを犯した事はなかった。

それが、岐阜を離れ城持ちになった頃から、秀吉はあちらの娘、こちらの遊びと際限なく手を出しつづけてはおねを悩ませていた。

最初のうちは、おねも城持ちになったのだからと、大目に見ざるを得なかった。これまでの、秀吉のそれこそ生死を賭けた大働きと、おねに対する誠実さを考えればこれしきの事で目くじらを立てるのは城主夫人としてはしたない様に思えた。

しかしながら、それも度をわきまえればこそ、である。そもそも、おねは市井の出である。側室を持つのは領主としては当たり前の時代だったが、普通の庶民は浮気はすれども、妻以外を囲う事など滅多になかった。そして、おねもまた足軽頭とはいえ、一夫一妻が支え合って乱世を生き抜く貧しい家庭に育っていた。だからこそ、もともと、秀吉の女遊びはおねにとって理解できるものではなかったのである。

とうとう、おねの堪忍袋が切れたのは、それでも秀吉の乱行が始まって2,3年も経った頃だったろうか。

子が出来た。女を城に迎え入れる。

ある日、秀吉からこう告げられたおねは蒼白になっておこりの様に震えたかと思うと秀吉を三間ほども突き飛ばしたと言う。

城の外で女をどれほど抱こうが、遊ぼうが、おねさえ目を瞑っていれば済む事だった。耳を塞いでしまえば煩わされることもない。

だが、城に女を入れるという事は、そしてその女が孕んでいるという事は、いずれその女が側室になりおねと立場を同等とするという事だ。御腹様としていずれおねを超えるという事だ。

それを堪えよと言われるのが、子の無いおねにとってどれほどの屈辱だったことか。

家臣や領民をも巻き込んで、離縁するの出家するのの大騒ぎとなった。

結局、秀吉の母のなかが間に入って二人の中をとりなし、とりあえず元の鞘に収まったのがつい先ごろの事である。

それでも、憤懣やる方ないおねはその後も親しい者――例えば前田利家殿の御内儀や、佐々成政の妻に事あるごとに秀吉の行状とそれに対する不満を口にしていた。それが、信長の耳にまで届くとはおねは思い付きもしなかったのだが。

思いがけず、信長からのおねに宛てた書状が届けられるにいたって、初めておねはこの騒動が御館様のもとまで聞こえていると気づいたのだった。

初め、信長の書状、それも己に宛ててと聞いておねは身体が震えた。

叱責に違いない。信長は家中の統制の乱れを最も嫌う。

それが、この失態、大騒ぎである。秀吉やおねの出自がいかに貧しく低かろうとも、それを理由に信長が今回の件を大目に見るとは思えなかった。

おねは、最悪の事態を考えながら書状を開いた。


その書き出しは随分と前に伺候した安土城落成の祝に対する礼状だった。

おねの土産の見立てについてひどく誉めそやしており、おねは背中がむず痒くなるほどだった。

本題はそれに続いて書いてあった。

少し解けた緊張が戻ってくる。

『そなたの見目も容姿も、いつぞや見た折より倍も美しくなっておる。

したが、藤吉郎めの奴めは連綿と不足を申し立ておって、言語道断、けしからん事である。

いづれを探し訪ねようとも、そなたほどの妻には2度とあのハゲねずみめは会えはすまい。

これより以後は、そなたも陽気に振るまい、いかにもご正室様然として重々しくあれ。

悋気などおこしてはならぬ。

ただし、妻女の役目として言うべき儀がある折は、申さぬなりに伝えようがあろう。

しかるべく妻として対処するが良い。

秀吉にはこの文を見せて意見を求めよ。

またまたかしこ  のぶ』

信長の書状の内容はざっとこんなものだった。

おねが覚悟していた物とは違い、おねに対して気遣いながら今回の騒動に対しておねの取るべき道を示すための手紙だった。

おねは、身体中から力が抜けるのを感じた。

暫くは呆けた様にその手紙を胸に抱きながら座っていた。

ふと我に返ったのは、侍女が灯かりを持って入ってきた時である。半刻ほども経っていた。

己と、秀吉の首の皮が繋がった安堵をしみじみと噛み締めながら、おねは信長の心遣いに心から感謝していた。

この手紙は秀吉には見せずにおこうと思った。

見せずとも、おねが信長の望むように振舞えばおのずと秀吉も信長の期待するように変わるだろう。

見せれば、おねは秀吉の風上に立てるだろうが、それはもとよりおねの望むところではない。

恐らく、最後の一文は信長がおねへの問いであろう。おねが信長の真意を本当に汲んでいるかを知るための。

そして、その問いにおねは見事に応えたのだった。


おねは美濃御前に信長の書状の仔細を語った。

「ほんに、殿方というのはずるうて。しようのないものですね。」

そなたにそんな事を書いて送れば、もう二度と秀吉殿におなごの事で眉を逆立てる事ができなくなるでしょうに、と御台所は笑った。

「表向きはそなたを持ち上げて立てておいて、そのくせ、実際のところは男同士で庇いおうておられるのですから。殿にも困ったものです。」

されど、と美濃御前は続けた。

殿のお気持ちが分かるような気がするのです。きっと、秀吉殿にかつての御自分を重ねて見ておられるのでしょう。

だから、つい秀吉殿に肩入れしたくなるのでしょうね、と美濃御前はにこりとおねを見つめた。

そう言えば、信長も美濃御前が輿入れして暫くは側室も置かず子もながらく作らなかった。

今ではニ十数人の子福者であるが、それは美濃御前の実父である齋藤道三が信長に国譲り状を託して嫡男義龍との戦いに敗れて亡くなってからの事である。

その事に思い至っておねは美濃御前の言葉に肯いた。

「恐れ多い事ではございますが、なるほど、秀吉の振る舞いには御館様に似たところがございますなあ。察するに、秀吉は敬愛する御館様にお近づきに成りたい一心で、日頃から御館様の真似事をしておるのでしょう。本人は気づいておらぬのかも知れませぬが・・・」

「そうではない。」

面白がるように、御台所はおねの言葉を否定した。

「似ているのは、殿と猿ではない。そなたとわらはが似ているのですよ。」

おねは、美濃御前の言葉が呑みこめないように瞬きを二度、三度とした。

「あの・・・わたくしと、御台所様がですか?」

そう、と美濃御前は頷く。

滅相も無い、慌てておねは首を振った。一介の足軽から身を起こしようやく城持ちになった男の妻と、生まれながらに一城の主だった信長の妻。その生まれも足軽頭の養女と、美濃一国を奪い取った男の正室腹の姫。違いすぎるほどの違いがあろうとも、似ているところなどあろう筈も無い。

「そなたには子がありませんね。」

妾にも子ができませんでした、と美濃御前は言った。

確かに、おねにも美濃御前にも子供はない。だからといって、巷間にはそれこそ無数に子の無い女はいるだろう。それを以って、おねと美濃御前が似ているとするのは些か乱暴に過ぎないか。

そんな、おねの気持ちを汲んだのか、美濃御前は言葉を続けた。

「そして、これは・・・妾がただ勝手に思い込んでいるだけなのかも知れませぬが・・・おね、そなたもしかして、薬師にもはや子は望めぬと言われたのではないかえ?」

これには、おねが驚いた。

確かに、おねはかつて薬師――ではなく産婆だったが――にもう、子を授かるのは無理だろうと言われていた。


それは、まだおねが秀吉、いやその頃はまだ藤吉郎だったが、に嫁いで二、三年経った頃だろうか。

待ちわびた子がようやく授かった。すぐにでも出来ると思っていたものが、数年も待たされた後だと喜びもひとしおだった。秀吉など、産み月はまだ遥かに先だというのに舞い上がってしまって、やれむつきを用意しろだの、赤ん坊の寝床はどれにするだの、おぶい紐を貰ってくるだのと言っておねをてんてこ舞いさせていた。

お前様、そんなに慌てなくてもお腹のややは逃げては行きませぬよ。

そんな事を言って、笑っていた日が懐かしい。本当にあの時はそう思っていたのだ。この幸せが無くなる筈はないと。

そのうち、齋藤との戦が始まった。

秀吉は後ろ髪を引かれる想いで戦場へと出掛けて行った。おねも一日千秋の想いで戦の終結を待っていた。

吉報は結局訪れなかった。その戦は負け戦となった。敗戦の報が届いても、なかなか秀吉は戻ってこなかった。

それが、心労となったのだろうか。それとも、それまでの貧しさの中の厳しい暮らしが仇となったのだろうか。

ようやく待ちわびた秀吉が帰ってきたその日、おねは倒れた。みるみる、おねの足元に血溜りが出来ていくのを見た秀吉の顔が蒼ざめた。慌てふためいた秀吉が、腕を引き千切らんばかりに引っ張って連れてきた産婆は、おねを見るなり秀吉に向かって怒鳴った。

もはや、子はあきらめなならん。こりゃ、かか様の方も危ないで。何を突っ立っとる、ぼやぼやせんと、手伝わんか。

切れ切れの意識の中でおねはその言葉を聞いていた。腹の中の赤ん坊が助かるなら、自分の命などどうでもいい。あんなに、藤吉郎が喜んでいたものを、むざむざ取り上げてしまわないで欲しい。猿に似た顔をますますくしゃくしゃにして、笑いかけてきたお前様。お前様のその笑顔が消えるのを、見たくはない・・・

脳裏に秀吉が赤ん坊を抱いている姿をチラと見た気がして、おねは意識を失った。

次におねが目を覚ましたとき、そばに秀吉はいなかった。

産婆が秀吉に怒鳴った時とは別人のような優しい顔でおねを覗きこんでいた。

おねは、産婆に気づかれぬように己の腹をそっと触った。薄がけの衣のその下の腹は、つい先ほどまでの丸みが嘘のようにぺったりとして柔らかかった。

「おねさ、気分はどうだ?具合のわりぃところはねえか?」

コクリと、おねは頷いた。

「よくまあ、助かった。今回はまあ、命があっただけめっけもんだ。お天道様に感謝せねばな。」

赤ん坊が流れたという実感がまだおねにはなかった。産婆の少し困ったような曖昧な笑みが余計に現実感を失わせる。

産婆は少し躊躇するように言葉を継いだ。

「・・・お前様には、辛い事をいわねばならん。」

産婆はその皺くちゃな手でおねの手を握り締めた。

その時、戸口の外でカタ、と人の気配がした。しかし、誰も入ってくる様子はない。

おねは、産婆の様子におびえたように辺りを見まわした。秀吉の姿は、どこにもなかった。

「なにも、今言わんでもと思うだろうが、いつかは分かる事だしの。」

産婆の指が、優しくおねの指をさする。

「おねさ、これから先もな、子はな、あきらめんといかん。」

産婆の言っている意味が掴めず、おねは呆けた様に産婆を見つめ返した。

実感はないが、腹の子が亡くなった事は頭で理解していた。この子を諦めなければならないことは、心のどこかで冷静に受け止めていた。けれど、これから先もとはどういうことなのか。

「お前様はの、子の出来ぬ身体になったっちゅうことじゃ。この先、未来永劫な、子を持つ事は叶わんのだわ。」

産婆の言葉が冷たい楔のようにおねの心に打ち込まれた。

おねは、何も言わなかった。ただ、身を固くして天井を見つめた。涙すら、出なかった。息をする事さえ、忘れていた。

「うおおおおおおおおおおおお!!!!」

突然、獣のような雄叫びが外で上がった。秀吉の声だった。慟哭だった。

私の代りに、秀吉が泣いてくれている。

おねの、左眼から知らず、一筋の涙が零れ出た。

その間も、秀吉は叫び続けた。まるで、この世の全てが終わったように。まるで、この世の全てを呪うように。


「妾も同じなのです。」

美濃御前の言葉が、おねの回想を破った。おねは改めて視線を上げた。

「妾も、石女なのですよ。」

意外な言葉におねは驚いた。美濃御前に子がないのは、信長との不仲が原因だとずっと思っていた。巷でもずっとそう信じられていたし、実際、おねが秀吉などから聞いた話でも信長と美濃御前の仲がうまくいっているとは到底思えない。石女であるかどうか以前の問題で、褥を共にしなければ石女であるかどうかを問われる必要もない。だからこそ、今御台所が自分の口から石女という言葉をわざわざ出したことにおねは驚いたのだった。

「妾が殿に嫁ぐ前、ある男のやや子を流したことがあったのです。」

何でもない事のように美濃御前が出した言葉に、再びおねは仰天する。信長に輿入れする前に美濃御前が身篭っていたという事実。たとえ、その子がこの世に生まれ出でなかったにしろ、そのような事実を信長が知ったとしたらどうなるだろう。おねが知った以外に、この事実を知っているものがいるのだろうか。信長の正室だった女のとんでもない告白に、おねは身が震えた。

「その時の薬師に、もはや子は二度と望めぬと告げられたのです。」

だから、その時はもう誰にも嫁ぐことは無いと心に決めていたのだ、と美濃御前はおねの驚愕を余所に笑った。

「婚儀の申し出に来られた平手殿には何度もその事実を申し上げてお断りしたのです。」

けれど、と美濃御前は続ける。

「平手殿がどうしても、とおっしゃられてのう・・・だから、その旨を殿にお伝えして、殿がそれでもよければという事でお返事申し上げたのじゃ。」

その頃の織田家は美濃との戦に倦んでいた。どうしても、美濃との和睦を取り付けたかった信長の父、織田信秀と、信長の傳役だった平手政秀が多少の事と目を瞑って、美濃の姫との婚儀の話をすすめたのだろう。とりあえず形だけでも夫婦めおととして整っていれば和議はなる。

おねは、ほっと息を吐いた。そういう事情であれば、恐らく信長の怒りを怖れずとも、もうすでに信長はこの事実を知っているのだろう。

「そうしたら、殿の遣した文がのう・・・」

見目形が女であればとりあえず構わぬ。

その一文だけをしたためた、素っ気ないものだったという。

おねが考えた通り和睦の為だけの政略結婚という受け止め方を信長もしていたのだろう。もちろん、婚儀を受け入れた美濃御前も同じ事だ。

ならば、信長と美濃御前の仲が冷えていたとしても何ら不思議なことではない。

最初からそういう事情を抱えて嫁いできたのならば、むしろ当然のことといえた。

だが、ふとそこでおねは疑問に思う。そもそもの話は信長と秀吉の女遊びが似ているという話だった。そして、それはおねと美濃御前が似ているからだと、そう告げられた筈だった。確かに、石女という事実は二人ともに共通してはいるが、それが秀吉が女を囲う理由のどこに繋がるのか。おねには理解できなかった。

そもそも、美濃御前とおねとでは、夫婦のあり方が違いすぎる。国同士の和の為の政略としての夫婦めおとと、純粋に惚れた腫れたで結ばれた一対。

「その後のことは、そなたに申しても意味の無いこと故、申さずにおきましょう。さて、ここからが本題じゃ。」

「殿が妾の他に、女子を城に入れ始めたのがいつか、そなた存じておろう?」

「はい。」

美濃の道三様が、お亡くなりになられた後でございましょう、とおねは答えた。

「やはり、義理の親父様に遠慮なされておられたのが、重石が取れたのでしょう。のびのびと、羽根を伸ばされたのでございましょうなあ。」

ふふふ、と美濃御前は微かに笑った。その艶やかさにおねは見惚れるほどだった。

「違う、違う、そうではない。」

そう言った後で、美濃御前は、まあ何も事情を知らねばそう思う以外にはなかろうが、と呟いた。

「妾は父を失った。そして、母も、母を同じゅうする弟達も攻め滅ぼされた。血を分けた兄が美濃の国主となったとはいえ、妾は妾の帰るべき国を失ったのじゃ。美濃の道三が死んだということは、そういう事じゃ。」

「そして、妾が帰る国を失くした時、殿は女子を手当たり次第に求め始めたのです。そして、子を次々と産ませ、」

御台所はそこで、少し言葉を切った。その睫毛が少し悲しみを思い出したように震えたのをおねは見たような気がした。

「妾にその子らを預けたのです。・・・・・・・尾張が妾の帰るべき国になるように。」

戦国の武士の家の達の中でおねのように自らの意思で好きな男に嫁ぐのは、極めて珍しいことといえた。特に、領主や実力者の娘達は己の実家の命運を賭けて、一人婚家に戦を挑むために嫁いでいく。時に実家のための間者となり、時に実家を守るため和睦を取り結ぶため奔走する。何もかも第一は実家のためである。何故ならば、彼女達はそれ相応に実家への発言権があり、場合によっては領地を受け継ぐ権利さえ有していたからである。

だから、嫁いだ当初は、もちろん男の側も女が実家大事で動くのは最初から織り込み済みの話であって、狸と狐の化かし合いのようにお互いの腹の内を手探りで見極めながら夫婦の形を少しずつ整えていくのは当然のことであった。

そんな女がやがて自分の夫を守り立てて、夫の家のおかかさまとなって重きを成し、婚家第一と変容するのは何故か。

もちろん、それは子が生まれた故である。

子が生まれればその子が婚家を継ぎ、やがて御領主様となる。そうなれば、母である自分はご生母さま、おおかか様となるのだ。それは、当初の目的であった実家をも守ることとも繋がり、己は実家と婚家、両方の家において絶大な権力を手にすることとなる。

その日のためには、子に婚家を引き渡さねばならない。それ故、女は子が生まれると、婚家第一にその家を守るため全力を尽くすのだ。

そして、それはいつの間にか、女を完全に婚家の人間に変える。戦うために嫁いできたはずの戦場が、時とともに骨を埋める為の帰る場所となる。

「されど、」

子の無い妾たちには、嫁いだ家は永遠に帰る場所とはなりえぬであろう?

そう、美濃御前はおねに問いかけた。

でも、おねと秀吉は好きおうて結ばれた仲だ。眼前の御台所と信長の縁とはそもそもの始まりが違う。そんなふうに、おねは反論しようとした。

そんなおねを、美濃御前はゆっくりと左手で制した。


「知っておりますよ。そなたと猿がそなたの親の反対を押し切って、自分達の思いを貫き添い遂げたことを。」

だから、政略として織田家に嫁いできた妾とは違うといいたいのであろう、と御台所は笑った。

「したが、もはや猿は一国一城の主じゃ。足軽長屋で暮らしていた頃とは違うのじゃ。国を治め国を支配する、それはわが殿と何の相違もあるまい。」

そしての、と美濃御前は続けた。

「そなたは、帰る家を失くしておるであろう。そなたの生家の父母はそなたが無理やり猿に嫁いだことで縁を切ったと聞いた。その後、養い親となった浅野の家も、今では義理の弟が家督を継いだのであろう?」

おねは、唇を噛んだ。

御台所の言うとおりであった。今、秀吉に何かあったとしても、そして、此度の大騒ぎでおねが喚いた様に万が一離縁などと云う事になったとしても、実際のところはおねに帰る場所はない。つまり、おねが本気で秀吉の下を去るなどということが出来ない事を、一番よくわかっているのはおねなのであった。もちろん、それを秀吉も信長も知っている。だからこそ、今回の騒動を丸く治めてくれたのだ。そして、今、もう一度美濃御前にその事実を突きつけられたのであった。

「それは、そなたの帰る家が、とりもなおさず、秀吉殿の居るあの城じゃと言う事じゃ。縁の切れた親や縁者のいる尾張より、秀吉殿の治める近江がそなたの帰るべき国になったのじゃ。」

の?そなたと妾で、何の違いがあるというのじゃ?

そう言うと、美濃御前はもう一度ほ、ほ、と微笑った。

「妾も父を討たれ、縁者もことごとく殺され、生国を失い、帰る国を失くしました。今、頼るべきは殿しか居りませぬ。殿の治めるこの領内が妾の帰る国なのです。」

今では、もうとっくの昔失った美濃の領土も殿が納める地となりましたが。

御台所はそう付け加えた。

その一言で、ふと、おねは信長が領土を広げるために諸国と戦を交えていることが、天下布武などの為ではなく、濃姫に失った生国を返すためではなかったかと言う錯覚を覚えた。

「秀吉も、浅野の家の家督を弟御が継いだあと、勤めにさらに励むようになったと、聞き及びます・・・殿も、秀吉も・・・妾たちに還る場所を与えるために領国を増やすことに血道をあげておられるのかも知れぬ。」

おねが覚えた錯覚と同じ様な感覚を美濃御前も持っていたらしい。おねの心の内をそのまま言葉にした様な科白を濃姫は口にした。

妾たちが似ているから、殿と猿も似て来るのですね、と御台所はおねにまるで長年の友人に語りかけるように言った。境遇が似ていることで親しみを感じたのであろうか。

だが、おねはこの話の流れに何か違和感を覚えた。

おねの為に、秀吉が国を得ようとしているのは理解できる。己の為に家をも捨てた妻に、それ以上のものを与えようとしていることは。

だが、信長はどうなのであろう。

確かに、濃姫は国を失った。それは濃姫の兄が道三の跡を継ぎ、再び尾張と対立関係に入った為である。

もちろんそれは、信長が美濃を狙ったという側面もあろうが、義龍が尾張と和睦した道三を討つという暴挙を犯した故であって、信長だけの非ではない。

それ故、信長が濃姫に対して申し訳なく思い、帰る国を取り戻そうとする理由など本来ならばないはずなのだ。逆に、敵国となった美濃の姫として疎ましく追い出そうとすることがあったとしても。

いや、尾張の人間なら誰しも、もちろん、おねも今の今まで、信長は濃姫のことを疎んじていると信じていた。それが当然なのだ。敵国から和睦の証に政略で嫁いできた、石女の姫。その和睦が破れた時、その女には何の価値も無くなる。

その女の為に、信長が何をしてやる義務があるというのだろう。

信長が濃姫の為に何かするとすれば、それは・・・

知らず思考の淵に沈みこんだおねを引き上げるかのように美濃御前は言葉を掛けた。


「だからの、おね。秀吉殿はこれから先もおなごに手を出し続けますよ、そなたの為に。」

そなたが安心して秀吉殿の元にずっと居られる様に。

そなたがおかか様として揺るぎ無い地位を築くまで何人でも、何度でも。

誰にも、そなたが秀吉殿の隣に居る事に口を挟めぬように。

そして、もし、秀吉殿が戦場で亡くなっても羽柴の家からそなたが出て行かずに済むように。

そなたと、秀吉殿の子を作るために。

多くの女を泣かせるでしょう。

そなたの為に。

「それを、悲しんではなりませぬよ。おね。」

全ては、そなたへの思い故なのですから。

それが、どんなに非道でも、どんなに辛かろうとも。

そなただけは、秀吉殿を責めてはなりませぬ。この世の誰が解ってあげられなくとも、そなただけは。

御台所の言葉はまるで自分自身に言い聞かせているかのように聞こえた。

と、いうことは。

おねは先ほど自らの胸に去来した思いを再び思い出す。

「あ、あの、御台様・・・。もしかして、上様は・・・。」

だが、おねは自分の考えを口にすることは出来なかった。

御台所を、信長を恐れていた故ではない。口にすることで、濃姫と信長がこれまでずっと守ってきた何かが壊れそうな気がしたからだった。誰からも理解されず、孤独な闇の中でただ二人守ってきた何か。それは、御台所の言葉が真実だとすれば、これから先おねと秀吉も守っていかねばならなくなる何かの筈だった。

「そして、いずれ。」

濃姫はおねを見据えた。優しい眼差しではあったが、真っ直ぐにおねを見たその目は、それまでの思いやりに満ちたものではなく、まるで戦場いくさばで好敵手にまみえた武士もののふのようだった。

「猿は、天下を取りに行くでしょう。」

おねは息を呑む。

「・・・。そんな、滅相もない・・・」

「いいえ。」

濃姫は、おねからふと視線をはずして遠くを見た。

「いずれ、どんな手を使ってでも、秀吉は天下を狙う。たとえ、それが殿を、織田家を、裏切ることになろうとも・・・」

そして、もう一度おねを見つめてにっこりと笑った。

「それが、愛する女子おなごに子が出来ぬ男の、夢見る最後の地なのですよ。」

「・・・・・・。」

おねには言葉がなかった。

「どんなに、領地を広げようとも、いずこかから攻められ、滅ぼされれば、全ては無となります。子の無い女に与えた故郷も、霧散することになるのです。そうならぬ為には、全てを、この国の全てを、手にするより他に道はありますまい。・・・天下を我が手に治めること、そのことこそが愛する女を守る道の行き着く果てなのです。」

シュッと衣擦れの音がして、美濃御前はおねの前へ下りて来た。

かしこまって額を床に押し付けたおねの手を、濃姫は膝をついて取った。

「だからの、おね。秀吉は天下を取りますよ。そなたには辛い事でしょうが。・・・そして、わらは達はかたき同士となりましょうね。」

もう、おねは返事をすることが出来なかった。

美濃御前の言葉は、おいそれと信じられるものではなかった。すぐに肯えるような内容でもなかった。

だが、その言葉は、実際にそういう人生を先に歩んできた女の言葉としておねの心の芯に熱く刺さるものがあった。

「だから、そなたに会うておきたかったのです。そなたと猿が修羅の道に踏み込む前に。そなたが、腹を括れる様に。そなたがひどく、傷つく前に。・・・・・わらはを超えて、日ノ本一のおかか様となってくりゃれ。」

美濃御前の最後の一言に、おねは首を振った。まるでそれでは、信長が秀吉に敗れるが如く聞こえるではないか。

わらはの殿は、きっと途半ばにして燃え尽きましょう。己が身も、わらはも、城も、国土も、何もかもを焼き尽くして。目指すものに、真っ直ぐなお方ですから。」

少し、濃姫の言葉が誇らしげに聞こえたのはおねの聞き違えだったろうか。

信長が目指すものとはつまり、濃姫なのだと、そう言っている様にも思えた。



美濃御前の部屋を辞したとき、もうすでに陽は山の端に傾いていた。

つい先刻まで吸っていた部屋の空気を追い出すかのように、おねは深く息をいた。

まるで、美濃御前に何か幻か、妖しでも見せられたような心持だった。

美濃御前の部屋から己の身に纏わりついてきた何かを振り落としたくて、少し小走りになるとおねは城の門をくぐった。それから、ふと振り返る。

最後に一つ、おねは濃姫に尋ねた。

嫁ぐ前に、濃姫は身篭ったと言った。

それは、誰の子だったのか。

濃姫は、その人こそを慕っていたのではないのか。

それなのに、信長の身勝手な愛に縛られてこの織田の家に奥深く閉じ込められている。その事に恐らくひどく心傷つきながらなお、その事を淡々と受け入れている、いやむしろ哀しみつつも悦んでいる濃姫が不思議でならなかったのだ。

「さあ・・・・?」

そのおねの問いに、美濃御前ははぐらかす様に首を傾けた。

「どこぞの、大たわけだったのかもしれませんよ?」

その時の、鮮やかに美しい濃姫の微笑が振り返ったおねの前に甦って来る。

それと同時に見上げた天守閣の豪壮さが、夕闇に黒々と浮かんでおねは押しつぶされそうな錯覚を覚えた。

思わず、頭を二,三度振る。

私は違う。

強く心に思う。

たとえ、信長の真実が美濃御前の言ったとおりだとしても、おねと秀吉は違う。

その思いは、強いが故に、もはや願いに近かった。

きっと、秀吉はおねを傷つけない。

そして、誰を傷つけることを望まない。

上様のように、残酷でも冷たくもない人だもの。

あれは、雲の上の人たちの話。政略で婚儀を結ぶような、覇権の為に家族をも裏切るような。

私達は、違う。

あれは、私達には関係ない話。

私達はただの、足軽の夫婦だった。足軽の夫婦でいたほうが良かった。

おねは、知らず唇を噛み締めると、そんな事を思わせた美濃御前を少し恨めしく思った。

それからおねは、美濃御前の話を忘れるように頷くと後はもう振り返らなかった。

そして、秀吉の待つ近江の地へ続く道を帰るため、一歩踏み出した。

その一歩がもはやすでに、美濃御前と同じ道に踏み出した一歩だとは、おねは−−−後の北の政所はまだ知らない。



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