去年は運
あと一枚。
ユース・クラウン・サーキット開幕節。胸元の護印を三枚とも失えば負ける一対一で、相手に残っているのはその一枚だけだった。
リゼ・オルディアは踏み込まない。
観客席のざわめきが一段大きくなる。ここまでの彼女は、相手が下がれば詰め、迷えばさらに詰め、守れば守りごと叩き割ってきた。
だから最後も来る。
対戦相手の目が、そう決めていた。
「――っ」
先に耐えられなくなったのは向こうだった。防壁を前へ押し出した、その縁がわずかに浮く。
リゼは笑った。
「遅い」
床を蹴る。右手に集めていた光を捨て、左から短い衝撃を滑り込ませた。
防壁の内側で、最後の護印が砕ける。
一拍遅れて鐘が鳴り、競技場の空気が歓声に変わった。
『勝者――リゼ・オルディア!』
リゼは片手を上げる。
こういうのは、ちゃんと浴びるに限る。
まだ一勝。各地の公式戦で順位を積み、上位に残り、最後の決勝トーナメントまで勝ち抜かなければ王冠には届かない。
それでも、今季最初の一勝は自分のものだ。なら今の拍手まで遠慮する理由はない。
控え通路へ入ったところで、その気分に水を差す声がした。
「最後、半拍遅らせたね」
壁にもたれていたカイ・フェレスが、腕を組んでいる。
「……何でそこ見てるの」
「見えたから」
「偵察にしても細かすぎるでしょ」
カイは通路へ出て、リゼの横を通り過ぎた。
「君がまた僕の前まで来るなら、見ておく価値はある」
「来るなら、じゃない。来るの」
「そう」
数歩先で止まり、振り返る。
「じゃあ次は、右に溜めた光を本当に右から撃つ練習もした方がいい」
「引っかかったくせに」
「二年前はね」
「一回引っかかれば十分でしょ」
「去年は引っかからなかった」
その言い方で、リゼの眉が上がる。
「去年のあれを数えるんだ」
カイの目がわずかに細くなった。
効いた。
この話だけは、いつも効く。
「数えるよ。王冠は僕の部屋にある」
「照明が落ちた瞬間に私が踏み込んでなかったら?」
「踏み込んだのは君だ」
「見えなくなったのは運」
「暗くなっても止まれなかったのは君」
「はい出た。去年は運」
「はい出た、負けた側の便利な言葉」
昨季の最終戦。決着の直前、競技場の照明が一瞬だけ落ちた。
その直前に攻撃へ入っていたリゼは、暗闇の中で踏み込みを止められなかった。光が戻ったとき、待っていたカイに最後の護印を取られていた。
照明が落ちなければ。
そう言うたび、カイは同じ顔をする。
落ちても突っ込んだのは君だ、と。
「今年で決着だからね」
二年前はリゼ。去年はカイ。一勝一敗。そして二人とも、今年でユース部門を卒業する。
「二勝一敗」
カイが言った。
「私がね」
「僕が」
「去年みたいなの抜きで?」
「今年も負けたときの言い訳、もう考えてる?」
リゼは拳を持ち上げた。
「殴るよ」
カイは一歩だけ下がる。
「競技場でどうぞ」
言い返す前に、通路の向こうから係員が走ってきた。
「オルディア選手、フェレス選手! 歴代王冠保持者の年次記録、まだでしたよね。競技者印の読み取りだけお願いします!」
二人は同時に嫌そうな顔をした。
「一緒に?」
「僕もそれを聞こうと思った」
「読み取り板が二枚あるので、すぐ終わります!」
「この人から先にやって」
「君からどうぞ」
係員は二人を見比べ、何も言わずに歩き出した。
中央棟の検査室には、机と透明な読み取り板が二枚あるだけだった。手首の競技者印を重ねれば、歴代王冠保持者として今年の印相が記録されるらしい。
「では、同時にお願いします」
「何で同時」
「機材が二枚あるからです」
あまりにまともな答えだった。
リゼは右手を置く。隣でカイも同じようにした。
透明板の下を淡い光が走る。
外で大きな音がした。
「え?」
窓の向こうを式典用の飾り布が横切る。次いで金属音。外れた飾り柱が外壁の導線へ倒れ込み、白い火花が窓いっぱいに散った。
「手を離して!」
係員が叫ぶ。
リゼは反射的に腕を引いた。手首が遅れて熱を持つ。
青白かった競技者印の縁に、見覚えのない金色の線が一本走っていた。
「……何これ」
隣を見る。
カイにも同じ線がある。
「僕に聞かないで」
「知ってそうな顔してる」
「君より落ち着いてるだけ」
係員は青ざめたまま端末を叩いていた。
「すみません。二枚を同時に読んでいたところへ、外部線から割り込みが入ったみたいで……」
「切ればいいでしょ」
「たぶん、普通の接続なら」
その言い方が一番嫌だった。
しばらくして呼ばれてきた年配の競技術師に、二人は何度も手首を光へ透かされた。カイは黙っている。リゼは三分で飽きた。
「で?」
「外から来る偶然だけが、二人の間で同じ向きに偏る状態です」
「分かるように言って」
「片方に不運が起きれば、もう片方にも別の不運が起こりやすくなる。幸運も同じです」
カイが眉を寄せる。
「試合の勝敗まで?」
「いいえ。公式競技中は競技場側が外部偶然の連動を遮断します。技量も得点も別です」
「じゃあ、普段だけ最悪ってこと?」
「簡単に言えば」
立ち上がろうとした拍子に、胸の勝者章が外れた。
「あ」
金属章は床を転がり、棚の下の細い隙間へ吸い込まれていく。
カイが口元を押さえた。
「笑った?」
「まだ」
その直後、扉から入ってきた係員の腕がカイの紙杯に当たった。中身が白い上着へ派手に飛ぶ。
「……」
今度はリゼが笑った。
「笑ったね」
「もう笑った」
二人の手首で、金色の線が同時に一度だけ光る。
年配の術師がため息をついた。
「今すぐ確実に切る方法は、一つあります。どちらか一人が今季を正式に棄権して、競技者印を登録から外すことです」
「しない」
「しません」
ほぼ同時だった。
術師が目を丸くする。
「……まだ説明の途中ですが」
「聞く必要ある?」
リゼがカイを見る。カイもこちらを見ていた。
「先に降りたいなら、どうぞ」
「君こそ」
「死んでも嫌」
「なら話が早い」
よりによって、こいつと運が繋がる。
それは最悪だ。
けれど、ここで降りて最後の一勝を相手に渡す方が、もっと嫌だった。
カイが濡れた袖をつまむ。
「これで今年も、負けたら運のせいにできるね」
「しない」
返事が早すぎて、カイがこちらを見る。
「去年はあれだけ言ってたのに?」
「去年は去年」
リゼは棚の下へ消えた勝者章を一度見た。
「今年は、運が何しても最後にあんたを負かす。そこまで運のせいにはしない」
カイは一秒だけ黙り、それから少し笑った。
「それなら安心した」
「何が?」
「僕も、君が運で落ちて終わるのは御免だ」
リゼは眉をひそめる。
「……真似しないで」
「先に言われただけだよ」




