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ライネリオ視点です
彼の挨拶は空気を震わせただけ。
理解しているとはいえ、心のどこかでまだ小さな希望に縋っている。
そう自覚すると、ライネリオは深いため息を吐くしかできなかった。
雪のように不健康に白くなった肌と、それに包まれた骨が浮き彫りにされて見える。
あの桃色に染まった頬と唇も跡形も残さず、薄い色しか残されなかった。
亜麻色の睫毛に縁どられた瞼は、この二年間空色の瞳を隠しているままだ。
アコニタが丁寧に手入れをしたため、その長い亜麻色の髪だけが、昔の面影を残した。
「今日はどうだったか?」
「変わりはありません。ですが、前に比較するととても安定はしています」
「そうか」
変わりはない。
その報告はライネリオの心を二分にした。
まだ機会を逃さなかったことへの安堵。
そして、彼女の本音を知っているからこその葛藤。
そんな気持ちを抱きながら、ライネリオは眠っている彼女を見つめる。
あの日の出来事は、今でも鮮明に彼の記憶に刻まれている。
自分の腕の中の、血まみれの唇で満足しているかのように微笑んだ。
それもよりによって、彼の知っている「彼女」の優しい笑みだった。
己の頬に触れる彼女の手から力が抜けた瞬間、ライネリオは絶望した。
幾度も名前を呼んでも、彼女の瞳は閉ざされたままだ。
まるで、目覚めることを拒むかのように、だ。
その後はもう、天手古舞だった。
アコニタが呼んだ年配の医師の指示に従い、彼女を別室に移動させた後、アコニタと共に外に追い払われた。
代わりに血相を変えたハロルドが部屋に入り、以降、二人は長時間外で待たされた。
親の時も然り、奴隷の時も然り。
ライネリオは死を何回も目撃し、何回も別れを体験し、何回もそれを己の手でもたらしたはず。
なのに、あの時、彼の手は無様なほどに震えていた。
彼女の選択を受け入れるはずなのに。
例え過程が違えど、「死」こそは彼女が望んだ結果なのだ。
そう実感すると、今己が感じている動揺は彼女の選択を否定する証であると気付いた。
『ライネリオ様、実は先ほどの部屋に、セレス様がこれを……』
隣にいるアコニタが突然、ライネリオに真っ白な封筒を差し出した。
頭の回らなかった彼はそれを素直に受け取り、深く考えずそれを開けた。
その内容は、彼に追い打ちをかけたものだった。
それは、ハロルドへの手紙、いや、遺言書だった。
中身は彼女の病気、遺体の処分とハロルドへの感謝が綺麗な筆跡で綴られていた。
そう、その感謝の中に、信じられない一文が、真実が示された。
『ライネリオ様を、私の我が儘を叶えてくださって、本当にありがとうございます』
この時まで、ライネリオにはハロルドに対して拭えない違和感を抱いた。
ハロルドは、優しい男だ。
しかし、決して全員を救いたいという聖人君主ではない。
見捨てる時は見捨てられる、そんな判断のできる主導者だ。
あの時、彼にライネリオを救う利点なんて存在しないはずだ。
紫の瞳を見ると、彼の親のどちらかが隣国出身であることが明確なのは尚更のことだ。
その理由は、この手紙に明示されていた。
残酷な事実を飲み込めないまま、急に目の前の部屋から結界が張られた。
そのままハロルドは真顔で部屋から出て、早足で歩き出した。
ライネリオとアコニタは主君を追いかけながら王女の様子を伺えば、彼はポツポツと簡潔に説明をした。
彼女はかろうじて生きていること。
清潔な環境から汚染されている都会へ移動したせいで身体が拒絶反応を起こし、吐血をしたのではないかと。
今から秘密裏で彼女を休ませるための部屋を用意し、容体が安定した後、田舎などに移動させる予定であると。
そこでアコニタはハロルドに行き先をアベイユを提案した。
彼女が掲げた理由は二つ。
ギズラー辺境伯の領地であることと、薬師であるエマがいるからである。
その提案はライネリオが首を傾げるほど恐ろしく着々と進んだ。
そして、それが今に至る。
(前から一般人ではないとは思ったが、アコニタの正体はなんだろう)
久々に振り返ったせいか、ライネリオは隣に立っているアコニタを意識する。
訓練された動きの隙間から感じとったそれは、間違いなく人を殺すためのものである。
それを隠そうとしていることは、潜入任務が真っ先に頭に浮かんだ。
(彼女の側にいる人たちの選定は、ハロルド様が行ったんだ。だから、被害を与えるなどはないのだが)
しかし、もしそうだとしたら、彼女の飼い主は誰なのか。
過去にアベイユにいる時、夜中に時折姿を消したこと、すぐアベイユを候補地として提案したこと。
今までの彼女の言動や動きを辿ると、その正体は薄々気づいていたが。
「ライネリオ様、いかがなさいましたか?」
「いや、なんでもない」
視線を再び眠っている彼女に移す。
部屋も服装も彼女本人も、彼女の周りの清潔が保たれている。
それらは全てアコニタが一人でやったと、エマから聞いた。
それはもう充分、明確な答えであるとライネリオは思った。
だから、アコニタ自身から話さない限り、彼も何も聞かないと決めた。
それが、己よりも彼女に尽くしてくれたアコニタにできる、最上の礼儀である。
「ありがとう、アコニタ」
「私はやりたいことをやっただけです」
「それでも、だ」
アコニタは目を閉じ、それ以上何も言わない。
ライネリオも、それ以上言う必要がないと思い、口を閉ざす。
そうすると、いつの間にか外が一段と暗くなった。
これ以上長居すると教会に迷惑をかけることになるため、ライネリオは椅子から立ち上がった。
その時、部屋に入った時に見落としたものが視線の端に入った。
「あれは、ラベンダー?」
「ええ、今日ミリアム様からいただきました。初めて一からご自分で育てたものが咲いたので、是非私たちに、と」
「私たち、か」
「……いつかまた、お会いしたい、と仰いました」
その私たちの中に、彼女も入っている。
それだけで、ライネリオの心は春を迎える。
同時に、秋の風も吹いている。
(例え、彼女が目を覚ましたとしても)
ハロルドの言葉がよぎった。
彼女が目を覚ませば、それは何を意味するのか、ライネリオも充分理解している。
側から見ると、ハロルドやアコニタ、自分自身も無意味なことをしている様に映るのだろう。
(それでも)
ライネリオはぐっと唇を噛む。
この気持ちも、単なる我が儘なんだろう。
彼女をそのままに終わらせたくない、己の自分勝手な感情に過ぎないのだろう。
彼女がこれを望んでいるかどうかなんて、ライネリオにはわからない。
そう、葛藤を抱いた時に、ライネリオは異変に気付いた。
閉じている瞳のから、一筋の涙が流れている。
その短い透明な一閃に、彼の心が痛み出した。
(君は、こんな時にならないと泣かないんだな。いや、泣かないと決めた、のかもしれないか)
彼女の姿を見て、ライネリオは思った。
これは彼女に必要だと、心から信じている。
例え彼女にとって、それは自分の意志で行った自己犠牲であったとしても。
いや、だからこそ。
あの頃から、何気なく交わした一時的の別れの挨拶。
だが、夜が耽るまで彼女と一緒に過ごした証でもあったこの挨拶。
頬を赤らめる彼女の姿に毎度くすぐられた自分の心。
同時に、互いの気付いてはいけない、気付かないふりをし続けないといけない事実も、この挨拶の中に凝縮されている。
涙の後を人差し指で拭いながら、彼はその挨拶を口にした。
「おやすみ」
そう、たとえ彼女に届かなくても。
ライネリオは、彼女に届くまでそれを繰り返す。
そして、彼女が自ら手放した物を探すと決めたのだから。




