20
太陽が早く沈み、夜が長くなった日々。
思い返せば、セレスたちがアベイユに来てから早くも二ヶ月が経った。
この時期のエトリアはまだまだ肌寒い程度だが、北にあるこの村ではそうはならない。
木から黄色の葉っぱたちが落ち、景色が灰色に染まりつつある。
だが、窓から見える風景が変わっても、教会の中に閉じ込められたセレスの日常はさほど変化がなかった。
いや、一つだけ大きくて、想像もできない変化があった。
「今日もライネリオさんがまだ戻っていませんね」
重い体を引きずりながら下に降りると、エマにそう出迎えられた。
最初こそは部屋の中で食べたが、エマの押しの強さに負けて、セレスまでテーブルを囲い朝食を食べるようになった。
「あの浮気者のことなんてどうでもいいわ」
そう、あのライネリオが。
一時もセレスから離れようとしないライネリオが、だ。
一ヶ月前から彼は毎朝どこかに向かうようになった。
彼が許可を申し出た時のことは忘れられなかった。
『朝食前の一、二時間だけです。不躾なことだとわかっていますが、どうか許可をください』
無表情であったが、昔と変わらず、彼の紫色の瞳は何よりも素直に語る。
緊張や不安、そして罪悪感。
瞬きする度に変わるその色が表現されていた。
しかし、それを塗り潰す程の決心も滲み出ている。
彼はどんな理由でそれを頼んだのか、セレスにはわからない。
そして、どんなに気になっていても聞くつもりもない。
ただただ、再会してから想像できないほどの生気で満ちる瞳にセレスの胸が高鳴る。
瞳の奥からじわじわと熱が広がり、それを隠すためにセレスは顔を左下に背ける。
『ふーん。……まあ、好きにすれば?』
『ありがとうございます』
『いっそ、そのままわたくしの所に戻らなくても――』
『いいえ』
演技の中に忍ばせた本音。
彼が自分から解放されれば、どれほど嬉しく、どれほど救われるのか。
だが、無慈悲と感じるほどにライネリオはそれを許さなかった。
『絶対、貴女のもとに戻ります』
何故ならそう断言した彼の表情は、先ほどよりも真剣なものとなった。
今でもセレスは彼の変化に戸惑っている。
反芻するだけで歓喜と困惑が複雑に絡み合っていく。
ライネリオに一体何が起きたのか。
進むための一歩を踏み出しているように見えるのに、過去の象徴とも呼べるセレスを頑なに手放そうをしなかった。
(もう、こうなったらライネ様に全部打ち明けて……打ち明けて、それから?)
自分には事情があるから、それを理解して欲しい。
だから自分にとって処刑は最善の選択である。
むしろ、この結末は他でもなく自分自身が望んでいるものなのだ。
だから、もうセレスなんて忘れて、新しい生きる理由を見つけて、幸せな人生を送って欲しい。
(そんなの、ただのタチの悪いわがままだわ。……今更すぎるのよ)
出来もしない無責任な妄想に自然とため息が出る。
「まあ、仕方ないですね。ライネリオさんの指導がとてもわかりやすいみたいで、朝の鍛錬に参加する人が日々増えていますから」
気分が沈んだセレスの傍らに、エマが嬉しそうな声で町の変化を話した。
ライネリオが中心となったそれを耳にすると、先ほど感じた胸の重みが僅かに軽くなった。
己の情調の不安定さを自覚しつつ、セレスは自分自身に嘲笑を浮かべる。
しばらくすれば、ライネリオが教会に戻り、四人は机を囲んで朝食を食べる。
毎朝、エマが町の近況で場を繋いでくれた。
アコニタとライネリオは無言を貫き、セレスは興味なさそうに相槌を打つばかりだ。
朝食が終わり、エマとアコニタは後片付けをしている時に、エマは突然思い出したかのように話し始めた。
「あ、そういえばセレス様、このハーブティーはどうでしたか?」
「まあまあ美味しいわ」
「それはよかったです! 後程、セレス様の部屋にも用意しますね」
「ふん、好きにして」
そんな他愛な会話をした後、三人はセレスの部屋に戻り、そこで引きこもる一日が始まる。
セレスは今日も数えきれない程読み返した本をもう一度最初から読もうとしたが、何故か気持ちは乗らなかった。
先ほどの気持ちがまだ胸の奥にこびりついたせいか、肺が新鮮な空気を求めている。
外にミリアムがいないと確認し、セレスはそのまま窓を開けると――。
(あら?)
外からのそよ風が上品な甘い香りを部屋の中に運んだ。
どこか、嗅ぎ覚えのあるものであり、記憶よりも優しい香りだった。
「無事、咲きましたね」
隣に立っているアコニタはこの香りの正体を明かした。
それが何を意味するのかと頭で理解した瞬間、セレスの胸は温もりで満たされる。
もう一度、今度は息を深く吸い、その香りを肺の中に循環させる。
名残惜しいかのようにそれを吐き出せば、自然と唇が綻ぶ。
「悪くないわ」
あの子が積み重ねた時間がちゃんと実を結んだ。
あの小さな子がそれを目の当たりにする時を想像するだけで、セレスの中の何かが報われたような心境になった。
わかっているんだ。
セレスは勝手にミリアムに感情移入しただけ。
セレスが言いたくて言えない意思表示をちゃんと言葉にできたあの少女に、自分の願望を委ねた。
そして、彼女はそれをやり遂げた。
できることをできるところまでちゃんとやれば、最善の着地点に辿り着く。
だから、セレスもそうだ。
(これが、今の私にできる最善)
このまま突き進めば、あの白い花のように見事に咲き誇るのだろう。
小さな少女から勇気の裾分けを受け取ったセレスの胸に小さな決心がまた一つ生まれ、積み重ねる。
「アコニタ、もういいわ」
「もう、よろしいですか?」
「どんなに素敵な香りでも、味わいすぎると飽きてしまうの。それは勿体無いでしょう?」
「かしこまりました」
来るかどうかわからないが、そろそろミリアムが教会の裏に行く時刻になる。
接触を避けるために、王女はそのままベッドに腰を下ろし、先ほど投げた本を開ける。
わかりきった続きを読み続ける間もなく、外からエマを呼ぶ少女の声が聞こえる。
表情が見えないとはいえ、その声色からミリアムはどれくらい喜んでいるのかが伝わった。
微笑みを噛み殺し、本で隠す。
まだ僅かに残っているエデルノーラの香り。
外から微かに聞こえる、今でも続いているミリアムとエマの団欒。
表情こそは変わらないが、下にいるミリアムに手を振っているアコニタがいる。
そして、横目で扉の方に視線を向けると、そこに立っているライネリオと目があった。
彼は目を細め、すぐそれを閉じる。
穏やかになった彼の様子は夢ではなかった、夢にしたくはなかった。
自分を疑いたくなるほどの暖かい空間。
(この時間が――)
何を考えているのかに気付いた瞬間、セレスは小さく首を振った。
(ううん、やめましょう)
自分が、自分らしくない願いが言葉になりかけるほどの残酷な温もり。
だが、その願いがセレスの胸の奥底に確かに小さく芽生えた。
そして、彼女は数日後、今日の自分の行いを深く後悔した。




