21
耳にぽつんぽつんと規則的な音が聞こえる。
数日前、セレスはその音に起こされたが、今はもうすっかりとその音に慣れた。
むしろ、それが更なる深い眠りへの誘いとなり、彼女から重い瞼を開ける気力を奪う。
「セレス様」
「……」
「セレス様」
「……」
微動も動かなかったセレスを見て、アコニタは諦め、そのまま静かにカーテンを開ける。
窓ガラスに滴る水滴を見てから、小さくため息をつく。
「今日も、雨が振っていますね」
この一週間、アベイユの空は雨模様の連続。
激しく降る日があれば、今日のような穏やかに降る日もある。
それでも、雨には変わりはない。
その中でも、命を繋ぐために外に出なければいけない人はいるが、子供達や年寄りなどは外出を控えるようにと注意されたが――。
(くすぐったい)
頬から一瞬だけ温もりが走る。
その刺激に目を開けそうになったが、この数日間立て続き悪夢に苛まれたセレスである。
顔を隠そうとしたその時に。
「セレス様」
予想外の低い声に、セレスは思いっきり目を開く。
「おはようございます」
「お、はよう」
何回も瞬きした彼女の姿にライネリオは瞳を細め、そのままアコニタと会話を始める。
(忘れてた……)
彼のいない朝にすっかりと慣れてしまった。
だが、悪天候の日に彼の「予定」がなくなり、いつも通りにセレスの側から離れない。
一日の始まりが彼の柔らかい表情から始まることに彼女の頬が薄紅に彩られる。
灰色の空は、その色を際立たせている。
季節の変わり目に振り続ける雨。
アベイユではこれは普段の景色でもあるが、どんなに対策しようとしても体調が崩す人が続出する時期でもある。
そのせいで、ここしばらくエマは教会の一室に集められた病人の看病で手が回らないほど忙しい。
遠くからエマの細い背中を見て、セレスの胸がぎゅっと切なくなる。
手伝いたいのに、直接は手伝えない。
さりげなくやればいいのだが、受動的な人生を送ったセレスにそれは難易度の高いものである。
唯一できるのは、アコニタにエマを支えるようにと頼むことくらいである。
だから今、セレスとライネリオは部屋の中に二人きりに残されている。
その事実を意識しそうになれば、彼女はこの三日間作り始めたエデルノーラの刺繍に集中する。
一方、ライネリオはいつもの場所に立ち、距離から彼女の横顔を見守っている。
会話のない、静かな空間。
雨音、呼吸の音、服の擦れる音。
セレスは穏やかに流れる時間を味わい、身を委ねる。
何回かそれを壊そうとしたが、同じくらいにそれを思い直した。
「せめて、この雨が止むまで」。
そう自分を言い聞かせ、今日もセレスは口を閉ざす。
ただ、彼女は所詮、ちっぽけな人間だ。
彼女の意志だけでは、現実は止められない。
下の階が、妙に騒がしいのだ。
木材に遮られ、こもっている音がその不気味さを上長させている。
その音にセレスの心臓が早鐘を打ち始める。
ライネリオもその異変に気づき、すぐにセレスの隣に移動し、剣に手を翳す。
一方、過去に似たような経験したセレスの身体が麻痺した。
母の時、テルン夫妻の時、そして父王の時もそうだ。
だから、彼女にとってこの音は人生が変わる瞬間を知らせるものなのだ。
セレスは思わず隣にいるライネリオに身を寄せる、視線を扉に釘つけなまま彼の袖を弱く引っ張る。
彼女の変化に気づき、ライネリオがそれに手を重ねようとした瞬間――。
「ライネリオさん!!」
大きな音と共に、扉から肩で息している一人の村人が現れた。
突然現れた男にセレスは肩を振るわせた。
彼女の様子に見かねて、今度こそライネリオはポンポンと彼女の手を優しく触れる。
「大丈夫だ、心配するな。悪い人ではないんだ」
「う、うん」
迷いが残しながらも頷く彼女を確認した後、ライネリオは男の方に振り向く。
「何があったんだ?」
「む、村に……村に、魔獣が!」
「魔獣……?」
「あ、ああ……と、突然、後ろから! 暗闇の中から、目が光ってて! それらが俺たちを!」
恐ろしい光景を思い出したせいで、男性の震えが強くなった。
ライネリオはそんな彼を宥めながら、詳しい話を聞き出した。
どうやら、何日も続く雨のせいで、近くに流れる川の水流が激しくなった。
村に被害が出るかどうかを確認するために、何人かの村人はその川を訪れると決まったのが今日のこと。
しかし、向かっている途中、背後から大型魔獣が現れ、彼らを襲った。
なんとかその魔獣を追い払ったが、軽傷、そして重症を負った人は確かにいる。
負傷した人たちをエマのところに連れた結果、驚きの事実が明るみになった。
どうやら、最近耳にした魔獣の痕跡と一致しているようだ。
そして、この襲撃事件で、彼らは今、アベイユの近くに徘徊していると確認された。
今まで魔獣被害と遠い生活を送っている村人たちにとって、これは悪夢のような現実だ。
どんなにライネリオのもとで鍛錬を始めても、まだたった一ヶ月にすぎなかった。
「このままでは、またいつ襲われたのかを考えると、俺たちは……」
戦闘経験のない彼らにとって、唯一頼れる相手はライネリオ自身である。
彼らの懇願にライネリオは迷わず、頷こうとしたところだが――。
「無理な頼みなのが、わかっている。だけど、どうか……どうか力を貸してください!」
「俺は……」
ライネリオは途中で言葉を切り、セレスの方に振り向く。
当然のことだ。
彼の使命は、王女を守ること。
こんな危険な状況だからこそ、セレスの近くにいなければいけないのだ。
世話になったアベイユの人たちに手を貸したい。
だが、同じくらいにセレスのことが心配だ。
彼の瞳から、そんな葛藤が滲み出る。
そして、セレスはそれを見落とせるはずがない。
「行きなさいな」
「ですが」
「このままじゃ、うるさすぎてわたくしは今日も眠れなくなるわ」
セレスの言葉を何を意味するのか、男の顔が怒りで赤くなった。
「お前っ!」
彼女に近づこうとしたが、ライネリオは彼を制した。
「許可が出たから、俺も行く」
「ライネリオさん! ほ、本当か?」
「ああ。その前に少し準備が必要だから、先に行ってくれ」
「わ、わかった! 皆んなに知らせる!」
男が飛び出し、部屋の中に再びセレスとライネリオ二人だけになった。
ライネリオは小さくため息を吐き、そのままセレスの前に跪く。
一向も視線を合わせようとしないセレスの手をとり、それを己の額に当てる。
「ありがとう。結局、俺はお前に甘えるばかりだ」
「わたくしは、ただ気持ちよく眠りたいだけ」
「そうか。……そうですね」
ライネリオは少しだけ間をあけてから、今度はぎゅっと強くセレスの手を握りしめる。
その反動に、思わず彼の方に目を向けると、そこに真剣な瞳をしているライネリオが見える。
「セレス様、約束してください。決して、外にでませんように」
「……わたくしは雨に濡れる趣味なんてないわ」
「知っています。それでも、どうか、どうか約束してください」
熱い。
彼の手から熱がセレスの体に流れ込む。
セレスの中に隠す感情を呼び覚ませるほどの熱だ。
それに危機感を覚え、彼女はライネリオの手を強く振り払う。
「貴方に約束する義理なんてないの」
そんな素っ気ない言葉と共に背けられた顔。
これは彼女にできる最後の抵抗である。
「出過ぎた真似を、申し訳ございませんでした」
彼はそのまま立ち上がり、小さく礼をする。
「では、おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
ライネリオはそれ以上何も言わず退室した。
扉の音と共に、セレスの視線はそこに向けられる。
複雑に絡み合う感情を胸の中に秘めながら、彼女は彼と、村の人々の無事を祈ることしかできなかった。




