神さまのつかい
普段ほとんど乗ることのない路線に乗って、数十分。東京って意外と海に近い街なんだと、ウォーターフロントを謳う公園の最寄駅に降り立ってぼんやり思う。
車内には同乗していたカップルたちが大勢残ったままで、やはりこの先の大きなテーマパークに行くのだろうと容易に想像ができた。
ホームを出ていく電車を見送る素振りでこっそり隣のトオルを見上げるも、肝心の本人は何やら端末でマップを確認しているのみ。何を考えているのか読み取ることはできなかった。少し細身のジーンズに、ラフなカットソーとネイビーのジャケット。特にジャケットは、袖を折り返すと覗く裏地のストライプが気に入ったと、ミサキが勝手に押し付けたものだ。
着るものにはこだわらないトオルだが、今回はあえてミサキの選んだ服を着てきたのだろうか。
(わからない、なぁ…)
「───ミサキ?」
「あ、ごめん!」
いつの間にか進行方向に体を向けていたトオルが、訝しげにこちらを振り返った。慌てて傍へ寄りつつ流し見た彼の薬指には、何事も無かったかのように結婚指輪が鎮座している。
…本当に、わからない。
ホーム改札へと向かいながら、数日前のことを思い返した。
────ショックだった。
けれど、それ以上に驚いてもいた。あれほどまでに恐れていた『赤い糸』の消失よりも、まっさらなトオルの薬指に衝撃を受けた自分に対して。
気付くと、まるで自称死神との邂逅の日を再現するかのように、いつの間にかたどり着いた自宅の玄関で立ち尽くしていた。
浮気かなんて、不思議と考えもしなかった。ただ、何もない薬指が、私から離れていくトオルの心を表しているようで、寒々しくて。住み慣れたはずの我が家が…二人の家さえもどこかよそよそしく見えて、自らを温めるように無意識に二の腕を擦った。
その時、マナーモードにしたままの端末が、振動を以ってメッセージの受信を告げたのだ。
差出人はトオル、その内容は────
「デートしようだなんて、急にどうしたの?」
本当はずっと聞きたくてたまらなかったメッセージの真意を、努めてなんでもないような素振りで尋ねる。対するトオルは、清々しいほどあっけらかんと答えた。
「別に何もおかしくないだろ?結婚記念日にデートぐらいしても」
それだけ言って、改札をズンズンと先に行ってしまう。
まさか『赤い糸はほどけてしまったのにどうして?』などと電波なことを言う訳にもいかず、「それはそうだけど…」と濁すほかない。
そう、10回目の結婚記念日。いつものようにちょっと贅沢に外食して、欲しいものを買っちゃってもいいことにして、お互いの買い物に付き合う。なんとなくお決まりになっていた、『いつもの結婚記念日』になるんだと漠然と思っていたのだ。
─────もしかしたら最後になるかもしれない、とも。
こんなに傍にいるのに、なんだか迷子になってしまったような心細さを感じて、思わず半歩前を行くトオルに手を伸ばす。…しかし結局その手は、ジャケットの裾にも触れることなく、ダラリと身体の横に垂れ下がった。
「これ、ガラスじゃないんだよな。何て言ったっけ?」
「PMMA…ポリメタクリル酸メチル、だったかな。トオルがそういうこと言うの珍しいね」
「教えてくれたのお前だろ」
「…うん、そうだったね」
『こんなサイズのガラスどうやって作るんだろうな?割れたりしねーの?』
『これガラスじゃないよープラスチック!透明度も高くて、加工しやすいんだって』
『お、さすが』
『まぁ、ちょっと畑違いだけどね』
───やっぱり、覚えててココに来たんだ。
確信しつつ、それでも言及はできないままで、目の前の水槽に夢中な振りをする。薄暗い館内は、揺蕩う水の影が揺らめいて、ひどく幻想的な雰囲気に満ちていた。休日にも関わらず、あまり混雑する様子が無いのはありがたい。
とぼけているのか本気なのか、マグロの群れに「美味そう」、クラゲに「こいつら悩み無さそうだよな」などとコメントするトオルに少し力も抜けてきた。
私が気付いていることに、きっとトオルも気付いている。何を考えているのかは分からないし、正直怖いけれど、今だけは二人の時間に没頭していたい。相変わらずずるい考え方だけれど、トオルに断じられるまでは、この生温い幸福感に浸っていたいのだ。
十年前と同じように、水族園を廻ってランチを食べ、海沿いで貝殻を探しながらぶらぶらと歩く。こんなに長い時間二人っきりで、しかも笑顔で過ごしたのはいつぶりだろうか。あの時はごく自然に絡んでいた二人の手は、離れてしまったままだけれど。
そうして、日は暮れて。
まるであらかじめ決めておいたかのような自然さで、二人の足は観覧車へ向いていた。あの日…
────トオルがプロポーズしてくれた日の再現のように。
「───ミサキ?」
急に足が重たくなって、無意識に立ち止まっていたらしい。
これに乗ったら、乗り終わってしまったら、私たちはどうなるんだろう。何かが変わってしまう、確信にも似た予感。十年前のあの高揚した気持ちとは逆に、身体の末端から冷たくなっていくような不安を感じる。
「…大丈夫か」
不意に差し出された手が、触れる寸前で留まる。見上げれば、トオルの真剣な眼差しが突き刺さった。微かに震える手で、その大きな掌をゆっくり握った。
(あったかい…)
「うん、だいじょうぶ…」
こうしてこれからも、あなたが手を引いてくれるのなら。
一周17分の、巨大な観覧車。到着とほぼ同時にイルミネーションが始まり、私たちの乗り込んだゴンドラは輝く花弁の一枚と化した。
トオルと向かい合って座るが、その表情を窺うのがなんだか恐ろしくて、ガラス越しの夜景に視線を向けた。へにょりと眉の下がった自分の顔が映って、内心苦笑する。先ほど撮られた一枚の写真には、さぞ情けない表情で写っていたことだろう。
「もう、十年になるのか」
「…そうだね。私ももう、立派なおばさんになっちゃった」
「それを言うなら、俺だっておっさんだろ」
わざと茶化してみせて、ようやくトオルの顔を真正面から見る。静かな、凪いだ表情。精悍な男の顔に、やはり今でも胸は高鳴った。
「ここしばらく────」
「…っ!」
不意に身を乗り出してきたトオルが、ミサキの左手をとって握り込んだ。膝が触れ合うほど詰め寄ってくるトオルの視線に絡み取られて、目が離せない。
「───お前の様子が変わったのは感じてた…って言い方は卑怯か。俺はずっと、五年前のあの日から、変わってしまったモノに気付かないフリをしてきた。突けば壊れちまうような予感がして…」
初めて聞く、トオルの心中だった。
「あの日、ベッドで謝り続けるお前を見たとき、本当に怖かった。父親失格だと思ったよ。俺は───お前が消えちまうんじゃないかって、それが一番恐ろしかったんだ」
失われてしまった小さな命。奪われてしまった『家族』の未来。
失望も、やり場のない憤りもあった。けれどもそれを上回ったのは。
かけがえのない『唯一』が、この腕から零れ落ちていく…恐怖。
「お前を…ミサキを求める度に、傷付けてるんじゃないかと思うようになったよ。行為の先に子どもを求めてるんだと、お前に思わせたくなかった」
その言葉に、ミサキは一瞬震えた。少なからず、的を射た言葉だったからだ。
トオルは私を愛してくれる、けれど…その価値が、自分にあるのか?
そんな自問自答を、トオルは見抜いていた。
「ほんとに馬鹿だけど、そうやってお前を守ってるつもりだった。そうすれば、一生傍にいられるって」
そう言って、ミサキの華奢な指に嵌まった指輪をなぞる。
「…お前を愛してる、ミサキ。十年前と変わらず、そしてこれからも」
───ずっと傍にいてほしい。
奇しくも、二人を乗せたゴンドラは、頂点に達しようとしていた。
決して大きくはない、むしろ囁くように告げられた言葉に、とうとうミサキの涙腺は決壊する。
「わ、わたしたち五年もすれ違って…っ!」
「…あぁ」
「やだって…思ってっ…頑張ったのに知らないフリして…!」
「ごめん」
「しれっとこんなとこ連れて来て…っ」
「ごめん」
えぐえぐと泣きながら、ひたすら浮かんできた言葉をトオルにぶつける。
二人して怖がりで、互いのことが好きでしょうがなくて、でも不器用で。
「も、ほんと…ばかぁっ…!!」
罵られたというのに、どこか幸せそうに笑って「ごめん」と言ったトオルは、ぐいとミサキを抱き寄せた。不安定に揺れたゴンドラに、思わずトオルにしがみつく。もう一度「ばかっ!」と涙声で詰られて、今度こそはっきりとトオルは笑った。
半ば膝に乗せるようにしてミサキを抱き寄せ、自分の首筋に顔を押し付けさせるかの如く密着する。
「俺、お前にばかって言われるの好きなんだよな」
「なんで喜ぶの…っ!」
「俺には昔から、『すき』って言ってるようにしか聞こえないから」
もちろん図星だったミサキは、今度こそ赤面した。
思い返せばトオルは昔からぶっきらぼうで、無頓着で、ガサツな男だったけれども、ミサキのことなら何でもお見通しだったものだ。そして悔しいけれども、ミサキはいつもそれに甘えていたのである。
むぅ、と一瞬考えたミサキは、意を決してぐりん!とトオルの頭を引き寄せた。
「いって…っ…!」
「ん…っ」
唇はすぐに離れていったものの、久しぶりの感触にトオルの頭は真っ白になった。…が。
───わたしも、ずっと、あいしてる
最愛の妻の一言に、もう一度がっついてしまったのは言うまでもないことだった。
気づけば、観覧車は下降に入っていた。
下にはスタッフや、あろうことか他のゴンドラには利用客も乗っていることをようやく思い出したミサキが必死にもがいたため、トオルの不満顔をよそに、二人は元の位置に落ち着いている。
と、そこでミサキは大切なことを思い出した。『消えた指輪の謎』である。
「お前、見てたのかよ…」
「き、気のせいだった…?」
いや、とかタイミングが…、などと呻いたトオルは、おもむろにボディバッグから取り出したものをミサキに突き出した。包んでもらわなかったのか、気恥ずかしくて取り去ってしまったのか、むき出しの赤い箱には、誰もが知るジュエリーブランドの名が刻印されている。
戸惑いつつもゆっくりと箱を開けたミサキは、息を飲んだ。
輝きを放つ、二つの絡み合った指輪の意匠。繊細な銀色のチェーン。
つい、とネックレスを取り上げたトオルが、腕を伸ばしてミサキの首にかけてやる。
「これ…なんで」
「…二回目のプロポーズみたいなもんだろうが」
「じゃ…指輪は…?」
観念したかのように息を吐いて、トオルは自身の指輪を引き抜いてみせる。
「同じメッセージ入れてもらったんだよ。後輩に店紹介してもらって…すぐできるって言うから、飯食べに行って時間潰してた」
その言葉に、ミサキは受け取った指輪と自身のネックレスを慌てて覗き込み…
ゆっくりと、微笑んだ。
────You complete me.
あなたなしでは、生きられない。
───あれって、結局からかわれただけだったのかな…。
運よく並んで座れた電車の座席で、つい先ほどから居眠りを始めてしまったトオルの頭を支えながら、ミサキはふと思った。
あの、不気味な死神。人外のものだということは確かだけれど、あれはもしかしたら、悪戯好きな幽霊かなにかの仕業だったのだろうか。
(トオルとの関係は切れなかったわけで…)
考えても仕方のないことだけに、襲ってくる眠気に負けそうになる。あくびを噛み殺しながら何となく前を見ると、休日出勤らしきサラリーマンも器用に立ったまま目を閉じていた。
(そう、考えてもしょうがな…い…)
そうして、ミサキも眠りに落ちる。…起きた時には、『死神』のことをついぞ忘れ、冷蔵庫にしまったままのマカロンのことしか思い出せないことなど、その時のミサキには知る由もない。
ましてや、隣でうたたねから目覚めたトオルが、
「ったく…幸せそうな顔して寝やがって…今のうちにいっぱい寝とけよ」
などと危ない発言をしたなんてことは、全く知る由もないのだった。
───二人の乗った電車を、遥かに高い漆黒の夜空から見下ろす影がひとつ。…そしてもうひとつ。
相変わらずズルズルと長い黒衣をはためかせた男に、ひとりの少女が近づいてくる。黒目黒髪の平凡な少女、その背には明らかに異質な一対の白い翼が生えていた。
「さーがーしーまーしーたーよー!センパイ!」
「おや、見つかってしまいましたか。回を重ねるごとに早くなっていきますねぇ」
はっはっはっと愉快気に笑う男に、少女は青筋を立てた。
「センパイが職務放棄をやめてくだされば、こんないらない能力育てなくて済むんですけどォ!!」
だいたい、と堰を切ったようにぶちまける。
「なーにが死神ですか!その上あんな嘘までついて!あのふたり、ただの『過渡期』だっただけじゃないですか!恋愛線だけ視えるようになんてするから、絶対誤解してたでしょ!?」
「おや、君もまだまだお勉強が足りませんねぇ…。過渡期などと呼んではいますが、あのまま家族としての絆さえ破綻してしまう可能性も大いにあったのですよ。実例とて嫌と言うほど見てきたでしょう。きっかけはどうあれ、彼女、そして彼が行動したからこそこの運命は確定したのですよ」
「う…それはそう…ですけど…!」
ほら、と男が指した先、異能を持つ二人には、電車の中のミサキとトオルの姿が見える。否、それだけではない。ふたりをラッピングするかのように巻かれた黄色のリボンが、ご丁寧に蝶々結びされている様子まではっきりと視えていた。
恋は愛へ、恋愛は親愛へ。ミサキたちは、新しい関係を作り始めたのだ。
素直にしゅん、としてみせた少女はしかし、すぐにハッと気を取り直した。
「って誤魔化そうったってそうはいきませんよ!このことはちゃーんと大天使(上司)さまたちにお伝えしますからね!
魂の情報を司りし、『死の天使』アズラエルさま!!!」
死神などと名乗ったことへの当てこすりなのか、やけに一言一句はっきりと男の正体を突き付けた少女は、ふんっと鼻息も荒く天へと昇っていく。
「…前言撤回です。君も成長しましたねぇ…」
やれやれと言いたげにのっそりと動き始めた男の黒衣が、突風に煽られて吹き飛ばされた。
それを追いかけるでも、惜しむでもなく見送った男…アズラエルの背には、二対の輝く翼が生えている。金髪碧眼の神々しい天使は、下界の誰にも気づかれることなく、天へと昇っていった。




