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ハードシップメークス  作者: 小走煌
8 つかのま
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準備は大変なんです

「こんにちは、若月さん。早いですね」

「え、あれ……?」

 慧は早く来たつもりなど微塵もない。

 それでも放課後の部室には、今到着したばかりの自分を除けば千春しかいなかった。日頃部員達のおしゃべりで騒々しいこの場所がやけに閑散としていることには違和感がある。

「め、珍しいですね……みんな遅いなんて……」

「確かに、練習には非常に意欲的な捺や直子までまだ来ていないというのは妙ですね。恐らくそれなりに理由があるのでしょう」

 冷静な口調とは裏腹に、千春は忙しなく机を漁っていた。

 部室の窓際に面した一際大きな机。まるで会社の社長が使うかのような物々しさを醸し出すその机は普段、捺が使用しているものだ。千春はなぜか今、熱心にそれを物色している。

 ふと、千春はその顔を上げ、慧を見据えた。

「どうかしましたか、若月さん」

「あっ、いえ……なんでも……」

「……私が他人の机を勝手にまさぐるのは珍しく見えますか?」

「いっ、いや、そういうわけではっ……!」

 条件反射で必死に否定する。しかし千春の鋭い視線はまるで心を見透かしているかのように刺してくる。

 確かに、彼女の指摘は図星でもあった。あの生真面目な千春が他人の机を無造作にかき回すという光景は、慧の目にはどうにも奇妙なものとして映る。

 そんな内なる混乱を知ってか知らずか、千春は普段慧に見せるような柔らかな笑みへと戻った。

「冗談ですよ。しかし、もし怯えさせてしまったなら申し訳ありません」

 わざわざ立ち上がり、律儀に一礼までしてくる。千春の方が先輩なのにこれほど紳士的な態度を見せられると逆にこちらの方が申し訳ない気持ちになる。

「実は、私がこのような行動を取っているのには明確な理由があるのです」

「理由、ですか……」

「ええ。少し前、この机に仕舞った資料がありましてね。それを探しているというわけです。もう少し整頓しておけば取り出しも容易だったのですが、なにぶん余裕がなく……」

 慧の疑問に対して答え合わせをするかのように千春は言う。優しく微笑むその顔にはしかし、僅かな曇りがあることを慧の目は捉えた。それは放っておけば分からない程の非常に曖昧な滲み。

 瞬間、身体が微かに痙攣する。

 千春の笑顔に潜むその闇に気付いた時、慧は背筋をゾワリと撫でられたような感覚に陥った。

 訪れたのは、まさか千春は大会の結果を今も引きずっているのではないか――という想像。

 彼女は敗退の原因になるようなことはしていない。負けたのはどう考えても自分が悪い。それでも彼女はその責任感の強さゆえに自らを追い詰めているのではないか。誰にも抱えきれない重荷を率先して背負い込んでいるのではないか。

 だとすれば悲しい。ほんの少しの過ちがこんなにも周りを、自分を苦しめることになるなんて。こんなことをしてしまって、それでも自分はここにいられるのか。自分がこの場に、この部にいたいかどうかではない。そもそもいていいのか――

「どうしました、若月さん?」

「えっ⁉ あ、いえ、えっと……」

 不意に、千春の声で我に返る。気まずい雰囲気にならないよう急いで言葉を探す。

「その、探している資料って、いったい……」

「資料は生徒会関連のものでしてね。今度の学園祭で必要になるのです。捺の机はこの通りサイズが大きいので、私も資料の格納に使用しているのですよ」

 慌てて取り出した言葉にもかかわらず、千春は丁寧に返事をした。

 そういえば学園祭というものがあった。慧はその存在をすっかり失念していた。思い返せばクラスでも何やら参加の呼び掛けをしていた気がするが、完全にスルーして今日もここにいる。

「学園祭が近付いたことで生徒会もすっかり忙しくなりましてね。立場上泣き言は言えませんが……そうですね。仕事があって有難い、と言ったところでしょうか」

 ため息混じりの苦笑が部室に空しくこだまする。

 野球部副部長というだけでなく、生徒会副会長という千春のもう一つの顔を改めて認識させられる。この様子では、きっと一般生徒には計り知れない激務を抱えているのだろう。

 そしてその顔は、先程の嫌な予感が杞憂であることを慧に知らせた。どうやら先輩は大会のことで落ち込んでいるわけではないようだ。疑心暗鬼に陥ることが多い最近の思考回路に我ながら気が滅入る。

「恐らく、今来ていないメンバーは手伝いに駆り出されているのでしょう。大変喜ばしいことです。我が部には普段からクラス行事を疎かにしようとする輩もいますから」

 一瞬だけ、千春が悪い顔になったように見えた。なぜか慧の頭には捺と直子のことが浮かんだが、一旦気にしないことにした。

「千春先輩、部活でも大変なのに……」

「いいえ、こういう役回りには慣れっこですので平気です。部内ではハチャメチャな事を言い出す部長にその都度釘を刺すようにしていますが、生徒会でも似たようなものですからね……もっとも、部長の方はいざというとき頼りになるのは間違いありませんが」

 思わず声のトーンを落とす慧を宥めるような穏やかな声。しかしそこにはある種の苦悩が滲んでいた。

「しかし確かに、進捗が思わしくないという懸念はありますね。中々思い通りにはなってくれないというか……」


「体育館の使用許可が下りました!」

「外にポスター配ってきます!!」

 生徒会室は喧騒のかたまり。のんべんだらりと構えている者などこの場に一人もいない。

 私の眼前にはおびただしい書類の山。これ以上なく存在を主張してくるその様にはウンザリするが、これを片付けるのが私の責務だ。

「副会長、スケジュールの件ですが」

「副会長、新しく出店したいという依頼が来ています!」

 まるで助けを求める悲鳴のような声。それに対する承認の権限を持っているのはこの場に私しかいない。本来であれば私よりさらに位が一段高い者が控えているのだが、どういうわけか今この場にはいない。しかし、現れない者を待っていても仕方がない。

「分かりました。一人ずつ話をしましょう。それと……」

 それでも、私はこの理不尽さに異議申し立てをしたかった。

「会長がどこにいるか知りませんか?」

 一介の役員でしかない彼にとって困る質問であることは間違いない。後で非礼を詫びなければならないだろう。

「え⁉ えと……クラスの方にいるか、帰っちゃってるかだと思いますが、すいません、ちょっと分からない……です」

「……分かりました、ありがとうございます。スケジュールに関する用件から対応するので、お手数ですがもう少ししてからまた来て頂けますか」

「はいっ! よろしくお願いしますっ!」

 彼は一礼して資料を抱え、次の仕事へと駆けていった。

 私には未だに分からない。生徒のことなど微塵も考えていないようなあの自由人が何故会長職などという重要なポストに就くことが出来たのか。私には出世欲など欠片もないが、奴のお陰で誰が割を食っているのか、いつか知らせなければならない。

「うわっ――⁉」

 刹那、短い絶叫と共に大量のA4用紙が宙を舞った。忙しく生徒会室中を飛び交う声が急停止し、皆の視線が一点に集中するのが分かった。

 直後、紙を撒き散らした正体である彼の身体が机に盛大にダイブした。いや、床のコードに足を引っ掛け宙に浮いている以上、したというよりそうせざるを得なかったのだろう。この光景を音で形容するなら『どんがらがっしゃん』が実にしっくりきた。

 嵐のあとのようになった部屋を元通り整理するという予期せぬタスクの追加。内野守備でもそうだが、どんなイレギュラーにも冷静に対処しなければならないのは、どうしても骨が折れるものだ――


「た、大変そうですね……」

 慧の口から出るのは月並みな感想だった。いつもの淡々とした口調で語られた生徒会の様子は、その口調通り淡々としているものでは全くなかったため、適切な言葉を抽出出来なかったのだ。

「すみません。愚痴のようになってしまいましたね……本来であれば若月さんに聞かせるような内容ではないのですが。恥ずかしい限りです」

 姿勢を改め、丁寧に詫びてくれる。その姿はなんともわびしい。

 いつも、誰に対してもこのように真面目だからこそ、千春には気苦労が絶えないのだろう。

 次の瞬間、扉が勢い良く開かれる。

「あれ、千春と慧だけ?」

 そして呆気にとられたような声が響く。振り向くと、捺が目を丸くしてその場に立っていた。

「そうですよ。どうでしたか、学園祭の準備は。しっかりクラスに貢献出来ましたか?」

「な、なぜそれを……」

「やはり……そんなところだろうと思いましたよ」

 千春は不敵に微笑む。

「日頃からクラスに対しても協力的であればこういった状況でもさほど困ることはないと思うのですが、どうでしょうね。捺」

「そ、そうかもしれないですね……」

 あの捺が敬語になっている。しかしそれも当然だろう。その攻撃には果てしない重みが込められているように今の慧には感じられた。

「それから、捺」

「は、はい……」

「私は本日の練習を欠席します。部活のように、誰かさんの尻拭いは私がしなければならないのでね」

「わ、わかりました……」

 ついに机から一つの書類を取り出し、満面の笑みで千春は捺にそう言った。捺は魂が抜けたような顔をしている。

 明日からはクラスの手伝いもしっかりやろう――慧は密かにそんな決意をした。

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