道具へのこだわり
不定期なテンポでグラウンドに鳴り響く乾いたグラブの音。
その大きさとそこから伝わる衝撃は、少女たちが平然と投げている硬球がいかに危険な代物であるかを如実に表現している。我ながらよくもこのようなデンジャラスな行為に身を投じているものだと、慧はため息混じりにキャッチボールを続ける。
慧の投げた先には華凛がいる。ゴツゴツとした石に勝るとも劣らない硬度の球体を事もなげに捕球し、充分に間を置いて投げ返してくる。そのボールはのんびりと、まるで空中を散歩でもしているかのように慧の元へやって来る。
しかし眼前に迫った途端、それは短い風切り音を立てて勢いを増す。あまりの躍動に畏怖すら覚えるその軌道を、どうにかこうにかキャッチする。
このような軌道のことを皆『ノビ』と呼んでいるが、慧は華凛とばかりキャッチボールをしているのでノビの判断基準がよく分からない。
しかし恐らく自分の投げるボールにはない機能なのだろう、と慧は思った。何せ対岸の華凛はヨガのストレッチか何かと間違うほどゆったりしたフォームにもかかわらず、これほどの威力を持つボールを投げ込んでくるのだ。一方こちらはどうにかノーバウンドでボールを届かせようと懸命な全力投球を続けている。自分のボールに華凛のようなノビが備わっているのなら、こんな苦労はしていないのでは。
「バック!」
そんなとりとめのないことを考えていると、キャッチボールの終了を示す捺の合図が聞こえてきた。場の全員が二者間の距離を少しずつ詰め、やがてキャッチボールは完全に終了した。
「それにしても、慧は良い音鳴らすの巧いわね」
慧から投じられた最後のボールを無駄のない動作でファーストミットに収め、不意に華凛はそんなことを言った。
「そ、そうかな……」
今しがた見せつけられた能力の明確な差。どうしても気分の落ち込みを感じざるを得ないところに突然飴は渡された。鞭には一人で勝手に打たれていただけとはいえ、そのギャップについ照れてしまう。
しかし慧には、なんとなくその理由が分かっていた。無意識に右手を目いっぱい開いて中を見詰める。
良い音が鳴るのは日頃使用しているグラブのおかげに他ならなかった。部室の倉庫に置き去りにされていたこのお下がりの道具はなぜか非常にボールを捕りやすい。
「それはだね。そのグラブにはもう『ポケット』が出来上がっているからさ」
急に真横で響く声。直子の乱入だった。
「ぽ、ポケット……?」
「そう。ボールをちゃあんと逃がさず捕ることのできるスポットのことさ。ちなみに慧ちゃんのそれは親指と人差し指の間あたりに作られてる。そこで捕るからいい音がするのさ。まあ、しっかりポケットで捕れること自体は慧ちゃんの技術なんだけどね」
直子は高テンポで説明を続ける。その中には褒めのスパイスが交えられていた。思わぬ収穫に顔が弛みそうになる。
「ところで慧ちゃんよ。ポケットってのはどこに作るのがいいと思う?」
「え? えーっと……」
突然の問いに、慧は咄嗟に回答できない。
「答えはな、バラバラだぁ!」
火でも吹くのかという勢いでひとり盛り上がる。思わず後ずさってしまう。
今、慧の目の前で楽しそうにしている直子からは大会直後に見られた陰の部分が完全に消え去っていた。もうすっかりいつもの直子だ。
慧は密かに安堵した。自らのミスで敗北したのに、いつまでも暗いままでいられたらばつが悪い。
この、他者をあっさり自分のペースに持ち込む台風のような忙しなさこそが直子の特徴であり、良さなのだ。しおらしい彼女など本来の姿ではない。この姿を取り戻してくれて本当に良かった。
これなら県内屈指の強豪校と名勝負を繰り広げた香椎東を敗北に追いやった張本人も安心できるというものだ。敗退はあくまで直子のせいではないのだから、落ち込むことなく胸を張っていて欲しい。
――そう、自分のミスで負けたのだから。
「例えば内野と外野でポケットの位置は違う。それに人によってもいろいろあるのさ。いろんな人に聞いてみるといいよ……って、聞いてるか慧ちゃん?」
虚空をさまよった視線は一気に引き戻される。直子のやたら熱心な解説はまだ続いていた。
「すっ、すいません、聞いてます……!」
「うむ。よろしい」
場繋ぎの返事にも満足そうに頷く。完全にモードに入っている。
「ではここで、特別にあたしの極意を紹介しよう」
直子は自慢気にグラブを掲げた。
「……興味深いですね」
いかにも興味津々といった様子で華凛も身を乗り出した。こんなただの練習の日に極意などというたいそうなものを簡単に明かしてしまって良いのか――そう思いながらも、慧はその言葉に耳を傾けた。
「あたしのグラブにはポケットがみっつある」
「み、みっつも……?」
「そう、みっつ。慧ちゃんのはひとつだろ。普通はひとつのはずだ。ところがどっこい、あたしのグラブには、みっつ」
右手の指を三本突き出して言う。そこには不思議と自慢たらしさは存在せず、事実を述べる熱っぽさだけがあった。
それは純粋な驚きとして慧の耳に飛び込んだ。ポケットの概念だけはなんとなく感覚で理解していたが、そこに数という軸が加わることになるとは。
「まずひとつ。これは慧ちゃんと一緒、グラブの芯の部分だ」
直子はグラブをパンと鳴らす。その部分は確かに慧も直感で理解している。良い音を鳴らすために不可欠な箇所だ。
「そしてふたつ目は、ここ」
そう言って直子は母指球から手の付け根の部分を指差す。
「ここで捕れるようにしておけば、打球の急なブレとかゴロのイレギュラーに対応できるのだ」
えっへん、と鼻を鳴らす。
直子が示した箇所はグラブを嵌める際の入口に位置している。ややもすれば掌の肌がはみ出してしまうようなこんな場所でボールを受けるなど、失敗時でしかあり得ないと思っていた。
「そして最後は、ここ!」
直子は持っているボールを天高く放り上げ、受け止める。その場所はなんとグラブの先端だった。
「これは大飛球が来たときにギリギリ届くかどうかって時に役に立つ……かもしれない」
直子はグラブを揺らしてみせる。傍目には今にもこぼれ落ちてしまいそうに見えるそのボールは、いくら動かしても微動だにしなかった。
「まあ、これくらい用意しときゃあらゆる状況に対応できるってもんよ。オーケー?」
完全に直子のペースである。慧は黙って頷くしかなかった。
「三ヶ所もポケットを……流石です」
「いやいやぁ、きみには負けるよ華凛ちゃん」
直子は華凛の背中をバンバン叩いた。直子流の照れ隠しなのだろうか。
「しかしだ慧ちゃんよ」
突然、直子は慧に向き直る。いつ話し掛けられるのか、一時も油断できない。
「いい音はいい道具あってこそだぜ」
「道具……?」
「そう。君にはいい道具が必要だ。いつまでもお下がりを使ってちゃあよくないね」
直子はしたり顔で言う。
確かに、慧は倉庫に眠っていたこのグラブをずっと使っている。しかし現状はこれで事足りているように感じている。道具に不満を持ったことは特になかった。
「そうと決まれば善は急げだ。練習終わったらおじちゃんのとこ行くぞ」
「えっ⁉」
『そうと決まれば』といっても、今この場で決まったことが果たして何かあるのか。
「盛り上がってるところ悪いけど、次の練習に移るわよ」
その瞬間、部長の権限を施行した捺の声が飛んできた。三人は首をすくめて再び練習モードへ切り替わらざるを得なかった。
「おじちゃん、ひさびさ!」
「おう、なおちゃん。相変わらず元気だね」
直子の後ろから慧はおずおずと入室する。
練習後、慧は直子に連れられてこの場所へやって来た。チームが使用しているランニングコースの途中にあるスポーツ用品店。慧も足を運ぶのは随分と久し振りだった。
「おじちゃん、新しいグラブ見せてよ」
「あいよ」
返事をするや否や、店主は店の奥に引っ込む。程なくして、大量のグラブを両手いっぱいに抱えて出てきた。
「これは一流プレイヤー御用達のメーカーから出た最新版。もちろんオーダーメイド対応」
「おおーっ」
「んで、こっちは最近流行りの町工場発祥のやつだ。なんてったって、プロも既製品を使うからオーダーメイドにしなくてもお揃いに出来るのさ」
「おおーっ、さすがおじちゃんいいもの揃えてるね!」
二人はたいそうに盛り上がる。直子はグラブを一つ一つ手にとっては嵌め、感触を確かめていた。慧は何も言えずにそのやり取りを眺める。
このヒトはもしかして、自分が楽しむためにここまでやって来たのでは――そんな風に邪推してしまうが、この様子を見る限り恐らくそれは真実らしかった。
「どうよ慧ちゃん。なんか刺さるものあった?」
思い出したかのように、直子は話題を振ってくる。
「あ、いや、わたしは……」
「遠慮しないで、いいのあったら買っとくといいよ」
直子はあっけらかんと言う。しかし、慧には一つの疑念があった。店内に展示されている製品のラベルを見て、それは確信に変わった。
「ど、どれも、買えません……高くて……」
そう。純粋に価格のハードルが高過ぎるということ。少なくとも自分の価値観では到底手を出すべきものではないと直感が告げる。慧の宣言を聞いて場は瞬間的に凍りついていた。
「慧ちゃん、わかってない!」
しかし、無言の間はあっさりと蹂躙された。
「道具なんてのは基本的に高いもんなの。これでもだいぶ値引きしてもらってんだよ。わかる?」
「は、はあ……」
「だから買っときなさいって、お得なんだから!」
「い、いや、でも……」
直子はまるで敏腕セールスマンのように慧へと迫った。その無為なやり取りは、そこから一時間近くに渡って繰り広げられた。
店主はただ黙ってそれを観察していた。
「ハハ……若いって、いいねえ」




