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ハードシップメークス  作者: 小走煌
8 つかのま
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密かな人気者

「あれ……弁当がない……」

 この土壇場で不測の事態が起きてしまったようだ。鞄の中身を奥まで確認する。しかし何度覗き込んでみても、それらしきものは見当たらない。昼休みは既に始まってしまった。一気に華やかになる教室の空気をよそに、慧はこの日の行動を振り返ることにした。小さなヒントも逃すまいと努めてゆっくり、一つ一つを思い出す。

「……ああ、玄関」

 思わず一つのワードが口から零れてしまう。幸い、聞かれると恥ずかしい独り言に反応する者はこの賑やかな教室には誰もいなかった。

 慧の頭に蘇ったシーンは今朝のことだった。出掛けに靴が上手く履けず、とっさに靴箱の上に置いた弁当をそのまま忘れてしまったのだ。

 しかしその事実をどうにか思い出したは良いものの、もたらされたのは今現在せっかくの弁当が手元にないという現実のみだった。こうなってはなんともばつが悪い。

 そもそもの原因は、寝坊により遅刻しそうになったことにある。焦って支度するとどうしても綻びが生じる。その結果が今回は弁当の置き去りだった、というだけのことだ。それは分かっているが、どうしても目覚まし時計や親のせいにしたくなるというのが偽らざる思いだった。

 しかし、ねちねちと愚痴っている場合ではない。目下、明確なタスクとして昼食をゲットするという作業が必要である。この潜在ストレスをここにいない親や目覚まし時計にいつまでもぶつけていたいが、背に腹はかえられない。どうにか立ち上がり教室を出て、一時だけ勉学から解放された安堵感の溢れる声が躍る廊下を抜ける。

 校門の前まで行くと、そこには弁当の出張販売ブースがあった。複数の業者が毎日弁当を売りに来ており、この日も多くの生徒で賑わっている。

 慧は黙って列の最後尾に並び、順番を待った。前の生徒が購入を済ませる度に少しずつブースの熱気が失われていく。もうだいぶ人気がなくなったとき、ようやく最後の一人である慧の順番が回ってきた。

 弁当の多くはもう存在しない。しかし、そんな中でもまるで自分を待っていたかのように二つだけ残っているものがある。それは、不安に駆られていた慧の目にキラキラと輝いて映った。

 慧は生き残った二つの弁当を見比べる。入念に行わねばならない作業であることは直感が告げている。何せこれは昼以降のコンディションを左右する二者択一。

 しかしその時、ブースに流れている穏やかな空気が不穏なものに変わる。

 それは、音による異変。どこからか聞こえる物騒な足音。少しずつだが確実に大きくなる音。静まったはずの喧騒が再び掘り返されるような感覚がする。慧は音のする方に目を向ける。

 瞬間、視界に飛び込んできたのは意外なモノだった。

「梓先輩……?」

 猛然とこちらへ突撃してくる一つの影。その姿は、本当に、いつなんどきでも感情を表に出すことなくただ淡々と目の前の仕事をこなすことで部員からの信頼も厚く投手というポジションにもかかわらず暑苦しさという概念から最もかけ離れたような存在であるあの大崎梓本人なのか、非常に疑わしかった。

 しかしその影はそんな疑念を抱く隙を与えない。猛ダッシュであっという間に距離を詰め、影は慧の目の前で停止する。その顔は間近でハッキリと確認できた。

「梓先輩……やっぱり……」

 その姿はやはり梓で間違いなかった。恐らく全力だったであろう走行の割に呼吸はさほど乱れておらず、表情も普段とあまり変わらないように見える。しかし目だけはまるで追われる猫のように点になっており、それは梓が今焦っているということを知らせるのには充分だった。

 不意に、梓はまだ選別中だった弁当のうち片方を乱暴に取り上げ慧へと突き出した。

「これ、買って、倉庫裏にきて。ごめん」

 梓はそう言って、これまた乱暴に五百円玉を机に叩き付ける。情報の処理が追い付かない慧を背に、グラウンドの方向へあっという間に走り去っていった。

 どんどん遠くなる梓の背中を呆然と眺めていると、入れ違いに複数のこれまた騒々しい足音がやって来た。

「アズサ様ぁ、早すぎですわぁ……」

「この類いまれなる運動能力、流石アズサ様ですわ!」

「凄いですアズサ様! 絶対サイン欲しいですっ!」

 何やら賑やかな連中は、たちどころにいずこかへと去っていった。

 何が何やら分からず、慧はとりあえず言われた通りに弁当を買い、釣り銭を受け取り、ついでに自動的に決められてしまった自らの分の弁当を買って指定の場所へ向かうのだった。



 バックネットの裏にある用具入れの倉庫。梓はよくこの裏で子猫と戯れたりしている。しかしその様子は裏まで行かなければ分からない。二つの弁当を持ち長い距離を歩いてようやくそこへ到着した慧は、表にその姿がないことを認め、裏へ顔を覗かせた。

 そこに猫の姿はなかったが、梓の姿はやはりあった。くたびれたように体育座りをするその様は、まるで梓本人が猫の化身であるかのようだ。

「す、すいません、これ……」

 慧は梓に近付き、約束の弁当に釣り銭を載せて差し出した。梓は無言でそれを受け取ると、釣り銭を無造作につまみ慧の方へ突き返すように差し出した。

「えっ、それ、おつり……」

「いいから」

 梓は感情の読めない目で慧を見詰めてくる。状況から察するに、恐らく釣りは駄賃代わりで良いという意味なのだろう。

「えぇっと……」

 何か悪い気がして慧は受領を渋ったが、あげる、いらないのやり取りは長くなるとみっともない。結局慧が根負けし、受け取ることにした。雰囲気に圧され無言になるも、どうにか一礼だけはすることができた。

 それから、ふと慧は気付く。この秘密基地のような空間に人間は二人だけ。何となく、これは昼食を二人でとる流れ。

 梓は慧を気にする様子もなく弁当を開く。この状況から『教室に戻る』とは何となく言いづらい。仕方なく、慧もここで弁当を食べることにした。僅かなスペースにどうにか腰掛ける。

「……」

 空間に流れるのは無言の時間。自分から何か話すのはおっくうだが、梓が積極的に会話するようにも思えない。しかし咀嚼音だけがこだまするような状況は耐え難いので、ひとまず慧は心で重い腰を上げた。

「さっき、誰かに追いかけられてなかったですか……?」

 慧が不思議に思っていたのは、この状況を作り上げた原因。何故梓は必死に走っていたのか。それはあの連中に追われていたからだろう。ならばあの連中は一体何者なのか。慧はその一点が気掛かりだった。

「……試合の次の日から」

 梓は消え入りそうな声でポソリと言った。それはどういう意味だろう。質問に対してやや逸れた回答のような気がするが、まずは時期について答えてくれたのだろうと脳内で補完する。

「急につけ回されるように、なったんですか……?」

 続けての慧の問いもどこか要領を得ないものになってしまうが、梓は無言で頷く。そして次の情報を提供してくれた。

「ファンになった、とか言って……サイン、ねだられる」

 細々とした声はなんとも聞き取りづらい。しかし、言わんとすることは伝わった。

 第一試合にコールドゲームをしたこと、強豪校との対決であるということから、先の試合は香椎東の生徒が何人か応援に訪れていたという情報は慧も捺から聞いていた。梓はどうやらそこで一定層のファンを獲得してしまったようだった。

「そ、そうなんですね……」

 気の毒に、と心の中でため息をつきながらさもありなんとも思う。

 存在感がないためか気付きづらいが、梓はもともと見た目の素材は良い。中性的な顔立ちにクールな佇まい。同性も異性も惹き付ける魅力が備わっている。

 そしてあの試合も、相手投手が会場に与えたインパクトの方が強すぎて大々的に話題になってはいないが、強豪校を相手に堂々たる投球をした。観戦に訪れた自校の生徒がその姿に熱狂するのも当然かも知れない。

 しかし慧は反論を恐れながらも、思ったことをつい口に出した。

「で、でも……それなら、構ってあげればいいんじゃ……」

 これまで共に授業を聞いていた仲が豹変して襲い掛かってきたら恐ろしいことも事実だろう。それでも取って食うわけでもないのだからなにも逃げなくても良いのでは、と慧は半ば他人事のように思った。

 慧の言に梓は抑揚のない声で、しかし顔を俯けて言った。

「サインなんて、書けない」

「……な、なるほど」

 慧は思わず納得してしまった。確かに急にサインなどせがまれても上手に書けるはずもない。

 しかし、ささいなことなど気にしなさそうな梓がサインを上手に書けるかどうかを気にしているのもどこか可笑しい。もしかしたら、梓はこれからもっと人気者になるかも知れない。そんな予感がした。

 梓には人気を獲得するだけの実力も備わっている。あの試合で見せつけた完璧な投球。ミスさえなければ梓の活躍はチームを大金星へ導いたかも知れないのだ。

 そう、ミスさえなければーー

 不意に、いくつかの光景がフラッシュバックする。

 吐き気を催す、断片的な記憶。

 嫌だ。思い出したくないーー

 記憶はどんどん鮮明になっていく。自分にとって地獄の光景である、あの映像。割り箸を持つ手が少しずつ震えを増す。

 その時。行き場をなくして虚空をさまよっていた視線が、無意識に梓の視線とぶつかった。

「す、すいません……」

 気恥ずかしくなって顔を俯ける。そんな慧に対して、梓はいつもと全く変わらない調子で言った。

「気にする必要、ない」

 さりげなく、まるで帰宅時の挨拶のように淡々と一言だけ発した梓は、次の瞬間には何事もなかったかのように再び弁当に手をつけていた。

 慧の思考は瞬間的に止まった。梓には今の思考が分かったのだろうか。もしそうだとしたらそれはエスパーの類いだ。

 しかし今、それが問題にならないほど強い一つの感情が慧の心を支配する。

 あの梓が、自分のことを気にかけてくれた。何事にも無関心に見えるあの梓が。もしかしたら誰よりも自分に負の感情を抱いているかも知れないあの梓が。

「すいません……」

 何か言わなければ。その一心で出た小さな声が耳に入ったのか、梓は弁当に向けていた顔を上げた。その目は、慧の言わんとすることがあまりよく理解できていないようだった。

「……ありがとう、ございます」

 次の瞬間、慧の口からは自分でも理由が分からないほど素直に、その言葉が出た。梓は今度こそ目を丸くする。

「……別に」

 そっけなく答え、梓はまた元通り弁当を食べ始める。

 無言の時間はまたしても訪れた。しかしその沈黙は、今度は慧に気まずさや重苦しさを与えることはなかった。

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