バント
「バント……?」
「そう、バント」
捺の顔は真剣そのもので、慧は返す言葉を失う。
合宿二日目。朝のミーティングで、この日は打撃練習をひたすら行う、ということに決まった。前日とは打って変わって攻撃一辺倒のメニュー。その場でさくさくと順番も決まり、慧は一番手を務めることになった。
練習だし、そんなに緊張しないで出来そうだ――。
などと考えていた慧は、捺の提案により混乱に陥れられる。
「ちゃんと教えてなかったからね。この機会に慧にはバントをマスターしてもらおうと思って」
「は、はあ……」
「人数少ないし時間はたっぷりあるから、ちゃんとスイングする時間帯も用意するわ。ただ、最初の何周かはバントに励んで貰います」
「は、はい……」
正直なところ、このバッティング練習において明確なビジョンは慧には無かった。
弱点を補強するか、ストロングポイントを更に強化するか。人によって様々な目的や課題があり、それと向き合うことで自ずと目の前の練習に対しての取り組み方が見えてくる。バッティング練習であれば、例えば内角打ちの練習をするためにひたすら内角球を要求したり、どんなボールが来ても延々と逆方向に打ち続けたり、といったものがあるだろう。
しかし、慧はそのような思考を持ち合わせてはいない。そういう意味では課題を与えられることはむしろ好都合ではあった。
しかし、せっかく打撃が思う存分堪能出来るのならいっそ何も考えないで振り回してみよう、という程度の考えはあった。それを制限されるようで、この捺の提案には多少の息苦しさを感じる。
「じゃ、準備しましょうか……華凛!」
不意な呼び出しにも関わらず、顔色ひとつ変えずに華凛はやって来た。捺はすかさず一年生に指示を出す。
「慧にバントの仕方を教えてあげて。時間はたっぷり使って良いから」
「……分かりました」
少しの間を置いて華凛は承諾する。その様子は何か思うところがあるように慧には感じられたが、直ぐにそれは思考から追い出されることとなった。
「もっと!もっとバットに目線を近づけて」
「え……こ、こう……?」
視界の下半分を金属バットが埋める。残りの半分はマウンドより近い位置に立つ華凛が埋めた。
「そう。姿勢は良いわ。それじゃそのまま構えて。投げるから」
「え!?」
思わず慧は構えを解除した。このままボールを投げられたらどうなるか反射的に理解してしまったからだ。
「どうしたの。早く構えて」
急かす華凛。しかし慧の腰は完全に引けてしまっている。
「だ、だって……これってバットに当てなきゃいけないんだよね……こんなバットの近くで構えるなんて、こわいよ……無理だよ……」
こんな姿勢でもしもボールにバットを当てることが出来なければ、ボールは目の前を通過していく事になる。例え当てることに成功しても、ボールはあらぬ方向に飛んで行くかも知れない。その時、もしかしたら顔面に飛んでくるかも知れない。こんな石の塊みたいなもの、飛んで来たらひとたまりもない。
「大丈夫よ。ゆっくり投げるから」
「うぅ……」
言葉とは裏腹に、スパルタ式の華凛にはこの怯える姿を哀れんで遠慮してくれる気配など微塵も無い。有無を言わさず第一球を投じて来た。飛んで来る石の塊に対して慧は、勇敢にもバットを引かずに立ち向かった。懸命にボールとバットを相対させ、フェアグラウンド内にボールを転がすことに成功した。
「やったっ……!」
思わず歓喜の声が漏れる。しかし直後、正反対の質を伴う声が華凛から飛び出す。
「ちょっと、何やってるの!」
「え……?」
「構えがめちゃくちゃよ。ボールとバット離れちゃってるし、逃げ腰だし」
「そんな……」
目の前にボールが向かってくる。そのあまりの恐怖により、慧本人も気付かないままに、教わった構えは完全に解かれていたのだ。華凛は無言で、早足で慧に接近してくる。
「ちょ、まって……」
慧の制止などお構い無しに、まず両手を掴み、バットを水平に構えさせる。次に両足を広げ、中腰に固定。みるみるうちにフォームを形作る。
「まずはこの姿勢!このまま動かないで、じっとしてて」
慧の取った――強引に取らされた構えはバットを構えながらも投手と正対する、いわゆる『送りバント』の構えだった。窮屈さを覚えながらも、言われるがまま固まる慧。
「ふえっ……!?」
直後、慧は危うく出来上がったばかりの構えを解除しそうになる。
指示だけしてすぐに離れてしまった華凛が、目の前で既に投球フォームに入っているのだ。しかもマウンドと半分程度の距離しかない、超至近距離。
怖い――。
慧にあるのはその一心だけ。目を塞ぎたい。何ならバットを置き去りにして走り去りたい。
「――えっ?」
しかし、眼前に映る景色は慧の妄想と違っていた。
ゆったりとしたフォームから放たれる、実にゆっくりとした山なりのボール。それは慧の構えるバットに、寸分の狂い無く辿り着いた。慧が何をするでもなく、勝手にボールはバットに当たり直下の地面を転がる。
拾わなくちゃ。反射的に目の前のボールに手を伸ばそうとした慧の行動を。
「動かないで」
いつの間にか慧よりもボールとの距離を詰めていた華凛が制した。
「まずはこのやり方で感覚を掴んで貰うわ。次、行くわよ」
ボールを拾ったと思ったら次の瞬間には投球位置に戻り、次の一球を投じる。
慧はひたすら、ずっと同じ姿勢を取り続けているだけ。そこに何球も何球も、同じ軌道でボールは投げ込まれた。
慧は、暫くの間繰り返されるその行為をただ黙って見ていた。せっかちに動き続ける華凛を見続けていた。
当事者のはずなのに、何もしていない。まるで華凛が正確にバットに当てるための練習かのような気さえしてくる。居心地の悪さが次第に大きくなり、華凛に問い掛けをする。この行為にいったい何の意味があるのか――。
「さ、そろそろ良いかしら」
慧の発声を遮るタイミングで、華凛からの問い掛け。不意を打たれて慧は上手く発言出来ない。
「か、華凛、ちゃん……」
華凛は、慧の返答を待たずしてこちらに向き直った。気付けば今まで投球を繰り返した位置から倍近く離れている。
「さ、行くわよ!」
そう言うなり、セットポジションから足を大きく上げ、腕を振る。放たれたボールはガスバーナーのような細い音を立てて接近してくる。
「ひゃっ――!」
慧は全力で目を瞑り、勢いで尻餅を付いた。バックネットからはボールが衝突する音がした。
「ちょっと、逃げちゃ駄目でしょ!」
華凛の怒号が聞こえてくる。しかし、それを意識の中に捉えることは出来ない。高鳴る心臓の音だけがただひたすらに聞こえていた。
こんな速いの、触れるはずない――!
無理だよ――!
パニックに陥る思考。目の焦点が合わない。足の震えが止まらない。あんな石の塊が急速に向かって来て、怖くない方がおかしい――。
目まぐるしく動く思考は、差し出された手によって不意に止められる。慧はその手の主を見上げた。
「か……華凛ちゃん……」
「……」
華凛は無言で、真っ直ぐ慧を見据える。慧の手を取り引っ張り起こしてから、ゆっくりと告げる。
「さっきと違うのは速度だけだから。同じようにただ構えて立っていれば良い。そうすればきっとコツが掴めるわ……だから、怖がらないで」
その言葉に慧はハッとする。華凛に言葉を掛けようとしたが、もう華凛は投球位置に戻ってしまった。
慧の中で、点と点とが線で結び付く。
――ただ黙って固まっていたさっきの練習は。フォーム固め。この距離、このスピードでバントが出来るようになるための下地作り。
慧は無意識の内に構えに入っていた。先程華凛に教え込まれた、投手と正対する構え。送りバントの構え。
――怖がっちゃいけない。きっと華凛ちゃんは、構えたところにボールを投げてくれる。ここで怖がっちゃ、さっきまで一生懸命ひとりで動いていた華凛ちゃんの頑張りが無駄になる。意味も分からずただぼーっとしていたわたしのせいで、華凛ちゃんの頑張りがかき消えちゃうのは、嫌だ。
華凛は投球モーションに入っていた。先程同様のスピードボールが来ることは容易に想像出来る。
しかし、慧は動かない。手も足も震えるが、必死に固定する。華凛の指示の意味が解った以上、応えるにはこれしかない。
――来る。来るな。逃げたい。嫌だ。
来い。来い、来い、来い――!
コツッ、と音がした。
その音の出所、ボールとバットの接合の瞬間を、慧の両目はしかと捉えた。刹那の葛藤の末、瞬きが許されないことに決まった慧の両目は、三塁線内側を2、3メートル程転がったボールの行方を追うことが出来た。
「あっ――」
不意に声が漏れる。慧の中で、何か大事な感触がやって来た気がした。
「やったわね、慧」
晴れやかな笑みを浮かべる華凛。ボールを取りに近付こうとした次の瞬間、その胸にふわりとした送球が届く。供給した張本人である慧は、ドギマギした様子を隠せないまま華凛に告げた。
「華凛ちゃん、ありがとう……そ、その……もういっかい、いいかな……?」
予想外の慧の態度に今度はいたずらっぽく微笑を浮かべた。
「そうこなくっちゃ」
華凛は遠慮なく速度あるボールを投げ込む。慧は逃げずにバントを成功させた。
他のメンバーが全力でスイングを繰り返す中、慧だけは必死に、華凛を相手にバント練習を繰り返す。スイングする時間を作るのを忘れる程、慧は夢中になっていた。仲間の協力を受けて身に付いた新たな技術。これを自分のものにしてしまおうと一心不乱に取り組んだ。
慧が野球に関するひとつのことにここまで没頭したのは、野球を始めてからは初めてかも知れなかった。




