一日が過ぎ
一年生集団は床に倒れ伏し、指先を動かすことも叶わない。慧も豊も、華凛までもが目から生気を失っていた。
3人は辛うじて動く眼で、目に映る光景をただぼんやりと眺めていた。
そこにはエプロン姿の千春。温かい白米、味噌汁、肉じゃがに油淋鶏、ロールキャベツ。失われた食欲を呼び起こす芳醇な香りを携え、次々に料理がテーブルに運ばれて行く。
「すごい、ね……」
「うん……」
「っすね……」
その匂いに釣られ、3人は短いながらも言葉を発した。
自棄になり、と言えば語弊があるかも知れないが、盲目的に買い漁った食材であることは事実。最終的には開き直ったものの、多少の後ろめたさがあるのもまた事実だった。
しかし千春は、何の問題もなく調理をこなした。その手際には流石、上級生の貫禄、というものを感じずにはいられなかった。
――まして今日の練習は、これまでとは一線を画す厳しいものだったと言うのに。
慧は今日起こったことを思い出し、それだけで体の節々が悲鳴を上げた。合宿一日目。初日である今日は守備練習をメインに執り行われた。終日ノッカー役を務めた捺が延々と、ただひたすらにノックを打ち続け、それぞれ守備に就いた皆は打球をひたすら追い掛けた。
人数が9人ギリギリである香椎東。内外野関係なく、次から次へと休む間も無くボールが飛んで来た。右へ左へ、前へ後ろへと走り回り、慧の体力は限界を大きく超えていた。
キャッチャー役と内野を交互に務めた豊も、実力と体力を兼ね備え多少の厳しい練習には耐性のあるはずの華凛さえも慧同様、ヘトヘトになっている。今日の練習のハードさを考えればそれは当然のことだった。
しかし、夕食の支度をしている千春は平気な顔で作業を続けている。やがて手伝いに訪れた清や直子、梓といった面々も、今の今まで激しい練習を行ったとは思えない立ち居振る舞いだ。
唯一、文乃は若干疲労のある様子だったが、それでも食卓の用意をする程度には動けている。
上級生、恐るべし。一年生集団は改めて尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「ごちそうさまでした!」
満足感に満ちた至福の声が部屋を満たす。千春の料理に所謂ハズレは一品たりとも存在せず、完食出来ない者は誰もいなかった。
「さすが千春。花嫁に一番近いわね」
「この程度であればこなせなければいけませんよ。捺」
千春は事も無げに答える。その声には自慢や尊大さなど微塵も感じ取れない。恐らく、彼女にとっては本当に些細なことなのだろう。
「勉強させてもらうわ……じゃあ華凛、慧。片付けよろしくね」
唐突に一年生に仕事を振り、捺はさっさと部屋から出て行った。
そう言えば食事前も捺だけはこの場に姿を現さなかった。微かな引っ掛かりを覚えながらも、慧は与えられた仕事をこなすために立ち上がった。
「うぅ……まだ腕がうまく動かないよ……」
「そうね。流石に合宿と銘打つだけのことはあるわ」
二言三言、短く話しながら給湯室で人数分の皿を洗う。9人分のため数はそれなりに多い。水切りカゴには整然と皿が並べられていった。
夕食は部室にて行ったが、学校から許可を貰い、今回の合宿では部室の他に二部屋の空き部屋が開放されている。部室と合わせた合計3部屋を3人ずつで使用することになっていた。
慧と華凛が後片付けをしている間、夕食後の部室にそのまま残るメンバーも居れば、空き部屋に移動するメンバー、シャワーを浴びに行くメンバーと、皆思い思いの行動をしていた。
「……そう言えば、慧」
「な、なに?華凛ちゃん」
華凛は突如声のトーンを落とす。ただならぬその様子を慧は訝った。
「……聞いたことある?この学校には、出るっていう噂」
「え……?」
華凛の口から出た言葉は、慧の想像しないものだった。
「で、出る、って……いったいなにが……?」
「霊よ」
ストレートに華凛は言い放つ。言葉に詰まる慧をよそに、華凛は静かに語り始めた。
「……この学校はかつて運動部が盛んだった。今日みたいに合宿が行われるのも珍しくなかったみたいだわ……そこでは合宿ならではの激しい練習が行われるのが常だったんだけど、中にはそれについて行けなくなる生徒もいたみたい。夜中に逃げ出したり、なんてこともあったらしいわ……」
遠い目をして華凛は語り続ける。慧はどことなく居心地の悪さを感じ始めていた。
「……ある日、厳しい練習に耐えられなかった陸上部の生徒が、夜中にグラウンド奥の金網から脱出を計ったみたい……なぜ正門から出て行こうとしなかったかは、誰も分からないわ」
「……」
既に皿洗いは全て終了している。それでも止まらない華凛の語りを、慧は黙って聞いている他になかった。
「……金網を乗り越えていざ逃げようと飛び降りたその瞬間……首のネックレスが金網に掛かって、首吊りの格好になったの。そしてそのまま……彼女は帰らぬ人となった……以来、この学校にはその生徒の無念が……霊となって残留している、と言われているわ……」
俯きながらゆっくりと語っていた華凛は、そこでさっと顔を上げた。唐突な動作に慧は思わず肩を震わせる。
「……片付けも終わったことだし、シャワーにでも行きましょうか」
「こ……こんな話聞いたあとでいけっこないよ……」
「大丈夫よ、私もいるし。ちなみにシャワー室は部室棟の奥だけど、例の金網はそこからすぐだわ」
「よ、余計こわいよ!」
すっかり恐怖を植え付けられてしまった慧。なんでいきなりこんな話を始めたのか。頭の中で疑問をぐるぐると回しながらシャワー室へ向かう華凛に付いて行き、シャワーを浴びるタイミング以外、部屋に戻るまで常に華凛の左腕をガッチリと掴んで離さなかった。
しかし、体は正直だった。部屋に辿り着くや否や一日の疲れがどっと慧を襲い、恐怖さえも関係無く、無意識のまま深い眠りに落ちていた。