香椎東対天神商業13
「おっ、ピッチャー代わったか」
真っ先に変化に気づいたのは直子だった。その声に釣られ皆一様にマウンドを見る。
投球練習を行っているのはサイドスローの右腕。前の回までその場所にいた悠莉はライトのポジションで外野のボール回しに参加していた。
「ってことはこれが天神商業の二番手か」
「そうみたいね」
直子への相槌もそこそこに、捺はライトに就く悠莉の方を見る。
「悠莉、まだ出る気なのね」
「そうだな。大会期間中なんだし、もう下がって肩のクールダウンに充てれば良いのに」
「それはその通りだと思いますが」
元同級生の会話に千春が割り込んだ。どこか敬意を払うかのように続ける。
「先発ピッチャーでありながらあの方は三番を打っていた。天神商業の三番であるという事に一種の責任感を持っているのでは?」
「……そうかしらね」
千春の率直な意見に、捺は遠い目をして答えた。確かに悠莉にはそういうところがあった。近いようで遠い記憶を引き出そうとする。
「それか、あたしらにやられっぱなしはシャクだからやり返そうと思ってるんじゃねーの?」
直子も率直な想像を述べる。捺は思わずクスリと笑った。
「それもあるかもね。いずれにせよ悠莉にも何か考えがあるんでしょう、今は新しいピッチャーの攻略に努めましょう」
昔のことを思い出すのを止め、目の前の相手に集中した。
「ああ……ピッチャー代わったのか」
打席に入る直前に豊はようやく認識した。しかし、今、豊はそのことにあまり興味が持てなかった。捺と華凛の言葉が再度頭をよぎる。梓のボールが脳内で再生される。巡る思考にただただ惑う。自分は本当はどうしたいのか。
――野球はしたくない、はずなんすよね……。
バットを握る手を一度離し、両の掌を見た。自分一人で夜な夜な作り上げた数多のマメ。
自分はなんで素振りばっかり繰り返していたのか。何を目指していたのか。心の中で念仏のように唱えながら構える。マウンドからは早くも初球が投じられた。
「くっ……!」
初球から手を出していく。打球は真後ろに飛び、ガシャンとネットを鳴らした。
実際にボールを打つこの感覚。軟球とは違うこの感覚。繰り返した素振りを思い出し、またバットを構える。打てども打てども立て続けにボールは放られる。一球、二球、三球。豊は全く選球せず全てのボールに手を出す。しかし打球は前に飛ばず、ひたすらバックネットを鳴らし続ける。
この感覚。活きた球を打つ、この感覚。豊の脳裏には過去の記憶が微かによぎった。独裁政治を行う監督。いたずらに管理され、実力の何分の一も発揮出来ないチームメイト。
「くっ……!」
たちまち脳内を覆い尽くそうとするそれを必死に振り払う。代わったばかりの相手投手はもう十球を超えただろうか。そして、自分はもはや何回スイングしたのかも分からない。豊は思わず苦笑する。打席を外してヘルメットを取り、汗を拭く。
ふと、ベンチを見る。直子が、捺が、皆がこちらをじっと見ていた。皆は今何を思っているのだろう。それはこちらからでは分からなかった。
「……ああ、やだやだ。面白くないもんっすね」
苦笑しながら、豊は気づいてしまった。と言うより気づかないふりをしていたが、とうとう無視出来なかった。スイングする度に高揚する自分を。
何にも縛られない。邪魔されない。明確な目標に向かう存在もどうやら居る。
あの頃と今は、もしかしたら違うのかも知れない。
その時、相手投手が何球目か分からないボールを投じてきた。
「全く、うざったい……!」
悪態がこぼれるのと同時に、バットの芯とボールがぶつかる。ピッチャーの足元を痛烈なゴロが破っていった。
「やったー! ナイスバッティン!」
「やるー!」
ベンチから上がる歓声。豊は一塁ベースを回りながら打球を確認し、やがて帰塁する。歓声は聞こえているが反応は示さない。ヘルメットのつばを触り下を向く。
「……全く、うざったい」
ファーストを守る堀川にすら聞こえないであろう極小のボリュームで呟く。
野球は続けない。今一度心で宣言するが、昂る気持ちはひたすらに心臓を叩き続けていた。