香椎東対天神商業10
大いなる威圧感が場を包む。
その雰囲気、緩やかな動作、むしろ穏やかにさえ見える眼差しすらただただ脅威。満塁という勝負を避けられない場面で、福岡ナンバーワンスラッガーたる堀川彩へ打席が回って来た。
豊は二巡目の打者に対して、第一打席の反応から攻めの方針を決定する傾向があると自覚しているが、堀川の第一打席からはその狙いがあまりにも掴めなかったため、ここで改めて正式な勝負を仕掛けることになる。
威圧感を一身に受けながら組み立てを必死に考える。ふと、その視界に、こちらへ向けて両手を振っている影が映った。
「た、タイム……!」
豊はとっさに球審へタイムを要求し、影が向かうマウンドへと駆け寄る。その他の内野陣も集結し、自然とマウンドに円陣が結成された。
「ど、どうかしたっすか……?」
豊は影の正体である捺を怪訝そうに問いただす。
「うん、ここがタイムの取りどころと思ってね」
捺は、打席から外してゆっくりとフォームの確認を行っている堀川をちらりと見る。
「この場面で堀川さん……確かに困った状況よね」
「まあ、そうっすね」
「ん。でもいい機会じゃない。勝負しちゃえば?」
「えっ……?」
突拍子もない発言に思わず声が上ずる。
「そ、そりゃあ満塁だしある程度勝負にいかなきゃならないっすが……ここでいう「勝負」って……なんですか、まさかゾーンの中で勝負しろ、ってこと言ってます……?」
恐る恐る尋ねる。捺はリラックスしているかのような姿勢を崩さない。
「そこまでは言わないわよ。ただ、押し出しオーケーじゃなくて打ち取る気で行ってみれば? ってこと。滅多にないわよ。こんなバッターとこんな状況で勝負できるのって」
「ま、まあそれはそうですが……それで良いなら良いっすけど……」
「うん。バックはちゃんと守るから大丈夫。ね、みんな」
捺は内野陣を見回した。真っ先に頷いたのは千春だった。
「勿論です。特に三遊間はやすやすと破られるわけにはいきませんね、捺」
千春は意気揚々と応えた。続いて華凛が重く頷いた。一塁方向に飛んで来た打球はなんとしても抑えるという決意がその表情には滲んでいる。
「でも……打球、はやいんじゃないかな……少しこわいな……」
そんな中、文乃はひとり不安な面持ちを見せた。
「なに言ってんのアンタはっ! そんなこと言って簡単に捌くくせにっ!」
「か、簡単にはさばかないよ……って痛いいたい……!」
弱気な文乃はすぐさま捺にじゃれつかれる。不安そうにしているものの「対応出来ない」とは言わないのである程度の自信はあるのだろう。
「ってことで、安心して真っ向勝負しなさい!」
最後に豊の背中を一層強く叩き、捺はポジションに戻る。他の内野陣も一様に持ち場へ戻り、マウンドには豊と梓の二人だけとなった。
「真っ向勝負、っていっても……」
掻けない頭を押さえながら、梓をちらと見る。
「……」
梓は何も言わない。どこを見ているのか分からない目をして、ただそこに佇んでいる。その表情からは、梓の気持ちを読むことは出来なかった。
「ま、ひとまずよろしくっす」
余計な詮索は止め、一言だけ残し豊も持ち場へと戻った。マスクを被り直し、ホームベース前にしゃがみこむ。
「しかしあの部長サンは……けっこうなタマっすね」
これは大会ではない、ただの練習試合だということは勿論解っている。しかし、どうしても打たれたくないという本能もまた抑えられない。
しかし、捺はそれを感じさせない。まるで全く別の何かを見ているようだった。
――ま、いいか。とにかく本気でいかなきゃ、まずいですからね……!
豊はすぐに気持ちを切り替えた。すでに場は全てを圧迫する気配で充ちていた。堀川が打席に入っている。
嫌な空気を振り払うべく、豊は外角にボール一個分外れたところへストレートを要求した。第一打席と同様のボール。梓の正確無比なコントロールにより、豊はミットを動かすことなくそれを捕球する。
その瞬間、これまでより一際鋭く、心地良く乾いた音が場に響き渡った。一段と増した球の威力に豊は目を見開く。マウンド上の梓に特別変わった様子は見られないが、放たれたボールは明らかにギアを一つ上げていた。
――なんだなんだ……こんな球も投げれるんすかこのヒトは……! あんな関心なさげな顔しといて……バリバリやる気じゃないすか!
思わず口元が歪む。心の中を支配する、気が違える程の悦びに思わず体を震わせる。豊はたったの一球で確信を持った。
相手があの堀川だろうと、これなら勝負出来る。
一心不乱にサインを出す。今の投球よりボール一個分中へ。外いっぱい、ゾーンギリギリ。決して手が出ない、威力充分のストレート。
気持ちを昂らせて構える豊のミットに。
しかしボールは到達しなかった。
「なっ――」
閃光のように鳴ったと思った直後には消え入りそうな金属音。瞬間、視界を遮ったような気がした異物の正体がフォロースルー後のバットだと気づく。そして、ミットの中に存在しないボール。
一連の情報を整理し、やがて辿り着いた結論。
打たれたと。
そう豊の頭が理解した時には既に、ボールはレフトに設置された防球ネットを遥か越え、コンクリートにコツンと着弾する音だけが返ってきた。