香椎東対天神商業3
場に充満する威圧感をひしひしと感じながら、豊はミットを構える。
天神商業四番、堀川彩。恐らく現時点で、福岡ナンバーワンスラッガー。この名前は豊も耳にしたことがあった。
改めて姿を見ると、高身長ではあるものの、さして筋肉質のようには見えない。体格で言えば今レフトを守っている清の方が遥かに逞しいだろう。
しかし、彼女の放つ威圧感は、先程相対した吉松蓮花のものよりさらに別格。凄まじいまでの重圧をグラウンド中に与えている。
豊はふとマウンド上の梓を見る。彼女は無言で、視線で豊に初球のサインを促してきた。
――なんて頼もしい。このヒト、ほんとに不思議なヒトですが……ここはとりあえず、甘えましょうかね!
豊が提示した初球の要求は外角いっぱいのストレート。蓮花に対しても投じた球種、そしてコースだった。場を支配するどんよりした気配に反するように、豊のミットが気持ちの良い音を鳴らす。
「ストライク!」
球審のコールが響き渡る。先程同様ゾーンすれすれの位置だが、今度はストライクと判断してくれたようだ。梓に素早くボールを返しながら、豊は堀川の様子を注視する。
――今のボールに何の反応も示さない……内角を待っているのか?
打席の堀川は、初球に対して微動だにしなかった。そのリアクションを受け、豊は一瞬の間を置き急いで整理する。
――いつもなら試しに内に投げてみるもんですが、さすがに相手が相手……ここはもう一球外に、今度は外して様子を見るっすよ……!
方針が定まり、豊はサインを送る。ひとつ頷いた梓が投じたのは、外角。ストライクからボールになるスライダーだった。
「ボール!」
堀川のバットはまたも反応を示さない。やはり内角を待っている、と判断した豊は三球目、初球と全く同じコースにストレートを要求した。
キレ良く豊のミットに収まるボールを、堀川は打つ気がないかのように見送る。その様子を察知した豊は、梓への返球後、思わず下を向いた。
――なんだ、コレ……まさか本当に打つ気がないのか? それともひたすら内を待っている……? 確か、特定のコースだけに張り続けるようなバッターじゃないはずなんですけどね。
いくら考えても堀川の振る舞いからはその内容が読めなかった。
――この感じならもう一球外で大丈夫か……? いや、それを誘うために無関心を装ってるのかも……でも、それなら内のケアはどう考えている? ああもう、ごちゃごちゃしてきた……!
やけになり頭を掻こうとするもヘルメットに弾かれる。瞬間、気恥ずかしさで顔が赤くなる豊だが、その行為が幸いし開き直りを得ることが出来た。
――ま、いっか。いったんは感じたままにやりましょ!
豊の決定は、初球と同じ外角ストレート。それは梓によって、初球と全く同じコースに投じられた。
「……ストライク!バッターアウト!」
結果は、見逃し三振。堀川のバットはやはりピクリとも動かなかった。生じていた不穏な気配はやがてたち消え、堀川は無表情のままベンチに引き上げる。豊はその様子を視線で追う。顔には怪訝な色が浮かび上がっていた。
――なんなんだ、いったい……? 何か狙いがあるのか、それとも。
――そもそもやる気がない、のか……?
「やるじゃない、あなた達!」
いつまでもホームベースから動かない豊の背中を、捺の手が叩く。
「いたっ」
不意打ちへの驚きと痛みで堀川に対する考察も消え、捺の方へと振り返る。その視界に背中を気にしながらベンチへと引き上げる梓の姿が映った。どうやら同じように叩かれたらしい。
「ったく、力込めすぎっすよ……とりあえず、褒めるならピッチャーの方を褒めたらいいんじゃないっすかね」
「だからあなた『達』って言ったじゃない」
「そうすか……それより、今の打席」
豊は呆れ顔から瞬時に真剣な表情に切り替える。
「あの堀川の見逃し方……何とも思わなかったっすか?」
正体は掴めていないが違和感があったのは確か。豊は捺にその感想を聞いてみたい気持ちがあった。
「うーん、肩でもこってるんじゃない?」
しかし捺から返って来たのは、随分あっさりしたものだった。
「えっ……ちょ、ふざけてるんすか!? そんなアホみたいな理由が……」
「あるかも知れないじゃない。ほらあの娘、肩こりそうな胸回りしてるし」
「そ、そりゃまあ確かにあれは羨ましくもあるような……って、そうじゃなくて!」
「ま、つまり詮索する必要なんてないってことよ」
「……!」
まるで豊の言いたいことを見透かしたかのように、捺は二の句を制した。
「相手がどうあれ、こっちは最善を尽くすだけよ。その結果がこの見逃し三振。素晴らしいじゃない」
事もなげに捺は言い放った。豊は反論出来ずにただ黙るしかなかった。
「さ、今度は攻撃よ。先にさくっと点取っときましょ」
そう言って、捺は豊を促す。豊は黙って気分良さげにベンチへと向かう捺の後ろをついて行った。
「っしゃ! さっきの誰かさんと違って、あたしはきっちりスタンドまで運ぶから覚悟しな!」
直子は声を張り上げながらバットを右へ左へヌンチャクのように派手に振り回し、一番バッターとして右打席に入った。しかしそんな渾身のパフォーマンスを誰も称賛などしてくれず、マウンドの悠莉に至ってはそっぽを向いている。
「……おい、なんか言えっての!」
「あら、直子じゃない。ひさしぶりね。元気してた?」
「なんつーわざとらしい……まあいいや。さっきゲッツー食らいかけた誰かさんと違って、あたしはきっちりスタンドまで運んであげるからさっさと投げてちょ」
言いたいことを言ってから一度、二度、ポンポンとバットでホームベースをつつき、ゆっくりと構える。その言葉を聞いた悠莉は糸が切れた人形のようにダラリと両腕を下げ、やがて体の前で組んでからポツポツと呟き出した。
「……似たようなセリフを二回も繰り返してアホなのかと疑ったけど、そうね。直子だものね」
「おいおい、どういう意味だよ!」
突っ込みに反応する素振りなく、組まれた腕を振り上げながら続ける。
「ところでさっきの『誰かさん』っていうのが誰のことを言ってるのかよく分からないけど。バットに当たんなくても……せいぜい泣かないことね!」
烈火のごとき怒号と共に、悠莉が第一球を投じた。これが一回の裏香椎東の攻撃、初球。
「らあっ!」
直子の鋭いスイングがボールを捉えるも、三塁線のファールになる。
「あれ、球遅くなった? 前のスピードならちょうどレフトスタンド行きのタイミングだったんだけどなー」
「ちっ、いちいちと……うっさいわね!」
立て続けに第二球。またも鋭い打球が三塁線を襲う。
「かーっ、おしい……」
直子はグリップを両手から離し、快音を残したバットの芯を掴んだ。もう少しだったのに、という無念を、掌を冷やすことで落ち着かせる。
「まあいいや、次はちゃんとフェアゾーンに入れるもんね」
早く投げて来い、という思いを表現すべく素早く構える。悠莉は無言で、軽く手で遊ばせたロージンを脇に投げ、三球目を投じようと振りかぶった。
「……!」
その瞬間、直子は感じた。悠莉から発せられる気が、これまでの二球と明らかに違う。
――なるほどね。確かに、天神商業の一番手を務めるからには普通のピッチャーであるはずない。とすれば、来るか。決め球が……!
自然とバットを握る手に力が入る。しなやかな腕の振りから、ボールは今まさに放たれた。
直子はそれを迎え撃つ。コースは内角寄り、これまでの二球となんら変わった様子は無い。
「甘い……もらった!」
まるで絶好球にしか見えない。しかし、スイングを始めた直後、ボールは直子の期待を裏切った。
「なんだこれ……う、動く……!」
まるで蛇のように艶めかしく軌道をくねらせる。ボールについて行くこと叶わず、直子のバットはあえなく空を切った。
「ふんっ……おととい出直してきなさい!」
「ぐっ……」
鼻息荒く悠莉の勝利宣言が飛び出す。直子は大人しくベンチへ下がるしかなかった。
「くそー……」
「あの三球目って、けっこう……打てない感じ……?」
肩を落として戻ってくる直子と入れ替わりで打席に向かう文乃は、すがるように問い掛けた。
「あれはちと難しい。やるならあれが来る前に仕留めるしかないな、それか待球してフォアボール狙いか。とりあえずコースはアバウトだから打てそうならガンガン手出してけばいいよ」
「わ、わかったよ……」
落ち込んでいた様子はどこへやら、何事もなかったかのように早口でまくし立てる直子の各種アドバイスを聞き、文乃はなんとなく攻略の糸口が掴めた気になった。
しかし、結局のところ積極的に打ちに行くべきかじっくり選球して行くべきか、どちらにすべきか考えが纏まっていないことに気づいたのは打席に入った後だった。
「ストライク!バッターアウト!」
「うぅ……」
なす術なく打ち取られた文乃はすごすごと引き上げる。その正面から向かってくる影に文乃は思わずビクリと肩を震わせた。
「どう? イメージ出来た?」
「えっ、イメージって、なんの……?」
影の正体である捺はその問いにサラリと答えた。
「そりゃあ、次の打席で打つイメージよ」
「えっ……ちょっと、難しい……かな……」
「まったく素直なんだから。『次は打ってやるんだからっ!』くらい言っとけばいいのに」
「そんな、出来るかわかんないこと、言えないよ……」
「ふふっ……まあいいわ」
追撃が来ることを恐れ身構える文乃だったが、幸い、捺は文乃を引っ捕らえてなじるような事はせずに打席に向かう。ホッとしながらも文乃はその頼もしい後ろ姿をしばらく見つめ、やがてベンチへ下がった。
「こうして対戦するのは久しぶりね」
「捺……この日をどんなにか待ったわ」
メラメラ燃えるという表現がピッタリな程、悠莉には捺を打ち取らんとする気迫が満ちていた。対する捺は、あくまでも冷静に相対する。
「じゃあさっそくで悪いけど……死んでもらうわ! 捺!」
「ちょ、物騒ね……」
力の限り振りかぶる悠莉を、普段通りの構えで迎える。
その瞬間、守備に就く天神商業メンバーのうち数名が危険な空気を発したのを捺は悟った。どうやら自分を要注意人物として認めてくれたか、若干嬉しくなりつつもより気を引き締める。ピリリとした緊張が一気に張り詰める中、悠莉はその気を感じずにか、あるいは感じた上でか、堂々と第一球を投げ込む。
「……ボール!」
左打者の外角へ沈むツーシーム。蛇のように曲がりくねりキャッチャーのミットに収まったそれは、直子を空振り三振に切って取ったボールの正体。それを悠莉は惜しむことなく初球から投じて来た。自慢気にマウンドから対戦者の顔を覗き込む。
「……良い球投げるじゃない」
しかし、捺は尚、涼しい顔を崩さなかった。今のボールであればその変化は想定の範囲内だった。
「ふっ……しらばっくれちゃって……内心ゼンゼン見えてなくてヒヤヒヤなくせに……っ!」
悠莉は第二球を投げ込む。球種は同じくツーシーム。初球よりもキレを増したそれは、今度は捺の膝元へと襲い掛かった。
「ボール!」
判定はまたもボール。しかし、初球もこの二球目も共通して、ストライクと見紛う程の際どいコースである。
「際どいわね」
そよりとした風がグラウンドを通り過ぎる。『際どい』という言葉とは裏腹に、この二球目も、捺は見切っていた。
「そう……随分と、余裕たっぷりじゃない、捺……」
悠莉の顔が歪む。捺に脅威を与えるには充分なボールを彼女はこの二球で見せつけたという自信があったのだろうか。
おもむろに、悠莉は自らの顔をグラブで隠し、立ち尽くした。
「……分かったわ」
やがて、誰にも聞こえないような音量でポソリと呟く。
「ん……?」
直後、捺の背筋にゾクリと悪寒が走る。
この感覚があった時はたいがい良いことがない。無意識に、捺は構えたバットを握り直していた。